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竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

穴水、甚○ェ門の頃の記憶(1)

2013-04-12 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
与○助から甚○ェ門へ越してから、終戦の雰囲気が漂ってた頃、出兵して居た与○助の長男だか次男だか(此処では仮にA男と呼ぶ)が戦地から帰って来た。大将この方にも可愛がられ、A男との間に陸軍の帽子(あの、カーキ色で赤い帯、星の記章の付いたあれだ)をもらう約束を取り付けた(後の為に積りにして置く)、当時は大将2歳と云う事もあり、学校も勤めにも行って無いもんだから暇でしょうがない、来る日も来る日も与○助へ通って、「帽子呉れ」「帽子呉れ」と言ってたらしい、軍国主義真っ只中に生まれた大将、きっとお国の為と勇んで居た。と今は当時を振り返り思いを馳せている。
何日か通う内、とうとう憧れの帽子を手に入れた、嬉しかったんだねえ、頭がスッポリ入ってしまう帽子を被って勇んで凱旋、いや帰宅だ、母親は大切な物だから大事にしようね、とか何とか言ったに違いないが暫く鴨居に引っ掛かっていた。まあ、大将お国の「為とは言いながら若干2歳、鴨居にも届かないのでその内忘れてしまった様だ。或る日A男と遊んでやろうと思って与○助へ行った処、同じ様な帽子が鴨居に引っ掛かっている、「へええ、この帽子はアチコチに有るもんなんだ」と思ったか思わなかったか、もう其の頃は帽子に憧れる情熱も冷めて終ってたのか、指して気にもしなかった様だ、・・・実はA男と家の両親との間に怪しい密約が有って、「子供だから直ぐに忘れようから暫くお預けします」な~~んて事をやってたんだねキット、大将、天真爛漫と言うか物に執着しない性格と言うか、はたまた飽きっぽいいと言うか、まあ、そんなとこなんでしょう・・・・今の大将に通ずるところも有りそうだ。

さて、ここは大門尻と言う地域、その頃の日常生活と言うのは、集落の中に小川が流れており、人々は、顔を洗い、歯を磨き、口を濯いだり、頭髪を洗ったり洗濯をしたりするのが普通、泥鰌やタニシ、時々ウグイ等も流れ込んで居る様な綺麗な水が流れていた。
又、炊事に使う水は、朝一番に桶を天秤で担ぎ、下の川(小又川だったかな)まで汲みに行き瓶に入れて、一日の生活用水にしていた、大将の家では、父親が終戦で失業、収入の道は絶たれ極貧生活、食卓は少々のお米と倍位の大豆と一緒にご飯を炊き、両親は殆ど大豆、大将と姉は大豆がくっついたご飯、おかずは漬物、味噌汁、サツマイモの弦、山菜、近所から頂いた食材でまかなっていた。それでも大将、ひもじい思いはした事がない、腹いっぱい食べて居た、両親とは有り難いね。
朝食の時間になると、大将、障子の破れたとこからおじちゃん夫婦の食卓を除くのが日課、囲炉裏の上座に座ったおじちゃん、その左手に座ったおばちゃんが真っ白いご飯、ホタテの貝殻に大根やゴボウ、タマネギと玉子をイシルと言う魚醤で煮込み、これが何とも言えない美味しい匂いを漂わせている
大将に気付くおじちゃん、(気ずく様に覗いている訳だから気付かないはずが無い)「坊、茶碗持ってこ」この言葉を今か今かと待っている、声が掛ると、頭でっかちの大将飛んでったね、こんな時は頭っから転ぶ様な事はまず無い、アツアツの真っ白いご飯に貝焼を乗せて食べる、いやああ~~今思ってもよだれが出て来る、美味しかったねえ
夢の様だね
う~~ん思い出の最高潮だ、沢山有りすぎて書き切れないんだ・・・・・又ね

