付録 寝言以後 附録 中根喜三郎
二代目仁三郎(明治十八年二月三日生―昭和十六年八月十三日歿 五十六歳)
二代目二三郎は実直で頑固な半面、家族に対しては優しい思いやりがありました。大した道楽もなく良く働き、竿忠の家の縁の下の力石の様な人で、生まれた時から死ぬまで、親子兄弟のために働き通しました。
何しろ初代竿忠が二十一歳の時の子供ですから、貧乏のどん底で育ちました。本文「青春時代」(七十九頁)などで、良くおわかりの通りです。満三歳の時、生母カヨに死に別れてからは、弟仲次郎(十八歳で若死に)や、後添えの母スヅの産んだ二人の妹(ヨシ トク)の子守りで、遊び盛りを過ごしました。そして少し用が足りる様になると、使い走りや手伝いに容赦なく使われました。雪の降る日に裸足で漆を買いに行ったこともあるそうです。まさか初めから裸足で出掛けた訳ではないでしょう。ぬかるみで鼻緒が切れて、やむお得ず裸足になったのでしょうが、冷たいことに変わりはありません。
やがて竿作りを習う様になると、父忠吉の仁三郎に対する仕込みは、更にきびしいものになりました。恐らく自分にもしものことがあった時でも、総領として一家を支えるに足りろだけの腕と気力を要求したのかも知れません。朝は早くから「仁三郎、起きろ」と蒲団をひんむかれ、用事をいいつけられて直ぐ「はい」と返事の出ない時は鉄骨の雨が降りました。仕事で失敗すると竹が折れる程強く殴られたそうです。しかし、仁三郎は強情我慢を通しました。後添えの母スズは、生母カヨの実の妹ですが、鳥目で夜は目がよく見えなかったそうです。それで却って仁三郎の気苦労は増えたのですが、仁三郎は良く継母に尽くしました。スズは死ぬ時に「仁三郎には本当に世話になった」と礼を云いながら息を引きとったそうで、これは後々まで仁三郎の語りぐさの一つになって居ました。本文「親孝行の売り物」(二六三頁)にもある通り、仁三郎が親孝行で表彰されたと云うのは本当の話です。
ところで、初代忠吉が妻カヨと一緒になったのが十九歳、二代目に三郎が始めの妻、林町のコンパス屋の娘ハルを娶ったのも十九歳、三代目音吉が小学校の同級生土屋幸太郎の妹ヨシと結婚したのが二十歳。竿忠一家は代々早婚を建前として居た様です。しかし、かく云う私、四代目は信州から金馬師匠の所へ行儀見習いに来て居た律子と二十八で一緒になったのですから普通です。
仁三郎の始めの妻ハルは、七人の子供を産みました。本文(復興の魁)(二百四頁)でも紹介して居る二十三貫六百と云うおデブさんです。このおハルさんは七人目の娘を産んでから、どう云うものか病気がちで、三年間寝込んでから亡くなりました。その間、仁三郎は手足のきかなくなった妻の枕元でご飯を口に運んでやったり、髪をすいてやったり、近所で貰い湯をするのにおぶって行って身体を洗ってやったり、一寸他の男では真似の出来ない様な世話をしました。
それにつけても思い出すのは大震災の時の話です。
忠吉、音吉の二人は潰れた家の番に残り、二三郎が女子供を連れて先に逃げることになりました。皆、着のみ着のまゝの姿です。仁三郎は、それでも金庫の中から取り出したお金や書付けなどを風呂敷にくるんで背中に背負い、手に水差し(ヤカン)とゴザを束に丸めて持って居ました。この水差しとゴザが後で大変役に立ちました。
道路は両側から家や塀が倒れて狭くなって居ます。その間を二三郎が先頭になってゾロ/\歩いて行くのですが、t時には潰れた家の屋根を渡ったり、傾いた軒の下を潜ったりしなければなりませんでした。方々から逃げて来る人々の集まる四つ角では脚絆ばきの巡査が交通整理をして居ました。仁三郎がその巡査に近ずいて頭を下げ「何処へ逃げたら良いでしょうか」と聞くと、「この際だから、銘々好きな所へ逃げろ」と答えました。「被服廠へ逃げろ」と叫ぶ声も多かった様ですが、御承知の様に被服廠へ逃げた人は全滅しました。仁三郎は父忠吉に云われた様に、被服廠とは逆の海の方へ逃げました。後から火の手がだん/\迫って来て、振返ると電信柱が立った儘パッと燃え上がるのが見えました。
でぶのおハルさんは、森下あたりまで行くと、「もう私は動けないから、私を置いて逃げてお呉れ」と弱音を上げ始めましたが二三郎が励まして後から押す様にして逃げました。清澄公園まで逃げて、池の端にゴザを敷いて休んで居ましたが、其処もだん/\人が多くなり火の手も迫って来たので、また月島の海の際まで逃げました。仁三郎は逃げる途中で水を見つけると、水差しに汲んで来て皆に飲ませて呉れました。岸壁の上に皆でかたまってゴザを敷いて座って居ると、やがて日が暮れてあたりが暗くなって来ました。町の方は見渡すかぎり火の海で、火の粉が降りかゝり、皆の顔が赤く照らされて居ました。
