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ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

秀吉の城下町 長浜 散策 その2

2019年02月17日 | 旅行



長浜鉄道スクエアの前からウォーキングを再開します。

この長浜駅舎ができた明治15年は、日本が近代化に向けて歩み始めた年でした。

長浜と敦賀間で鉄道が開通します。

この駅舎のなかは鹿鳴館調の造りで当時のモダンな空気をよく表しています。

スクエア内では、鉄道の資料がたくさん展示されており、子供は目を輝かせると思います。

(実は、私も大の鉄道ファンなのですが、朝が早くて、まだ閉まっていました。残念!)





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


この長浜鉄道スクエアと前の慶雲館に挟まれた通りは「明治ステーション通り」と言うそうです。

この通りを東に歩きます。





長浜浪漫ビールの看板が出ていました。

(楽しみですが、朝早くては飲めませんね。苦笑。)





また、例の長浜町を分ける石碑ですね。秀吉によって、年貢を免除された区域でした。

これも新しいですね。





「長浜浪漫ビール」の建物が現れました。





クラフトビール、ウィスキーを製造しているようです。

このなかでは、ビールにあう、美味しい食事も楽しめるみたいです。

長浜は水の都とも言われ、美味しいオリジナルビールができるのでしょう。


前に流れている川は「米川」です。

この川は、くねくねと曲線を描いて、長浜の町を流れています。

川辺には、あちこちに、“かわど”と呼ばれる石段があります。

家庭では野菜や漬物の洗い場として、商家では運搬や往来の手段として使われてきたようです。


この通りをさらに東へ進みます。





次のよつかどの信号を左に行くと、ハイキングmapどおりですが、さらに東へ歩きました。

好きな風景があったからです。





建物の前にあるのは「昔のガス灯」でしょうか?

左手の建物は大きな屋敷ですね。商家でしょうね?