与○助~甚○ェ門

2013-03-28 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
1歳と11ヶ月のオボッチャマが与○助から甚○ェ門へ越した、(集落名は二箇所共、大門尻)甚○ェ門さんは叔父さん、叔母さんの二人暮らし、女のお子さんが若い頃に亡くなった様で、その名は「はっ子」と言った。叔母さんは仏壇にお参りする度に、「オラはっ子、オラはっ子」と言ってたのを覚えて居る
又、おばちゃんの片方のお乳がなかった、今思うと乳がんだったのかなぁ

大将、此処のおじちゃんに至極可愛がられ「オラ坊 オラ坊」と刻み煙草の匂いのする顔を近ずける、髯がザラザラして痛い、でも大好きなおじちゃんでした。    おじちゃんと大将  タバコは紙のケースに入っていて、確か紫色の花?の印刷だった記憶がある、それをね、煙管ケースの付いてて桐で出来た印籠の様な入れ物に入れて何時も腰に差し込んで持ち歩いていた。
おじちゃんとの一番の思い出は、今でも覚えているが、小学校の夏休みの宿題で船を木彫りで作った時、「坊、船の先ッちゅうのはこんな格好やぞ」と、ごついアカギレた手で小指から人差し指の指先をくっつけたまんまで掌を開く様にして、見事に船の舳先を想像させてくれた、当時大将は船も海も記憶に御座いませんで、船を見たのはその数年後、海へ行ったのはそのずっと後、宇留地小学校の小森と云う女先生に穴水湾へ連れてってもらった時、川でしか泳いだ事のない大将、打ちつけてある杭に掴まったまま動けなかったね

そのおじちゃんの家の庭先には大きな栗の木がある、大きなのは木だけでは無い、栗の実は物凄くでかいのだ、差し渡しで6cm~7cmもしかしたらもっとでかかったかも知れない巨大な物、嵐や風のある日におじちゃんはその木に蓑笠を被り、昇って揺さぶり、栗を落としてくれた、イガなんぞはでかいの何のって以後これまでの物は終ぞ見たことがない立派な栗だった。
スモモもあった、これは甘くて美味しいのだが、鳥やらの恰好の餌で、実の中には殆ど蛾の幼虫が入って無事なのは少ない。

便所も居間から土間を通り、ムシロで仕切られ、照明もない、板を渡しただけのシンプルなもの、最初の頃は20cm位に切った藁で始末をしてたと思う、直ぐ横には牛小屋があって、夜なんぞとても一人で行くのは怖い、ギリギリまで我慢して、母親を起こし付き合わせたかも知れない(もしかしたらオネショだったかも)この頃には大将の記憶能力も大分冴えて来て居る、今思うと穴水に8年間御世話になった訳だが、大将の基本的な人間形成は殆どがこの時代に出来たんではなかろうか、出来上がって了ったと云うと後が無いからこうしとこう、事ある毎に脳裏に浮かぶんだ

与○助の記憶 終戦篇

2013-03-22 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
沼津から与○助へ来た日は日差しが強く時期は夏だと記憶してたが、先日の北國新聞の嘉代子姉さんのエッセーで、香貫山で見た「東京方面の空が夕焼けの様に赤い」は3月10日だったと記されている、それから直ぐに穴水へとなって居るので3月10日以降の夏前、日差しの強い日と云う事になる、と云う事は大将の誕生日が5月11日だから、与○助の腰が90度曲がったおばあちゃんとの記憶は2歳2ヶ月ではなく多分1歳と11ヶ月前後の記憶となる・・・

はは~~ん(ヤッパリ大将は神童と云うか、その片鱗はこの時点では多少残っていたのかも知れないネ)

では此処で与○助に戻るが、綺麗なお姉さんが2人いた、1人はテッっちゃん、と覚えているがもう1人は先日幼馴染に効いたが覚えがない板敷きの居間には囲炉裏が切ってあり、大黒柱を背に、上座にはむしろを敷いてあった、{畳やゴザではない}そこで乗せられた頭でっかちの大将は「たんかたんかたん たんかたんかたん」と囃し立てられると、愛染かつら?を踊り出す、可愛かったんだねえ、無邪気だったんだねえ、無垢だったんだね
その踊りの最中に必ず勢い余って頭から転んでしまうのが常だったそうだ・・・だれだ頭でっかちだからって言ったやつは””

