この季節は朝と夕の散歩が気持ちいいですね。 秋だから昼も気持ちいい。
シルクのような夕映えの田んぼ道を歩きながら思ったことを、同じような境遇の方に向けて書きます。
大きな傷と哀しみを負って、それ以前のような生活ができなくなった人たちに向けて。
その深い傷を負わせた人達の悪質さとは闘い続けないといけないし、かれらの罪は消えない。
一方で、私はこのことによって、以前よりも、生きる中で自分の中の琴線がより明確になったと思います。
傷を負わずに楽しく生きている人たちには持ちえない、原動力、行動の源が、備わっていると思います。
そして、社会の中で重要な役割を果たしている人たちには、そういう人が有意に多いと思います。
ヘレン・ケラーに、「出会ったあの日は、私の魂の誕生日」と言わせたアン・サリバンも
悲惨な経験を背景にもつ女性でした。彼女の忍耐強い献身は、自身の眼の障害と子ども時代の貧困と劣悪な環境
(弟はそれで死んでいる)の犠牲者としての深い悲しみを背負っていなければ、とてもできるものではないと思います。
そしてそのような原動力をもった人は、そんなにいません。
「奇跡の人」とは、ヘレンではなくサリバンのことを指しているというのは有名な話です。
私は、ヘレン・ケラーの伝記は、彼女を世に出したサリバンの物語だと思っています。
ヘレン・ケラーはとても裕福な育ちで、恵まれていました。サリバンはその逆でした。
傷を負わせた側の醜悪さは許されないし、かれらへの免罪符には全くなりませんが
その傷を負ったせいでもちうる琴線そして原動力が、心の中にできて、だからこそ、普通の人ができないことが
できるというのも真実だと思います。原動力がないと、できないですから。
「怒り」「深い悲しみ」というのが、その主な動機です。
”正しい環境下で、正しく適応すれば、(自閉症であることは)スーパーパワーとなり得るのです”
(グレタ・トゥーンベリの 本人Facebook 4/2の投稿より)
これも間違いないし、怒りと深い悲しみも、スーパーパワーとなり得る。
私はその両方持っています。