蚤の市が好きなのですが、それは蚤の市がもつ色んな要素が、私が好きなものだからです。
そこに置いてあるものは、全部1個物です。たまに例外はあるけど、そこにあるのはそれ1つだけです。
だから、その子、その存在との出会いなんです。中古ピアノや古着屋さんが好きなのもそうです。
その子と出会って触って買うというのは、品番・型番で注文して、倉庫の中から1つ持ってくるというのとは違います。
その服に出会って、それを着てみて、それを気に入って、それを買う。
あと、古物商人たちが自営業で、会社の組織人とは違う自由な風が吹いているのも、好きです。
かれらは型にはまった杓子定規なしゃべり方などしませんから。くだけた口調です。
その言葉は、直接です。かれの口から出てくる言葉とかれの間に、他の人達は介在しません。
組織のサラリーマンやひらめ公務員ではないから、1対1で話せます。価格交渉も、目の前の人間との駆け引きです。
そういうのって、本来は当たり前のことなんだけど、それが今では稀なものになっています。
目の前の人間と、出会いがあって、その場での人間関係ができて、駆引きをして。
間にたくさんのものが介入すると、1対1の人間的なやりとりが、できないです。直接の人と人の対面、それが本来です。
こういうのを、学者の人は生身性といったりするでしょう。これに反対なのが、記号 かな。
今の日本は記号だらけで生身性が追いやられるという逆転した状況となっています。
記号でものを考えることが当たり前になると、その人はとんでもないバカになると思います。
学歴が高い人や、知的な職業に就いていても、その手の人はいくらでもいます。
その記号の向こうにあるものに思いを馳せようとしない人が、記号だけを口先で滑走させていく。
あらゆる事象が記号視され、ゲーム板の駒のように軽々しく動かされ、操作され、無責任に弄ばれる。
浅はかなプラグマティズムに占拠された劣化した思考が今の日本で横行している。
We don’t have education, we have inspiration, if I was educated I would be a damn fool.
(俺たちは学がないが、インスピレーションがある。もし教育を受けていたら、とんでもないバカになっていただろう)