そんな大将のオデコの擦りむきに梅干を貼り付けたおばあちゃん、可愛がってくれたテッちゃん、そして家族、大将は一時の幸せを感じていたんだろうね
そんな日々が何日か流れた或る日、大黒柱に取り付けたラジオから雑音混じりでゆっくりした口調が聴こえてくる、与○助の家族、大将の家族、皆がラジオに向かって正座している、父親は不在だったような気がする、中には泣き崩れる者もいた・・・・・そう1945年8月15日大東亜戦争(太平洋戦争)で日本が降伏した事を伝える玉音放送である・・・・昭和天皇の独特な語り口、天真爛漫な大将も此処だけは母親の膝で神妙にして居たに違いない

どの位経ったのか分からないが数日?数ヶ月?経って100m位離れた甚○エ門に越す事になる、この頃には嘉代子姉さんは東京に帰ったのかも知れない、先日のエッセーでは「半年位穴水に居た」と記されているので数ヶ月の方が正解かも知れない
何でも出兵していた与○助の長男か次男が戦地から帰って来たそうだ、それで明け渡したらしい・・・・そして愛染かつらを踊ったのは覚えているが、頭っから転んでしまうのと、どの部屋にどの位居たのかの記憶はない


チョットぬるぬる代二弾

2013-03-14 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将そば日誌
「ちょっとヌルヌル」から一ヶ月、今度は午後二時の約束だ、天気も上々、暖かいので釣り道具を車に積み早めに家を出発、加賀方面に糸を垂らしに出た。 大将昔は海の近くで暮らしたかった位の海好き、若い頃はよく行ったもんだ、でも大将泳ぎは出来るが上手とは絶対言えないがね、只ね、潜るのは自信がある・・・海好きの記事は前にも投稿した覚えがあるんで此処では省略、現場は風は少なく、ポカポカ陽気だが水は少々濁り気味、釣り人は平日にしても誰~~れもいない、こんな時は釣れないんだよなァ 1時間程竿を振って終了、
方付け最中に思い出した「しまった~財布忘れた」てんでカミサンに病院まで持って来てくれるよう海っぺりから電話、有り難いね文明の利器だ

さて約束の二時「557ばんの方~~」「はい」「こちらへどうぞ」「はい」「此処に横になって楽~にしてて下さい、血圧を計ります」この処自分でも少々高いのは分かっていたが案の定「少し高めですね」「脈拍・・・低いですね」此処も分かっていたので大将「ハイ50台です、普通はどのくらいですか?」「人にも寄りますが60とか70とかです、これならCT撮るのに脈を下げる必要は有りませんので、血管を広げるパッチを貼るだけにします、それから造影剤を入れる針を刺します、少々太いので痛いですよ」大将よっぽど太い針かと覚悟を決めた「ハイ」管の付いた針を「ブスッ」・・・・・なんでぃ気が抜けちゃってぃ、採血する時と変わんねえナ

車椅子に乗せられてCTの部屋へ・・まぁこのUFO見たいなマシ~~ンもこれまで一二度経験があり、大将差ほど緊張はしない「金属の付いてる様なものは脱いて下さい」、「頭を此方にして横になってください」、「息を留めてと云ったら軽く息を吸ってから留めてください」、「一度練習しま~す」二三度繰り帰し「今度は機械にはいります」マクドナルドのデッケードーナツの様なマシ~ンにベッドごと滑り込んで行く、「は~いそれでは練習通りに行きますよ~」大将これまた緊張全く無し、流石お山の大将だね、  ゴンゴンゴンゴン目を瞑ってるから分からないが身体の廻りを何かがグルグル廻っているようだ、ベッドに乗っかってゴンゴンゴンから「はい終わりました」までどの位かなあ6~7分位だったと思う「は~いお疲れさん」   大将思うんだ、この状況の場合「お疲れ様」はベッドに横になってるこっちじゃなくて仕事をして呉れたそちらじゃないの?ってね   こちらこそお疲れ様でした 車椅子で元の処置室へ