間も無く岸壁の上に居られなくなり、みんな肩まで海に漬かって身を寄せ、頭からゴザをかぶって火の粉をよけました。仁三郎は持ってきた水差しでゴザの上から水をかけて、ゴザが焦げるのを防いで居ました。寒さとししさ一晩中がた/\ふるえ通しでした。
朝になって見ると、皆ドブ鼠の様に真黒に汚れて居ました。町の方は一面の焼け野原で、九段の靖国神社の大鳥居が岸壁から上から見えました。海の水で着物を洗って、乾かしたりしながら、その日は過ごしましたが、今度はお腹がすいてたまらなくなって来ました。逃げる時食べ物の用意なぞまるで出来なかったからです。すると近くで路傍に小鍋を据えてご飯を炊き始めた人が居ました。やがて吹き上げて来て、うまそyな臭いがして来ました。仁三郎は、その人の所へ行って、「済みません。子供がいるのです。ほんの少しで結構ですから分けて下さいませんか」と頼んで、茶碗一杯の粥を貰って、子供達だけに食べさせました。
その日のうちに家に帰ろうとして、一度は途中まで行って見たのですが、橋が焼け落ちて居て渡れません仕方なく又元の岸壁へ引き返しました。途中、缶詰会社が未だ燃えて居て、缶詰が景気よくポン/\破裂して居る所がありました。皆がそこから缶詰を拾って来るので、仁三郎も拾って来て皆に食べさせ、どうにか腹をふさぐことが出来ました。
翌日は、焼け落ちた橋の傍の大きな水道管の上を渡って、やっとの思い出家に帰りつきました。水道管を渡る時、女子供は怖しくて腹ばいになって渡ったので気がつきませんでしたが、川の中には黒焦げになって死んだ人が沢山浮いて居たそうです。
それから本文の「復興の魁」に書いてないことで覚えて居るのは、家の焼け跡から融けかゝった銅貨が塊になって見付かったことです。その塊をタガネで一枚/\剝がしながら、号外でも米や衣類の配給でも、何でも買うことが出来たそうです。
この震災の話は金沢の叔母(二三郎四女)(ブログ大将の母)から聞きました。
この稿続く
二代目仁三郎(明治十八年二月三日生―昭和十六年八月十三日歿 五十六歳)
二代目二三郎は実直で頑固な半面、家族に対しては優しい思いやりがありました。大した道楽もなく良く働き、竿忠の家の縁の下の力石の様な人で、生まれた時から死ぬまで、親子兄弟のために働き通しました。
何しろ初代竿忠が二十一歳の時の子供ですから、貧乏のどん底で育ちました。本文「青春時代」(七十九頁)などで、良くおわかりの通りです。満三歳の時、生母カヨに死に別れてからは、弟仲次郎(十八歳で若死に)や、後添えの母スヅの産んだ二人の妹(ヨシ トク)の子守りで、遊び盛りを過ごしました。そして少し用が足りる様になると、使い走りや手伝いに容赦なく使われました。雪の降る日に裸足で漆を買いに行ったこともあるそうです。まさか初めから裸足で出掛けた訳ではないでしょう。ぬかるみで鼻緒が切れて、やむお得ず裸足になったのでしょうが、冷たいことに変わりはありません。
やがて竿作りを習う様になると、父忠吉の仁三郎に対する仕込みは、更にきびしいものになりました。恐らく自分にもしものことがあった時でも、総領として一家を支えるに足りろだけの腕と気力を要求したのかも知れません。朝は早くから「仁三郎、起きろ」と蒲団をひんむかれ、用事をいいつけられて直ぐ「はい」と返事の出ない時は鉄骨の雨が降りました。仕事で失敗すると竹が折れる程強く殴られたそうです。しかし、仁三郎は強情我慢を通しました。後添えの母スズは、生母カヨの実の妹ですが、鳥目で夜は目がよく見えなかったそうです。それで却って仁三郎の気苦労は増えたのですが、仁三郎は良く継母に尽くしました。スズは死ぬ時に「仁三郎には本当に世話になった」と礼を云いながら息を引きとったそうで、これは後々まで仁三郎の語りぐさの一つになって居ました。本文「親孝行の売り物」(二六三頁)にもある通り、仁三郎が親孝行で表彰されたと云うのは本当の話です。
ところで、初代忠吉が妻カヨと一緒になったのが十九歳、二代目に三郎が始めの妻、林町のコンパス屋の娘ハルを娶ったのも十九歳、三代目音吉が小学校の同級生土屋幸太郎の妹ヨシと結婚したのが二十歳。竿忠一家は代々早婚を建前として居た様です。しかし、かく云う私、四代目は信州から金馬師匠の所へ行儀見習いに来て居た律子と二十八で一緒になったのですから普通です。