そんなことを考えながら、ここまできました。

通り過ぎてきた、よつかどに戻ることにします。





この左右に通っている道が、「北国街道」です。

この辺りの町は「下船町」と言うようですね。





ここから右に折れて、北国街道を北へ歩きます。ハイキングコースに戻ります。


すぐに左側に、「白忠」がありました。





旅籠(宿屋)のようです。蔵の宿。

江戸時代に、白木屋忠左衛門が創業した油問屋の町屋を再生させた宿でした。

泊まってみたいですね。


ここから、さらに北国街道を北へ歩きます。

今のところ、ハイキングコースの指示通りに進んでいます。

2つ目のよつかどを右に曲がりました。


しばらく歩くと、「鍋庄商店」がありました。





明治2年以来の古い醤油の醸造の店のようです。

老舗の感じがします。


すぐ隣の「嶋崎商店」。





「萬與(まんよ)の生姜糖」の店。

長浜は、生姜を使ったお菓子が多いそうです。





店にかざってあったものです。古いものが好きな人にはお宝ものでしょう。

近所の町屋。ビスケットの看板がなんともいえません、素敵ですね。





古い看板が4枚も並んでいます。酒屋でしょうか? 看板がよく読めません⋯⋯⋯。





「丸喜屋」。北近江ならお馴染みの味の「豊公もなか」の店です。





ここから東へすぐの角で左に曲がりました。

歩いてすぐの左側に、長浜名物の「元祖堅ボーロ」の店舗がありました。





明治27年の創業。宮内庁御用達。

生姜を使ったお菓子です。



わりと長く歩いたので、ここらで休憩をとります。







秀吉の城下町 長浜 散策 その1

2019年02月15日 | 旅行
前日に宿泊した草津から、新快速近江塩津行きに乗って約50分で長浜に着きました。

今日は、十数年前にJR西日本から発行された「駅から始まるハイキングMAP (長浜コース)」を使ってウォーキングをします。





長浜駅からスタートです。

黄色の線に沿って番号順に歩きます。

最初は、「長浜城」を目指しました。

駅から歩いてすぐのところに、東海道と中仙道の道標を見つけました。





右 東海道、左 中仙道とあります。

長浜は、北は日本海にいたり、伊吹山の麓を東の方へたどると関ヶ原へ、南を目指すと京、大阪へ続いています。

ここから「湖岸道路」を渡り、公園に入りました。





しばらく歩くと、目の前に、長浜城が現れました。「長浜城歴史博物館」になっていました。





秀吉公が居城として初めて築いた城です。

この城は秀吉の出世の足がかりになりました。

今は、長浜歴史博物館として、昭和58年に三層五階の天守閣を持つ建物として建てられました。

天守閣からは、琵琶湖が一望できます。


城の近くで、旧長浜領の境界線の石碑を見つけました。








城の後ろに回ってみました。





ここから、湖岸へ出ます。





望遠を使って、鳥を撮ってみました。








うまく撮れません。





こんなところに、観音様がおられました。








朝が早い公園を歩いているので、ランニングをしている人や、速足で通勤、通学する人にであいました。

もちろん、私のようにウォーキングを楽しんでいる人にも会いました。





大きなホテルがあります。「Hotel &Resorts NAGAHAMA 」。





地図を見ながら、指示通りの道を歩いています。

今はうまくあっているようです。

ときどき、気がついたら、とんでもない方向へ歩いている時も⋯⋯⋯。





ヨットハーバーがありました。





地図と照らしあわせながら、ウォーキングするのが、面白いです。





これも先ほど城の近くであった石碑と同様のものでしょうか。これはすごく新しい感じです。

長浜は、秀吉により特別に町屋敷の年貢(米三百石)を納めることを免ぜられました。

米三百石が、どれぐらいのたいへんな税金か、感覚がわいてきませんが⋯⋯⋯。

他地域とくぎるための石碑が、長浜町のまわりに三十数本作られたみたいですが、今は少なくなっているみたいです。


地図を見ながら、間違わずにうまく歩いています。

「慶雲館」のところまで来ました。








庭は、京都の名匠、小川治兵衛が手がけました。

木より大きい灯籠があります。

第19代横綱 常陸山の像があるみたいでした。

毎年1月から3月に盆梅展が開催されるようです。


少し道を戻って、「長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)」に行きました。














「旧長浜駅29号分岐器ポイント部」です。

長浜駅の開業は、明治15年でした。

それから、駅構内で約80年間使われてきたのがこのポイントです。

イギリスのキャンメル社から輸入されました。

現存最古のポイントになったようです。

レールと枕木間の座金に、「KOBE 1881 I.G.R. MAKERS」の文字があります。

座金は国産のものでしょうね。


ここで、少し休憩します。





滋賀県 近江八幡 散策 その8

2019年02月13日 | 旅行



「旧伴家住宅」の前から、ウォーキングを再開します。

伴庄右衛門は、江戸初期に活躍していた八幡商人でした。

八幡商人という言い方は、近江商人の中でも早くから活躍した人をいいます。

伴家の屋号は扇屋です。

寛永年間(1624から1645年 この頃の将軍は家光)に東京日本橋で店を出し、麻布、畳表、蚊帳を商いました。

今に残る「旧伴家住宅」は、7代目庄右衛門が1827年から1840年の十数年の歳月をかけて建築しました。

明治時代になり、当時の八幡町に譲渡され、その後、小学校、役場、女学校と変遷して使用されます。

現在は、整備事業をへて、公開されています。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。





右側の、縦にまっすぐ走っている通りが新町通り、左右に通っているのが京街道門前通りです。

京街道門前通りを西へ歩きます。

ごく少し歩いて、伴家住宅の裏の方を見に行きました。





むこうに見えるのは、先ほど正面から見ていた伴家の横から見た風景だと思います。

手前には、蔵が見えますね。


ここから、京街道門前通りを西へ進みます。

この通りは、3つの商店街が集まって観音山、願成就寺の門前通りになっています。

しばらく行くと、「中村四郎兵衛邸」がありました。





扇屋(伴家のこと)に奉公していた四郎兵衛が、屋号の一字をもらい「扇四呉服店」として、この地に享保5年(1700年のはじめごろ、徳川吉宗の時代)に開店したことに始まるそうです。

現在も呉服店のようです。歴史がありますね。


ここからこの通りを左におれ、「池田町洋風住宅街」に行きました。





住宅街の一番北の建物です。

「旧近江ミッション・ダブルハウス」。1921年建築、2世帯の住宅。

2個の住宅がレンガ壁の境で、対象的な間取になっているそうです。

建築当時は、W・M・ヴォーリズの母親と、建築事務所の技師が住んでいたそうです。





洋風住宅街の風景。住宅のひとつです。





「旧ウォーターハウス邸」、1913年に建築。

ウォーターハウスは、早稲田大学の講師でした。

ヴォーリズとともに、「近江ミッション」の布教活動を行います。





3階建てみたいですね。中央に大きな煙突が見えます。

この住宅街は、大正時代にヴォーリズが建築した、アメリカ式住宅のモデルハウスが並んでいます。

アメリカの伝統的な建築様式のコロニアルスタイルだそうです。

ヴォーリズが、1921年に池田町に土地千坪を購入したそうです。


「吉田悦蔵宅」です。








ここから、通りを突き当たり、左に曲がって少し行くと、「市立八幡小学校」がありました。











白亜の素晴らしい建物です。

これも、ヴォーリズ建築かと思いました?

