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ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

秀吉の城下町 長浜 散策 その7

2019年02月28日 | 旅行



黒壁ガラス館の前にいます。

ここから、北国街道を北へ歩きます。

この長浜では、久しぶりに、駅から始まるハイキングMAP (JR 西日本)の長浜コースを使っています。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


少し歩くと、店がいっぱいあってにぎやかな街並みの風景がありました。





上の方の左右の常夜灯は、ステンドグラスでしょうか?⋯⋯⋯。

左側の一番手前の店は「毛利志満」近江牛を食べさせる店。

自分の牧場で肥育しているようです。

そのすぐ近くに見えるのが「monokokoro」、おしゃれな文房具、雑貨、アクセサリー等を売っているようです。

昭和レトロな食器もあります。


にぎやかな商店の雰囲気を楽しみながら歩きます。





右側に、ステンドガラスの店がありますね。

ステンドガラスを自分で作る体験教室があるようです。

いい経験になるかも。


さらに北へ行くと、つぎのような説明板がありました。








町家の建物のかげにかくれて敵と戦うという作戦。


さらに歩きます。


「今重屋敷 能舞館」がありました。





一番手前の建物です。

造り酒屋を営んでいた家です。

今は、そこの蔵を使って、能の展示場がありました。





今重家の角を左に曲がって歩きます。


十数分歩いて、「豊国神社」に着きました。

長浜ハイキングコース(JR 西日本発行)での最後の観光ポイントです。








お参りしました。

秀吉の没後に、長浜の町民がその遺徳を偲んで建立しました。

事大主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としています。


ところで、この地域には「長浜六ひょうたんめぐり」というのがあります。

豊国神社、知善院、総持寺、舎那院、長浜八幡宮、神照寺を巡って、ひょうたんを6個集めるみたいです。

(心配しなくても、ひょうたんはミニですよ)