まあ、そいで結果は明日と云う事で、料金表を頂き9千幾百円かを支払って、今度は小松の有名なご当地うどんを喰って帰った様です
そいで次の日は二時の約束が診察室へ入ったのが三時近く、前の若い男先生に結果説明を聞き二箇所程問題点を指摘され早めに処置して置く様ご託宣を受けた       近いうちに行こうと思う、   でもなあこれから仕事が混んで来るし何時にしようか迷うところです

与○助 其の後

2013-03-09 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
以前から掛り付けのお医者さんから指摘を受けていた事を実行に移す事にした。 と云うのも今年2013年から そば 竹林舎 唐変木のお休みを毎週 木曜、金曜にさせて貰ったので時間の余裕が出来たからだ。
先日紹介状を書いてもらい小松市民病院へ、予約券と紹介状を外来受付へ提出、内科へ案内され、さらに放射線科へ「○○さん中へ」40代の女医先生が担当。 「は~いシャツを脱いで横になってください」  「はい}  「チョットヌルットしますよ」  「はい」  「では右を下にしてください」  「はい」  女医先生は背中側に座り、なにやら配線のついた器具を持って「チョットヌルヌル」の上から大将にグリグリと押し付ける、何とも早、くすぐったいのなんのって、大将この手の刺激はは大の苦手、なんせ背中なんぞ触られ様ものなら すっ飛んで了う位のくすぐったがり屋、身をよじりながらの我慢、我慢  これがまた、結構続くんだ   いわゆるエコーってやつだな、之までの人生で何回か経験はあるものの之だけは免疫が出来ない,長く感じたね  はあ~~終了 女医さん「おわりました~」それから今度は診察室前で待つこと一時間、手持ちの番号が表示されるまでロビーで待たされる、   やっと大将の順番が来た「第七診察室」だ、呼ばれて入ると今度はまだ若い男先生「名前と生年月日をどうぞ」大将記憶を辿りながらなんとか応えた、男先生「今のエコー検査では特別異常は見えませんね、之を聞いた大将、心の中で「〆た、そうだろう そうだろう 大将に限って滅多なことはあるはずがないでしょう」とほくそ笑んでいた次第、「ハイ今日はもういいですよ」との言葉が出るもんだと思っていたら、なんと男先生曰く「次回はCTで検査をしましょう」だと  え え え えっ  大将、今迄の浮いた気分が一瞬にして奈落の底におっこったね、又、来月の予約を頂き、多分その日は下向き加減で、ケンタッキーのチキンライスサンドを食って家路に着いたんだろうね  多分? キット
与○助其の後がとんでもない方向へ行って了ったもんだ


でもねチョットヌルットがこれで、CTの出来事を載せないちゅうのは不本意なので、与○助其の後は次の次だな
この記事は約一ヶ月前の出来事、だしィ

ワールドクラッシクベースボールも対台湾戦で大接戦の末勝ったし  投稿しよっと

大将の記憶以前・・・

2013-03-01 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
1月2日の投稿でも少しお話ししましたが・・・・そうですあの忌まわしい出来事、華麗なる人生を約束された天才児が頭を強打し、一瞬にして魑魅魍魎と化して(ウソウソ)鈍才になってしまった二階からの転落事故、の、あった官舎に居たころ・・・もう終戦直前・・・・

穴水に一緒に疎開をした従姉弟、嘉代子姉さんは沼津に居た時、近くの香貫山から東京方面を見ると夕焼けの様な真赤な空を見たそうな、東京大空襲ですね、大切な家族、両親、兄弟6人が、兄喜三郎さんとたった二人を残して亡くなってしまったんですね、
東京に家族と共にいた喜三郎さん(現竿忠四代目)は辛くも戦災を免れ真っ黒になって沼津に来て、大将の両親と嘉代子姉さんに「嘉代子、みんな死んでしまった、二人だけになってしまった」、と委細を伝え、また焼け野が原の東京に戻って行ったそうです。

