播州赤穂からJRで姫路、大阪を経由し、鶴橋まで行き、その駅から近鉄に乗り換え八木西口駅で降りました。
赤穂から約3時間半........
八木西口駅です。
たぶん、今井町に行くと思われる人がいます。
ここから、次の地図の黄色の線に沿って番号順に歩きます。
八木西口駅から飛鳥川に沿って歩いて行くと、蘇武橋の手前で、今井町の案内の説明板がありました。
今井町は16世紀の中頃、本願寺のいち家衆であった今井兵部が、浄土真宗布教の拠点として、町民を門徒化し、各地から商人、浪人等を呼び集めて町割りを行い、四方に濠をめぐらして防備を固めて寺内町を形成した。.................................
そこに見える橋は「蘇武橋」です。
これを渡ると、目の前に大きなエノキがあらわれました。
この木の樹齢は420年と推定されるそうです。
樹高は15m、幹周り約5メートル枝張りは約20メートルも.......。
「蘇武橋のエノキ」というようです。
きっと、今井町の長い歴史を見守り続けてきたのでしょう。
橋を渡ると、今井町に入って行く通りがあらわれます。
この通りを「北尊坊通り」と言いました。
今はこの通りを入って行かずに、さきに、「今井まちなみ交流センター 華甍」を目指して歩きました。
この辺りもタイムスリップしたような建物が並んでいます。
喫茶店も素敵ですね。
もうすぐ「華甍」に着くと思われました。
「華甍」に到着。
素敵な建物です。
この中に入って、今井町の情報を集めてから、観光をしようと考えました。
この建物は明治時代に建てられました。
元々は、今井町の町役場として使用されていましたが、今は、この町の歴史や文化を紹介してくれる博物館、資料館です。
中に入らせてもらいました。
写真撮影がokということで.............,
町並みの表情・意匠について。
掟や御触れなどで、町家の造りは、厳しい規制がありました。
しかし、町民たちは、その中に個性的なデザインを考えます。
今井町の町屋についての解説
今井で流通した御札。
今井の文化について触れています。
「今井町民とその生活」
江戸時代に初めには、家数が千軒、人口は4千に達するほどの繁栄をしました。
町民は、町掟によって、自らを規制していました。
特に、火災については厳しい規定があります。
窮屈な生活の中で日待講、地蔵講などの宗教行事は唯一の楽しみで、特に氏神の祭礼でのだんじりは豪壮そのものだったそうです。
また、町衆文化として、茶道をはじめ、華道、能楽、琴、書道、和歌、俳諧などが盛んだった................。
今井町は、商業で栄えた町でした。
江戸時代に、今井町が高度な自治を推進することができたのは、町民の富力が大きかったからでした。
近在の豪商が移り住みあらゆる商売が行われます。
なかでも、繰綿・古手・木綿類を中心に大いに栄えました。
1634年には、今井札の発行が許可されたほどの町になります。
その後に、両替商が発展し、大名にもお金を貸すことになります。
江戸時代の今井町は、幕藩体制のなかで、郡山藩などを経て、約180年間天領下にありましたが、自治の気風は強く、大幅な自治的特権が許されていました。
今西、尾崎、上田氏の惣年寄が司法・警察権の一部を握り、町人が町掟を定め、社会のルールを作っていました。
「徳川家康 禁制」
軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、放火之事、田畠作毛苅取事、.....................
「豊臣秀吉 朱印状」
このあと、今井町のビデオを見せてもらい、観光ポイントを決めて、ウォーキングを計画しました。
ウォーキングの前にここで少し休憩をとります。
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