竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

国宝さん  平民的な貴族

2011-10-28 | 「竿忠の寝言」
国宝さん
嵯峨さまとは竿忠、古い御贔屓である。まだ御前が二長町にお屋敷があって、御当主にならせられぬ時分からの御贔屓であった。御前は元は釣音の御客であったが、伜の竿忠が引続いて一層の御愛願である。釣具は其時分中田屋さんが御用であった。
御前が竿忠をお呼びになるに「竿忠さん」と云わず「国宝さん国宝さん」と仰言ってゞあった。

平民的な貴族
嵯峨様の御前は、申す迄もなく侯爵嵯峨公勝閣下で、失礼の事どもだが御誕生は文久三年六月と承わって居る。三条実房喞の御三男で存せられ、此嵯峨侯爵家の御先祖は公氏喞と申上げて藤原の
戸も朝臣となって居る。御家格は大臣家である。斯かる御身分の高い方では在るが、釣師としてはお古くから有名なお方だ。貴族には稀な平民的で嵯峨様が釣りにお出になり御自分の自動車の運転手と共に糸を垂れて居る所を他人が拝見すると、一般釣師の通例としてお召し物の上着は上等でない。其上会話の様子では、何れが御主人か分からぬ位の頗る徹底したもので、御身分を秘してのお楽しみが、時には八さん熊さんと竿を揃えてのお仲間入りをせられ、所謂大天狗、自称名人達の事とて、夢中になって八五郎から、お叱言や文句の一つも頂かれる場合もあるが、誰々諾々として御愉快気に微笑せられて御挨拶をなさるなぞ、お悟り遊ばしたものである。尤も釣師としては御身分階級は勿論位階勲等なぞ一切無関心の事で、四民平等であるべきものだが、分けても嵯峨様は、お話の分かる至ってお気軽な御気性で却々どうして下世話の事共何もかも心得ていらっしゃる、夫れこそ下様で申す苦労人だ。
釣りに就いて御前には御壮年の頃より数々の逸話があるが、お盛んの頃斯んな事もあった。御前の壮年の頃、まだ釣堀の珍しい時代だ。或る釣堀へ出掛けられ、例の如く糸を垂れていると何した拍子か隣の男の仕掛けに引懸った。すると其男が立腹して嵯峨様と知ってか知らずか釣竿を投捨てると、いきなり御前を池の中へおっぽり込mmだ。何という乱暴な真似をする奴だか、此男と云うのは当時明治座の金方をして居た高木、高浜と云われた内の一人高木金兵衛と云う者、毎度此の釣堀へ来ては我者顔に振る舞う。歯の浮く様な気障な男で、風采はと云うと、芝居の金方でもする位だから上下ぞろりっとした、五分でもすかさぬと云う姿だ。釣り上げでもする時の騒ぎは大変だ。両手に竿を持って胸の辺りに撓め込み、イキナリ履物を脱ぐと真新らしい白足袋の侭、水の浅い所へピチャ\/這入り、下手な剣術使いか田舎の神楽師の様な恰好で、アラ\/\/と脳天から奇妙な掛声を出し、右へ左へ踊り乍ら、子供が赤鯛でも上げやアしまいし鼻持ちならぬ傍若無人の下卑た真似をするので皆から、鼻っ摘みの嫌われ者、こんな男が御前を池へ投込んだのだ。後々迄も「いやな奴だったよ」と温厚大腹の御前も以前を憶い出されて呵々とお笑い遊ばされた。

旅館と羊羹

2011-10-10 | 「竿忠の寝言」
旅館と羊羹
竿忠此伊香保へ往った時は先方は生憎の雨降りで、俥を呼び、馴染の宿屋を竿忠生意気に漢語で旅館だ」なんて云った。「俥屋さん藤の屋旅館へ」「ヘイ」と承知した顔で着けたのは、藤屋羊羹と云う店の前、藤の屋旅館と藤屋羊羹、成る程よく似た語音だ。之れは俥屋が早呑み込みで間違いと分かったがお陰で要りも仕ない羊羹を買う始末。扨宿へ着いて入浴する時風呂場のガラス戸をガラガラと開けて一寸足を踏込むと前の湯槽(ゆぶね)の中へ不意(いきなり)にボチャンと落っこった。他の浴客は吃驚した、年寄りがガラリ戸を開けていきなり湯の中へ転がり込んできたんだもの驚いたのも無理でない。竿忠此湯へは初めてゞはないのだが、東京の銭湯に入りつけてるから、つい下の方へ気が付かなかった為であった。