すると、それは、家内安全、商売繁昌、開運招福、子孫繁栄につながります。

ひょうたんは、秀吉の馬印でした。

もともと縁起の良いものとされてきました。





ハイキングコースもあと少しでゴールです。

長浜駅です。





iphoneの歩数計を見ると20480歩となっていました。

よく頑張ったと、自分を褒めたいですね。

この駅から播州赤穂へ帰ります。

旅行に出るときはすごく楽しい気分になるのですが、帰るときはやっと自宅に帰れると、ホッとした気持ちになります。

しかし、数日が過ぎると、また旅行の計画を考え始めます。











秀吉の城下町 長浜 散策 その6

2019年02月25日 | 旅行



北国街道筋にある安藤家の前にいます。

室町時代からこの長浜に移り住んだ旧家で、1583年に起こった賤ヶ岳合戦では、柴田勝家と戦った秀吉に協力しました。

秀吉は、町衆のうちから、長浜の自治をまかせる「十人衆」を選び、安藤家はその十人のうちの一人になります。

さらに、江戸期には、十人衆から三年寄を選びましたが、その一人として長浜町の発展に貢献しました。

現在の建物は、明治38年から大正4年にかけて安藤與惣次郎によって建てられたものです。

虫籠窓、紅殻格子が目をひきます。

屋敷の中の庭園は、古翠園といい、巨石をあしらった池泉回遊式の庭です。

布施宇吉の作品。

北大路魯山人が手がけた装飾美でも有名です。

篆刻看板、天井絵、篆刻額、篆刻扉、襖、障子、地袋。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


安藤家の前の通りは北国街道ですが、これを北へ歩きました。

北国街道は、京都と加賀をつないでおり、長浜はその途中にあります。

長浜は、京都と加賀の文化と関係が深いと想像されます。

街道を少し歩くと、町の中に「浄琳寺」がありました。





屋根の上の太鼓櫓、2つの格子窓が目をひきます。

あの浅井長政の小谷城が落城した時、こちらに移ってきたとのこと。

境内はなく、寺のなかは見学できないそうです。

寺子屋として使われていたこともあったとは⋯⋯⋯。

すぐ先の隣には風情ある建物が並んでいました。





さらに北へ少し行くと、黒壁ガラス館に出会います。





この建物は、第百三十国立銀行長浜支店でした。

明治33年に建てられた木造洋館。

黒漆喰の外観から黒壁銀行と呼ばれ親しまれてきたそうです。

1989年に、黒壁ガラス館として新たにスタートしました。

ガラスショップ、工房、カフェ。

今は、長浜の一大観光スポットになっており、年間200万人を集めるとのことです。

国内、国外のガラス作品が見られます。

グラス、アクセサリー。ガラス製の枯れない花(チェコ製)。

ガラスのペンがあり、ペン先までガラスでできています。



ガラス館の裏にまわってみました。





ここから、右の方へ入ります。





ガラスでできたオブジェです。


ガラスの椅子にすわって少し休みました。










秀吉の城下町 長浜 散策 その5

2019年02月23日 | 旅行



大通寺の寺内の広間附玄関の前にいます。

右前方に見えるのが大通寺本堂です。









黄色の線に沿って番号順に歩きます。


山門の西側にある別の門から寺の外へ出ました。





「大通寺台所門」になります。

長浜城にあった大手門の遺構です。

門にある扇金具に、天正16年の銘があることにより、山内一豊が藩主であった時の大手門だと推測できるそうです。

大通寺の庫裏(台所)の正面に置かれているのでこの名前になりました。

山門が建築されるまでは、山門の位置にこの門があり、山門ができたのちは、現在の位置に1805年に移築されました。


台所門の前にある焼き鯖そうめんの店の「良太郎」です。





ガラス戸がおしゃれですね。何時代の建物の雰囲気でしょうか?






ここから寺の中に戻り、西側から出ました。

次に「知善院」を目指します。


約10分ほど歩いて知善院に着きました。





表門です。長浜城の搦手門の遺構。

戦国時代末期に、秀吉が長浜城を築城した時に、城の鬼門を守らせるために小谷城下から移されました。





本堂には、阿弥陀三尊像が安置され、その左手には、大坂城落城の時に持ち出された秀吉の木像が安置されているそうです。


ここから、ハイキングMAP の指示通り「曳山博物館」を目指します。


途中にあった「会津屋」です。創業元禄3年。線香、ろうそく、薫香の店。





「叶匠寿庵」カフェ。





この辺りに来て、かって昔来た時のことがうかびました。

米川の流れと小さな石の橋(針屋橋)が素晴らしい風景を作っている場所を思い出しました。

確かこの辺りという記憶だったのですが⋯⋯⋯⋯?

曳山博物館の裏の方を米川が流れています。

そこへ行ってみました。





どうも、この小さな川の遠い前方に、針屋橋があるようですから、その橋からの風景でしょう。

(場所を思い違いしていたみたいです。戻ってその場所を探すのもたいへんなのであきらめます。)


元の通りに戻ってきました。





この通りを先に進むと「曳山博物館」がありました。





秀吉に子供が生まれた際に、町民に砂金を贈り、それを資金に山車をつくったのが始まりと言われます。

秀吉によってひらかれ、大衆文化都市として栄えた長浜でした。

江戸中期には絹織物を中心とする産業が発展します。

町衆が町をつくるのだという自治都市としての気風を育み、その結果、子供歌舞伎に見られる曳山祭りなどの町衆文化が誕生しました。

豪華絢爛な曳山の舞台で、子供が歌舞伎を演じます。


この曳山博物館には4基の曳山を収蔵し、2基ずつ展示されるそうです。


ここから、ハイキングコースからそれてしまいました。

どこをどのように歩いたのかわからぬままに、「安藤家」の前に出ました。





この近くにコーヒーを飲める店を見つけたので、コーヒーブレイクします。

















秀吉の城下町 長浜 散策 その4

2019年02月21日 | 旅行



黄色の線に沿って番号順に歩きます。

昼食を食べ終わり、二の鳥居をくぐって、長浜八幡宮の拝殿の方へ行きました。





拝殿です。

この後ろに本殿があります。





参拝しました。

いつも思うのですが、2礼、2拍手、1礼だとか、いろいろ神社によって違っていて、難しいですね。

次に、「舎那院」の方へ向かいます。





舎那院は長浜八幡宮の学頭寺でありました。

八幡宮の境内とつながっています。


舎那院の本堂の前に来ました。





遅い紅葉です。(12月の中旬)

平安時代の初期の814年に、空海を開基として創建したとのこと。

16世紀の後半に、度重なる兵火をうけて、堂宇は焼失し、のちに秀吉により再興されました。

ここは、芙蓉の花で有名で、8月上旬から9月上旬にかけて、ピンクや白で、華やかです。

ちなみに、本堂の正面の左右両面に使われている扉は、旧国会議事堂から移設されたそうです。

左のほうに、小さく見えるのは「護摩堂」。


山門を通って外へ出てきました。

(たぶん、ここから入らなければいけないのでしょうね? 苦笑。)





左の石碑に愛染明王、右に阿弥陀如来とありました。

ここの本尊になると思います。

山号は「勝軍山」。


ここから、ハイキングコースを少しショートカットし、大通寺の方へ向かいます。

(JR西日本のハイキングMAPでは、「総持寺」に行くようになっています。遠いです。)