其の後直ぐに大将達は父親の仕事、うっすら聞いた話では沼津では音波探知機の研究に従事、の関係で石川県の輪島に転勤、うっすらと聞いた話では、今度は蓄音機のヘッドがどうのこうのまあ戦時中の事ですから何となく秘密めいていて、父親もあまり話したがらなかったようです。(この話を思い出すとビクターのヘッドホンをした白いワンチャンが頭に浮かぶのです)
御幼少の頃の幼き(いっしょか)大将の事ですから、そのへん定かではありません、大将と家族は何故穴水に残ったのかも分かりません

で・・・・穴水の与○助の場面になる訳なんですヨ       おまけ
                                                                                                                                                                                                          

お山の大将最初の記憶

2013-02-14 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

突然ですが・・・・皆さんの記憶は幾つ位から残っています??

ときどきTVで見たり話で聞いたりしますが、子供が物心が付いた頃に、お母さんのお腹の中に居る時の出来事を聞くと、あんな事こんな事の出来事をチャンと覚えていると聞いた事ありませんか

その人その子で違うと思うのですが・・・・・・・・僕の場合・・・・・記憶は

二歳の夏頃からなんですねぇ   正確に言うと似歳と2~3ヶ月の頃
記憶はある瞬間から突然に始まるんです

それは・・・・・・・お日様カンカン照りの或る日、真っ暗闇の家の中から腰を90度に曲げた白髪頭のおばあさんが       ぬ~ゥ~ッッと   で、で、で出た~~~ッ        二歳二、三ヶ月の大将ここからが記憶の始まり

大きな家の玄関の前に立っている、父親、母親、姉と大将、もう一人居るのだがボンヤリして姿が浮かばない、明るい所に目が馴れていたので家の中の暗さに目が着いて行けなかったのでしょう

流石の大将も腰を抜かしたね、思わず母親にしがみ付いた   その日の記憶はそこまで

この事件以前の事を少し・・・・・母親からの聞きかじりを次回に・・・・/font>

想い出

2013-02-07 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
ヤツ、E、Kとは随分前に釣りに行った事がある、先日の「生きて居た」事件後ヤツも釣りをしてると云うので何時か又行こうとなっている


大将は若かりし頃よく海へ釣りやら、素潜りに行ったもんだ、釣りは陸ッパリが主で、当時は自前のゴムボートで出た事もあるぞ  もちテコギだがね   自称アウトドア派と思ってた


素潜りに至っては石川県の海っぺりは富山の境から福井県の境目までほぼ潜った  
当時は規制が厳しく無く、と云うより無尽蔵に採り尽す様な事はしなく、自分達で食べる分だけ、と、採り方をわきまえて居たと思うね
さざえ、アワビ、蛸、モリでは魚(当時はヤスと云ってたとったぞ~~の先駆者かも)を採取、浜で焼いて食べた(固形燃料使用だった)・・・・塩味だけだったが旨かったぁ~~
今の様な立派な釣り道具などは想像も付かない頃で、釣り人もそんなに多くはなかったと思う(この間大規模釣具店へ行ってオッドロイタね

中学生頃は金沢市内、寺町に住んで居り、お袋さんにおにぎりを作ってもらい、朝2時か3時に親父の自転車を借りて、サドルからハンドルまでのフレームに弟を横座りさせて金石港まで走ったもんだ・・・・当時どの位の時間が掛ったのか覚えはないがね
餌は、港近くに来ると道端に叔父さんがホッカブリで腰掛けていて、盃に一杯確か20円か30円で「ゴカイ」(今の青虫より遥かに柔らかでピンク色)を売ってた  後で河北潟に水路が有った頃、其処の泥の中でゴカイは沢山採れた、その水路では刈り取った稲を運ぶ船が行き来しててね長閑な風景があったね 他にミミズの事もあったな