行方不明

2011-10-04 | 「竿忠の寝言」
行方不明
昭和三年の秋の頃には竿忠少し具合が悪かった。竿忠は昔から春秋の二季に於いて十日程いつもぶら\/する。遊ぶでなく仕事するでなく、只仕事が何となく手に付かぬ。然し、寝ても仕事の事を考えている。寝言に迄仕事の事を云う。家でぶら\/して居ると云っても自宅より外へ余り出ない。床屋と湯屋へ行く位のもの、たまには近所の活動写真を観に行く位が関の山で、隣り歩きは仕なかった。此頃に成って若い時の酒が身体に利いて来て、身に障る様になって来た。近頃竿忠が具合が良くないと云うのを嵯峨様が知られて、大層御心配下され、殿様が御自身再三再四の御見舞い、竿忠家の者も恐懼感激に打たれていた。
秋晴れの清々しい快晴の朝、竿の袋にするキレを小伝馬町へ買いに行くと云った、竿忠、元来却々出不精である。一時間や二時間でない、出掛けると云ってから三時間は居たり立ったりしてから漸く出かける。此朝は元気も良かったが、それでも三時間はグズ\/してから出かけたのだ。ところが其日の夕方になっても帰ってこない。午後十二時近くになっても帰らない。サアそろ\/家族は心配し始めた。其前から音吉が電車の停留場で凡そ三時間も待ったが姿も見えない。家では家で、竿忠老人は帰って来て鉄瓶から湯気が出てないと気に入らぬ性分だから用意してチン\/湯を沸かしてある。どうしたのかしら、何時迄待っても帰ってこない。今迄にも若い時から竿忠は金の五円も纒まって懐中にすると、外出先からでもフイット気が変わって竹山を尋ねて、良い竹、珍しい竹と捜し回るのが癖の様であった。家へは何処へ行ってくるよでもなく二日も戻らぬ場合があった。山に入っても先へ先へと段々深く入り込んで、名も知れぬ虫獣の沢山いる人跡稀れな幽谷に迄分け入り、絶えず釣竿の竹探しに心掛けて居た。家族の者も初めの内は心配したが後には慣れてきて其晩帰宅がないと、又おじいさんのお株が始まった、今頃は何処かの山奥で天狗と問答でもして居る時分だろうと話し合って済んでいたが、近頃の身体の具合では、まさか一人で山へ行ったのでは有るまい。いくら気は人一倍勝気でも六十五だ、歳はまだ\/若いが、家での仕事と違って年寄りの一人歩き、またどんな粗相がないとも限らぬと、心配しながら夜中うつら\/としていた。朝になる、昼になる。すると竿忠病気の其後は何うだかと、嵯峨様の御前がお見舞いの品を御自身携えてお出になった。サア仁三郎心配した。肝腎んの病人の行先が不明だ。今迄にも時たまにはあったが、今度の心配は一ト通りでない。御前も心配せられた。どうも家中一同恐縮の至りで、暫くお話しせられて御帰邸になった。
夕方になると小雨がショボ\/とふりだした。表へ一台の幌をかけた人力車が停まった、中から現れ出たる明智光・・・・秀ではない父親の竿忠だ。見れば顔も手足も綺麗になって居る。片手には目笊のなかへ椎茸を入れて吊
提げている。「お爺さん何処へ行ったんだえ」と先ず訊くと「どうも人形町迄行くとバカに上天気だ。あんまり気持ちがいゝもんだから、一つ伊香保の湯へども入ってこようとぶら\/出かけて行ったんだ。あんまり珍しい椎茸だから一つ土産に買ってきたよ」と済ましたものだ。昨晩一ト晩とんと寝ずに案じて居たのにと、人並み外れて祖父思いの音吉が「お爺さん、うちでは皆して寝ずに居たんだよ。行ったなら往ったで電報でも打って呉れゝばいゝのに」と愚痴ると「音吉の奴が心配するから、わざと出さなかったんだよ」とのご挨拶。ところで留守に嵯峨様が御自身で見舞いにきて下さった事を話すと、夫れは申訳もない事だ、何供真実恐れ入った次第と、其場で直ぐハガキを出し、早速翌朝御詫旁々御礼に仁三郎がお屋敷へ伺った。然して御前に斯々と親父の事をお話した。お聴きになって御前は「名人は其くらい気概がなくてはいけぬ、此処に竿忠の面白味がある」と仰言られた。此時の椎茸の不味かった事。

皺くちゃに成れど色佳き梅干の 若木の梅に負けぬ色かも

之れは嵯峨様から御見舞いうを頂戴した、御礼に添えて書いたもの。