仁三郎の始めの妻ハルは、七人の子供を産みました。本文(復興の魁)(二百四頁)でも紹介して居る二十三貫六百と云うおデブさんです。このおハルさんは七人目の娘を産んでから、どう云うものか病気がちで、三年間寝込んでから亡くなりました。その間、仁三郎は手足のきかなくなった妻の枕元でご飯を口に運んでやったり、髪をすいてやったり、近所で貰い湯をするのにおぶって行って身体を洗ってやったり、一寸他の男では真似の出来ない様な世話をしました。
それにつけても思い出すのは大震災の時の話です。
忠吉、音吉の二人は潰れた家の番に残り、二三郎が女子供を連れて先に逃げることになりました。皆、着のみ着のまゝの姿です。仁三郎は、それでも金庫の中から取り出したお金や書付けなどを風呂敷にくるんで背中に背負い、手に水差し(ヤカン)とゴザを束に丸めて持って居ました。この水差しとゴザが後で大変役に立ちました。
道路は両側から家や塀が倒れて狭くなって居ます。その間を二三郎が先頭になってゾロ/\歩いて行くのですが、t時には潰れた家の屋根を渡ったり、傾いた軒の下を潜ったりしなければなりませんでした。方々から逃げて来る人々の集まる四つ角では脚絆ばきの巡査が交通整理をして居ました。仁三郎がその巡査に近ずいて頭を下げ「何処へ逃げたら良いでしょうか」と聞くと、「この際だから、銘々好きな所へ逃げろ」と答えました。「被服廠へ逃げろ」と叫ぶ声も多かった様ですが、御承知の様に被服廠へ逃げた人は全滅しました。仁三郎は父忠吉に云われた様に、被服廠とは逆の海の方へ逃げました。後から火の手がだん/\迫って来て、振返ると電信柱が立った儘パッと燃え上がるのが見えました。
でぶのおハルさんは、森下あたりまで行くと、「もう私は動けないから、私を置いて逃げてお呉れ」と弱音を上げ始めましたが二三郎が励まして後から押す様にして逃げました。清澄公園まで逃げて、池の端にゴザを敷いて休んで居ましたが、其処もだん/\人が多くなり火の手も迫って来たので、また月島の海の際まで逃げました。仁三郎は逃げる途中で水を見つけると、水差しに汲んで来て皆に飲ませて呉れました。岸壁の上に皆でかたまってゴザを敷いて座って居ると、やがて日が暮れてあたりが暗くなって来ました。町の方は見渡すかぎり火の海で、火の粉が降りかゝり、皆の顔が赤く照らされて居ました。
間も無く岸壁の上に居られなくなり、みんな肩まで海に漬かって身を寄せ、頭からゴザをかぶって火の粉をよけました。仁三郎は持ってきた水差しでゴザの上から水をかけて、ゴザが焦げるのを防いで居ました。寒さとししさ一晩中がた/\ふるえ通しでした。
朝になって見ると、皆ドブ鼠の様に真黒に汚れて居ました。町の方は一面の焼け野原で、九段の靖国神社の大鳥居が岸壁から上から見えました。海の水で着物を洗って、乾かしたりしながら、その日は過ごしましたが、今度はお腹がすいてたまらなくなって来ました。逃げる時食べ物の用意なぞまるで出来なかったからです。すると近くで路傍に小鍋を据えてご飯を炊き始めた人が居ました。やがて吹き上げて来て、うまそyな臭いがして来ました。仁三郎は、その人の所へ行って、「済みません。子供がいるのです。ほんの少しで結構ですから分けて下さいませんか」と頼んで、茶碗一杯の粥を貰って、子供達だけに食べさせました。
その日のうちに家に帰ろうとして、一度は途中まで行って見たのですが、橋が焼け落ちて居て渡れません仕方なく又元の岸壁へ引き返しました。途中、缶詰会社が未だ燃えて居て、缶詰が景気よくポン/\破裂して居る所がありました。皆がそこから缶詰を拾って来るので、仁三郎も拾って来て皆に食べさせ、どうにか腹をふさぐことが出来ました。
翌日は、焼け落ちた橋の傍の大きな水道管の上を渡って、やっとの思い出家に帰りつきました。水道管を渡る時、女子供は怖しくて腹ばいになって渡ったので気がつきませんでしたが、川の中には黒焦げになって死んだ人が沢山浮いて居たそうです。
それから本文の「復興の魁」に書いてないことで覚えて居るのは、家の焼け跡から融けかゝった銅貨が塊になって見付かったことです。その塊をタガネで一枚/\剝がしながら、号外でも米や衣類の配給でも、何でも買うことが出来たそうです。
この震災の話は金沢の叔母(二三郎四女)(ブログ大将の母)から聞きました。
この稿続く