ウォーキングと旅行でのひとり言

瀬戸の港町 鞆の浦 散策 その4




淀媛神社にいます。

神社から見た鞆港の風景です。

この神社は、鞆港の入り口を守護する守り神でした。





社殿は大正3年に建立されたものだそうです。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


ここから、元来た道を戻り、「岡本亀太郎本店」に向かいました。

途中で見た鞆港の風景。








「御渡守大神」の石碑が⋯⋯⋯。






岡亀本店の近くまで来ました。








すぐ先を左に曲がります。





岡本亀太郎本店の長屋門です。





明治初期に移築された福山城の長屋門です。江戸時代初期の遺構のようでした。




















保命酒は、江戸時代に、福山藩を代表する特産品になりました。

350年の健康酒の歴史があるようです。

江戸時代には、中村家だけが、製造・販売を許されていたようでした。

明治になって、初代岡本亀太郎の代になると、以前の家業である清酒業(1855年創業)から保命酒の醸造・販売業に舵を切ります。

中村家から看板や道具を受けつぎました。



ここから、鞆港の南端に立つ「常夜灯」を見に行きました。





途中の風景です。








約10分ぐらい歩くと、「常夜灯」のところに着きます。





この常夜灯は、鞆の浦の一番のシンボルとして有名です。

1859年に建造されました。

弓状の港を有する鞆の浦は天然の良港で、豊後・紀伊水道を通る潮の流れがぶつかる瀬戸内海の中央部に位置します。

時間的に、潮の流れがここで反対向きになるため、“潮待ちの港”として栄えました。

1826年、オランダ商館の医師であったシーボルトは、「江戸参府紀行」で、鞆の浦は活気あふれた町と記していました。

その港町の海上安全を支えたのが、この常夜灯です。

竿柱の北面には「金比羅大権現」、南面は「当所祇園宮」の石額がかかげてありました。

当時は、ニシンの油の燈火で海上を照らしていたようです。


常夜灯と並んで、「雁木」がありました。





潮の干満に関係なく舟つけできる石階段です。

満潮時になると、最上段が岸壁となり、干潮時になると、最下段が荷揚げの場と変わります。

つまり、潮の干満で海面の高さが変化してもよいように工夫した施設でした。

(私は将棋が好きで、雁木といえば将棋の雁木戦法を思い出しましたが、実はここからその名前がついたようでした。不思議な思い⋯⋯⋯。)

この港の施設は、雁が飛ぶさまににていることから名前がついたようです。

最上段には、用柱形の船繋石(ふなつなぎいし)が見えます。


この雁木のすぐ前には、「いろは丸展示館」がありました。






この前で、港を見ながら、イスに座って、少し休みます。
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