当時の金石港の海水は今では想像も出来ない位青々として綺麗だったなぁ、沈船が水面に顔を出している上で釣るのだが、水深2メートル、20cm位のハゼがハッキリ見える、
仕掛けは至ってシンプル、リール何て物は無く、竹で作った糸巻き、針にテグスをくくり付けただけ、道糸は竿の長さだけ、しかーーーーし釣竿だけはだーーーれにも負け無い、だ~~れも持っていない、四代目名人竿忠作の一品だ、おそらく当時でもウン万円はしただろう・・・(お袋に聞くと本当は鮒釣り用らしい)(お袋は和竿造りの職人の家の子)
その「ゴカイ」なる気色の悪い餌をハゼの目の前に落とし込むのだから釣れない訳がない、良く釣れたね

帰りは寺町まで長い坂を、エッチラオッチラ自転車を押し、弟を歩かせ帰る、クーラーBOXなんぞと云う物は見た事も聞いた事も無い、干からびそうなハゼをお袋さんが甘辛く美味しく炊いてくれた、親父さんの酒の摘みにもなった・・・・いい想いでだ

得意な手作り品  写真をクリックで拡大
完成品旧い三脚の雲台を改造
手作り部品折りたたみ竿賭け
カメラ用の三脚が有ったので作って見た
雲台の取り付けねじを外し、プレートにアーム取り付けナットを溶接、8番線を二つ折にしてアームを作り4箇所位にポイント溶接、凹みを作ってビニールテープを巻、ペイントを塗って出来上がり  所要時間2時間少々く

豚足其の後

2013-01-29 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

本日蕎麦屋仲間の新年総会、15時30分能登島の民宿集合、遅くとも13時には出発しないと間に合わない・・・・・デ  本日臨時休業と相成りました

まず、昨夜から降り積もった雪の除雪、  朝食  出かけるまで時間が有るので、前回約束の豚足に付いての話

E,Kにご馳走??してもらった例の一蓮托生の頃の足は、定かでは無いが、多分蒸して有ったか茹でてあったか、じっくり焼かないと軟らかくならなかったし、硬かった、又、下処理がいい加減で爪の間に体毛が残ってた事もあった、それが当時は普通だったのでしょう

処で、豚ちゃんには一頭に4本の足と言うか手足というか(豚足と言うから此処では足にしよう、豚手とは言わないもんね)があり、その一本の足の人間で言うと踝(くるぶし)から先の爪側を食うのですが、一本で買って来た足は、踝を下にして立て、爪の間から庖丁を入れると、あ~~ら不思議、す~~と踝の骨の所まで庖丁が入り、調度半分に割れるんです、その半分をE,Kは「おやっさん一本焼いて」と言ったのである・・・実は半足だったんですね・・・まっ良いか

その半足(片側)に踝以外の骨は幾つ有ると思いますか?
細かい物を入れると20個、豚ちゃんの足一本は40本もの骨で出来てるんですね、ゼラチン質が多くコラーゲンたっぷりだそうです

今では何処のスーパーに行っても大抵は冷凍で一本(半足)180円前後で置いてありますね、それも下処理が上手く出来ていて、(多分圧力鍋処理)「ソフト豚足」と銘打ちオーブンや電子レンジで簡単にチンして塩コショウで食す事が出来ます 


ある蕎麦屋の主人に「ソフト豚足」を教えて挙げたら毎日食べているんだそうです

山梨のある旅館の御主人に、ワザワザ横浜から取り寄せたと言う子豚の豚足、白くて綺麗な品物でした。これを冷たいまんま唐辛子味噌に
醤油を垂らし、それを付けて食べさせてくれました、これが絶品  うまかったぁ~

大将はむしゃぶり付いた後の豚骨はお湯でぐつぐつ、スープが白っぽくなったら、塩コショウで味を調え、きざみネギを入れて、豚骨スープにして頂きます。

まあこの程度の事しか知りませんけど、いまでも買い物に行くと不思議な事に何時の間にか買い物籠の中にあるんです・・・・では豚足編  終り