昨今日本において多くみられる軽骨なお年寄について。
京都大学の柴山桂太さんが、西部邁氏や中野剛志氏らとの対談で、「最近ではお年寄りが、”これからはITの時代ですよ””あなたは時代についていっていない”などと説教をする」という体験談を困惑笑い混じりに語っていたが、この類のお年寄りは今日の日本において多くみられ、非常に共感するものである。
長く生きてきたお年寄りは、その含蓄をもって、歴史の中で洗練され築かれてきた叡智、慣れてしまって見えなくなるそのありがたみ、それを一瞬で壊すことの取り返しのつかなさを警告する存在というのが昔までは相場でありそれが年長者の社会的な役割だったのが
今では、時代の流れについていっていることをアピールしたり、今あるものを簡単に破壊したがるお年寄りが増えたというものである。破壊者を喝采して持ち上げたり。
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時代のIT化、オンライン化、○○レス化、高速化…についていっていることをアピールするお年寄り。今風のファッションを身に纏い、横文字をスカして羅列してみても、必死さが痛々しい。歯止めのない資本主義や新自由主義に反対している社会運動界隈にもいる。
長く生きてきて、今失われたものをかつて見てきた含蓄や感受性をもってデーンと座っていればいいのに。浮ついたファッションで今時アピールなんかせず、自信を持って、佇んでいて欲しい。
必死でついていってるアピールをしても、新自由主義世代の若者には太刀打ちできないのだし、そのベクトルでのアピールは却ってお年寄りの価値を下げてしまう。かれらに見えていて若者には見えていないもの、かれらにできて若者には逆立ちしてもできない発想があり、そこにかれらの価値がある。それを捨てて、尻軽なことをしないで欲しい。
それは、なにも考えていないという人もいるし、お年寄りのコンプレックスというのが潜んでいるらしい。IT化は、お年寄りや少数派の人を無視して、隅の隅に追いやって、駆逐して、猛スピードで進んでいる。
現金でお給料を貰いたい人(それは感受性・思想の領域でもあるし、山奥に住んでいて近くにATMとかない人もいるし)、カードではなく現金で物を買いたい人もいるし、対面をしない形での顔の見えないやりとりが苦手な人もいるし、文字は鉛筆で書くもので、キーボードでの入力ができない人もいる。
私は、PCの扱いは詳しくないが人並みにできるけれど、文字を手で書かずに機械に入力することの危険性も頭の隅に置いている。鉛筆で紙に書くものとキーボードを叩いて入力するものの内容が同じだとは思えない。ピアノを、楽譜通りに機械で弾けばいいというものではないのと同様に。絵の具で画用紙に描くのと、イラストレーター(ソフト)で枠線の種類を選んで、色を選んで、塗りつぶして、効果加工をかけて作成するのは全く違うように。スケッチを手で描いた年賀状と、ソフトで作成し印刷した年賀状が全然違うように。おとぎ話を機械音で読むのと、人間が声で読むのとは違うように。
特にお年寄りは感受性・思想問わず、できないことで、自動的に隅に追いやられ、排除されている。だから反動として必死に追いついているアピールをしているように見えたりする。しなくていいのに。
もっと、デーンと居座って、嫌なものは嫌だ、どうしてその流れに乗らないといけないのかと抗って欲しい。そういうのを「老害」とは言わない。「時代の変化についていけない化石」という嘲笑にひるむことはなく、ついていくべきでない変化だと言えばいい。 ついていくべき変化なのか
年寄が年寄の役割を果たさず、あろうことかデストロイヤを持ち上げて、一緒になって破壊するという倒錯が起きている中で、若い人達が破壊を食い止めに入るという現象が一部みられる。
柴山先生たちのすべての思想に共鳴するものではないが、この話には非常に共感するものである。