途中にあった店舗、メリヤスとあります。若い人には馴染みがないでしょうね⋯⋯⋯。





「酢長荒物店」の角まできました。





ここを右に曲がると大通寺に行きます。





大通寺の山門が見えてきました。

少し歩いて、山門の前に。





山門は、1808年ごろから造られ始め、細かい彫刻も含めると数十年かかったみたいです。

上層部と下層部の二重門です。

左右に山廊と築地塀が附属。

上層内部は板敷で、中央に須弥壇を設け、釈迦如来、弥勒菩薩、阿難尊者を安置しています。

この山門は、京都の東本願寺の山門を模して造られました。


寺内に入ります。





本堂です。

江戸時代の初期、長浜城内に大通寺は設けられました。

1649年、彦根藩の2代藩主の井伊直孝によって現在地に移転されます。

1657年に本堂が建立されました。伏見桃山城の遺構とのこと。


本堂の右側にある「仏骨奉安忠魂塔」。





本堂の左隣には、「大通寺広間附玄関」があります。





江戸時代の中期(1760年)に建立。

後ろには立派な大広間が続いているようです。大広間も伏見桃山城の遺構。


このちかくにベンチがあったので、少し休憩します。

ボヤッとながめていると、母親に連れられた小さな子が、鳩に餌をやっていました。

たくさんの鳩に追いかけられている子供の姿が、ほほえましいと感じました。







秀吉の城下町 長浜 散策 その3

2019年02月19日 | 旅行



「元祖堅ボーロ本舗」の前からウォーキングを再開します。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


ここから、「妙法寺」の方へ向かいました。

途中に「片町」の表示板があります。





この場所に建っていた「西田天香さんの生家」。





長浜市生まれの宗教家、社会事業家、政治家。



ここからすぐのところに「妙法寺」があります。





ここには、豊臣秀勝の墓がありました。





秀吉の息子の秀勝の墓です。

秀吉の息子といえば、淀殿が産んだ鶴松と秀頼が有名ですが、「秀勝」と言う名の息子だけでも養子を含めて三人もいました。

秀勝:石松丸、秀勝:織田信長の四男、秀勝:姉の子

この墓は、石松丸になります。秀吉が長浜城主の時に、側室とのあいだにもうけた子。

6歳で死亡、この妙法寺が菩提寺になります。


次に北へ歩いて、大通寺の御坊表参道に向かいました。





大通寺の表参道です。遠くに、大通寺の山門が見られます。


この辺りは金屋新町と言っていました。(天正年間“1573年から1593年”から明治12年までの町名)

秀吉の城下町造営にともないできます。

金物商人が多く住んだことに関係していました。





金屋新町のあたりから表参道をとおし、大通寺山門を見た風景。


もう少し山門寄りに歩くと、









ハイキングコースを外れて、山門の近くまで来てしまいました。

ここから元のコースに戻って、「長浜八幡宮」を目指しました。



しばらく歩くと、八幡宮の鳥居に来ます。





長浜八幡宮は、平安時代の後期の延久元年(1069年)、源義家が後三条天皇の勅願を受けて、創建したと伝えられます。

戦国時代には、度々兵火にみまわれ、社殿はほとんど消失してしまいました。

1574年に長浜城主となった羽柴秀吉により復興されます。

秀吉の男子誕生を祝って、町民が曳山をつくったのが、長浜曳山祭の始まりだとされるそうです。


この一の鳥居をくぐって歩きます。





石灯籠がずらりと並んでいました。


境内に入りました。

天満宮です。御祭神は、もちろん、菅原道真公。








境内を歩いていると、「都久夫須磨神社(つくぷすまじんじゃ)」がありました。





水の女神様で、商売繁盛の神。

才色兼備として知られており、清明正直の心を持つ人には、加護を垂れ給う神様と言われています。

池の中の島に、この神社があります。

周りの池は、「放生池」と呼びます。

この池では、毎年8月15日に、奉納されている雨乞いの行事で、池の周りに幕をはり、かがり火が焚かれ、煙幕の中から龍の姿をした蛇が登場します。

蛇は和紙で作られます。胴体まわりが約1.3m、全長10mほどだそうです。



本殿に向かおうとして、二の鳥居へ歩いていると、鯖寿司の店を見つけました。





魚屋さんがつくった鯖寿司という張り紙があり、美味しそうなので、店に入ります。

まだ、昼食を食べていなかったので、さっそく購入しました。

外に出て、どこか邪魔にならない場所で食事をすることにします。


ウォーキングは少し休憩。