この建物は、大正時代に田中松三郎氏の設計になります。

最近、校舎を元の意匠を残して改築したようでした。


この近江八幡は、古い建物も、洋風の建物も楽しめる素敵な町でした。

八幡堀もよかったです。

古いものの保存状態が素晴らしいですね。


ここからすぐ近くのバス停から、近江八幡駅に戻り、今夜の宿がある草津まで行きました。

明日は、長浜の方へ行きます。










滋賀県 近江八幡 散策 その7

2019年02月10日 | 旅行



黄色の線に沿って番号順に歩きます。





近江兄弟社の前にいます。

W・M・ヴォーリズは、生涯近江八幡に留まり、83歳の生涯を終えるまで、多大の貢献をしました。

キリスト教伝道はもちろん、建築設計会社、メンソレータム(現在はメンターム)で知られる製薬会社、
医療福祉、教育分野へと幅広いものです。

彼は、近江八幡名誉市民第1号になりました。


ここから、この通りを南西の方へ少し歩いて次のよつかどを左に曲がると、新町通りに入ります。

すぐに、次のような風景が眼に飛び込んできました。





この通りは、古い町並みがよく保存されていました。

思わず、嬉しくなってシャッターを切りまくります。

国の重要伝統的建造物保存地区でした。

新町通りを南に歩きます。





道路の右側の風景。





道路の左側の風景。

次は、右側です。





次々と出てくる風景が素晴らしいです。

江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と並ぶ町並みは、近江商人のふるさとです。

よく建物が保存されていると思います。


通りの左側の「西川庄六宅」にきました。








2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いました。

3代目になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、九州島津藩指定御用商人になるなど、西川利右衛門に次ぐ豪商となりました。

現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として活躍中です。


この通りの右側には、「旧西川家住宅」がありました。








江戸時代の代表的な商人で、西川利右衛門の旧宅。

主屋は、1706年に建てられており、その造りは京風の洗練されたものとなっていました。


近江商人は、大阪商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人です。

近江商人の考え方をよく言ったものに「三方よし」があります。

売り手よし、買い手よし、世間よし。

売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利に貢献しなければ⋯⋯⋯。

この流れをくむ企業は、トヨタ、武田薬品、住友財閥、伊藤忠商事、丸紅、大丸、高島屋⋯⋯⋯⋯。


さらに先へ歩くと、道路の左手に「森五郎兵衛邸」。

元の方向をふりかえった風景です。(右手の手前に森五郎兵衛邸があります。ややこしいですね。苦笑。)





黄色の壁が見える建物一帯がそうだと思います。





道路の反対側には、「麻香(あさがお)」、麻の専門店がありました。





この通りは、古い建物がたくさん残っていました。


ここから先へ進んで、右へ曲がったところに、「郷土資料館」があります。





この建物は、もとは何に使われていたのかわかりますか。

近江商人の代表的な人物の西村太郎右衛門(安南貿易で活躍した)の邸宅跡に建てられた「元八幡警察署」をそのまま利用した資料館です。

この建物もヴォーリズ建築です。

館内には、市内の考古・民俗・美術工芸・文書などの常時展示がされています。

この資料館の道路を挟んで、真ん前に「旧伴家住宅」があります。





このさきは、次のブログで。







滋賀県 近江八幡 散策 その6

2019年02月08日 | 旅行



黄色の線に沿って番号順に歩きます。





日牟禮八幡宮の楼門の前にいます。

近くに寄って見ると、素晴らしい彫刻がありました。











境内に入ります。





遠くに、拝殿があります。

右側には、能舞台がありました。








神楽や田楽を奉納するために造られたのでしょうか?

この能舞台は立派ですね。


奥へ歩くと、御本殿がありました。





三間流造、宇佐の神を勧請して創建されました。

古くから八幡商人の信仰を集め、社宝には、ベトナムまでその活躍場をさがした八幡商人の代表格西村太郎右衛門が奉納した「安南渡海船額」をはじめとして、重要文化財が多くあるようです。

この八幡宮の、左義長、八幡まつりは全国的に有名なようですよ。








左より常盤神社、天満宮、宮比神社です。


ここの参拝を終えて、「西川本宅」の方へ行きます。


白雲橋を渡ると、正面に、再び「白雲館」が現れました。





ここを、右に曲がって、少し歩くと、道の右側に「西川本宅」がありました。





近江八幡を代表する豪商として知られています。

初代西川仁右衛門は、天正14年(1586)に秀次が八幡山城を築城した時の工事管理を行った人物として有名で、そのまま土着しました。

二代の甚五郎は、特に萌黄蚊帳を創案したことで、八幡蚊帳や近江蚊帳が飛躍的に発展し、西川家の基礎を築いたと言われています。

今では、ふとんの西川の西川産業。ここの当主の名は甚五郎が多いみたいです。


ここからさらに先へ行くと、「近江兄弟社」がありました。





明治38年に、創業者のW・M・ヴォーリズがキリスト教の伝道のためやってきて、八幡商業学校に英語教師として赴任します。

ところが、課外活動としてはじめたバイブルクラスに生徒が数多く集うことになり、仏教色の色濃いこの地域でむつかしくなりました。

2年後に、教師の職を解かれます。

彼は、この後、建設設計や近江兄弟社のメンソレータムで活路を見出しました。

昭和39年に、83歳で生涯を終えるまで、近江八幡にとどまり、キリスト教伝道と、事業展開を行いました。

私の幼い頃に、メンソレータムの名をよく耳にしたことを覚えています。

今は、「メンターム」になっているようですね。


道を挟んで、この建物の前に、ヴォーリズ像がありました。





むこうに見えるのは、西川本宅と思われます。


ここに石のベンチがあったので、しばらく休憩します。