竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

付録 寝言以後   附録  中根喜三郎

2012-08-27 | 「竿忠の寝言」
付録 寝言以後   附録  中根喜三郎        

二代目仁三郎(明治十八年二月三日生―昭和十六年八月十三日歿 五十六歳)
二代目二三郎は実直で頑固な半面、家族に対しては優しい思いやりがありました。大した道楽もなく良く働き、竿忠の家の縁の下の力石の様な人で、生まれた時から死ぬまで、親子兄弟のために働き通しました。
何しろ初代竿忠が二十一歳の時の子供ですから、貧乏のどん底で育ちました。本文「青春時代」(七十九頁)などで、良くおわかりの通りです。満三歳の時、生母カヨに死に別れてからは、弟仲次郎(十八歳で若死に)や、後添えの母スヅの産んだ二人の妹(ヨシ トク)の子守りで、遊び盛りを過ごしました。そして少し用が足りる様になると、使い走りや手伝いに容赦なく使われました。雪の降る日に裸足で漆を買いに行ったこともあるそうです。まさか初めから裸足で出掛けた訳ではないでしょう。ぬかるみで鼻緒が切れて、やむお得ず裸足になったのでしょうが、冷たいことに変わりはありません。
やがて竿作りを習う様になると、父忠吉の仁三郎に対する仕込みは、更にきびしいものになりました。恐らく自分にもしものことがあった時でも、総領として一家を支えるに足りろだけの腕と気力を要求したのかも知れません。朝は早くから「仁三郎、起きろ」と蒲団をひんむかれ、用事をいいつけられて直ぐ「はい」と返事の出ない時は鉄骨の雨が降りました。仕事で失敗すると竹が折れる程強く殴られたそうです。しかし、仁三郎は強情我慢を通しました。後添えの母スズは、生母カヨの実の妹ですが、鳥目で夜は目がよく見えなかったそうです。それで却って仁三郎の気苦労は増えたのですが、仁三郎は良く継母に尽くしました。スズは死ぬ時に「仁三郎には本当に世話になった」と礼を云いながら息を引きとったそうで、これは後々まで仁三郎の語りぐさの一つになって居ました。本文「親孝行の売り物」(二六三頁)にもある通り、仁三郎が親孝行で表彰されたと云うのは本当の話です。
ところで、初代忠吉が妻カヨと一緒になったのが十九歳、二代目に三郎が始めの妻、林町のコンパス屋の娘ハルを娶ったのも十九歳、三代目音吉が小学校の同級生土屋幸太郎の妹ヨシと結婚したのが二十歳。竿忠一家は代々早婚を建前として居た様です。しかし、かく云う私、四代目は信州から金馬師匠の所へ行儀見習いに来て居た律子と二十八で一緒になったのですから普通です。
仁三郎の始めの妻ハルは、七人の子供を産みました。本文(復興の魁)(二百四頁)でも紹介して居る二十三貫六百と云うおデブさんです。このおハルさんは七人目の娘を産んでから、どう云うものか病気がちで、三年間寝込んでから亡くなりました。その間、仁三郎は手足のきかなくなった妻の枕元でご飯を口に運んでやったり、髪をすいてやったり、近所で貰い湯をするのにおぶって行って身体を洗ってやったり、一寸他の男では真似の出来ない様な世話をしました。

それにつけても思い出すのは大震災の時の話です。
忠吉、音吉の二人は潰れた家の番に残り、二三郎が女子供を連れて先に逃げることになりました。皆、着のみ着のまゝの姿です。仁三郎は、それでも金庫の中から取り出したお金や書付けなどを風呂敷にくるんで背中に背負い、手に水差し(ヤカン)とゴザを束に丸めて持って居ました。この水差しとゴザが後で大変役に立ちました。
道路は両側から家や塀が倒れて狭くなって居ます。その間を二三郎が先頭になってゾロ/\歩いて行くのですが、t時には潰れた家の屋根を渡ったり、傾いた軒の下を潜ったりしなければなりませんでした。方々から逃げて来る人々の集まる四つ角では脚絆ばきの巡査が交通整理をして居ました。仁三郎がその巡査に近ずいて頭を下げ「何処へ逃げたら良いでしょうか」と聞くと、「この際だから、銘々好きな所へ逃げろ」と答えました。「被服廠へ逃げろ」と叫ぶ声も多かった様ですが、御承知の様に被服廠へ逃げた人は全滅しました。仁三郎は父忠吉に云われた様に、被服廠とは逆の海の方へ逃げました。後から火の手がだん/\迫って来て、振返ると電信柱が立った儘パッと燃え上がるのが見えました。
でぶのおハルさんは、森下あたりまで行くと、「もう私は動けないから、私を置いて逃げてお呉れ」と弱音を上げ始めましたが二三郎が励まして後から押す様にして逃げました。清澄公園まで逃げて、池の端にゴザを敷いて休んで居ましたが、其処もだん/\人が多くなり火の手も迫って来たので、また月島の海の際まで逃げました。仁三郎は逃げる途中で水を見つけると、水差しに汲んで来て皆に飲ませて呉れました。岸壁の上に皆でかたまってゴザを敷いて座って居ると、やがて日が暮れてあたりが暗くなって来ました。町の方は見渡すかぎり火の海で、火の粉が降りかゝり、皆の顔が赤く照らされて居ました。
間も無く岸壁の上に居られなくなり、みんな肩まで海に漬かって身を寄せ、頭からゴザをかぶって火の粉をよけました。仁三郎は持ってきた水差しでゴザの上から水をかけて、ゴザが焦げるのを防いで居ました。寒さとししさ一晩中がた/\ふるえ通しでした。
朝になって見ると、皆ドブ鼠の様に真黒に汚れて居ました。町の方は一面の焼け野原で、九段の靖国神社の大鳥居が岸壁から上から見えました。海の水で着物を洗って、乾かしたりしながら、その日は過ごしましたが、今度はお腹がすいてたまらなくなって来ました。逃げる時食べ物の用意なぞまるで出来なかったからです。すると近くで路傍に小鍋を据えてご飯を炊き始めた人が居ました。やがて吹き上げて来て、うまそyな臭いがして来ました。仁三郎は、その人の所へ行って、「済みません。子供がいるのです。ほんの少しで結構ですから分けて下さいませんか」と頼んで、茶碗一杯の粥を貰って、子供達だけに食べさせました。
その日のうちに家に帰ろうとして、一度は途中まで行って見たのですが、橋が焼け落ちて居て渡れません仕方なく又元の岸壁へ引き返しました。途中、缶詰会社が未だ燃えて居て、缶詰が景気よくポン/\破裂して居る所がありました。皆がそこから缶詰を拾って来るので、仁三郎も拾って来て皆に食べさせ、どうにか腹をふさぐことが出来ました。
翌日は、焼け落ちた橋の傍の大きな水道管の上を渡って、やっとの思い出家に帰りつきました。水道管を渡る時、女子供は怖しくて腹ばいになって渡ったので気がつきませんでしたが、川の中には黒焦げになって死んだ人が沢山浮いて居たそうです。
それから本文の「復興の魁」に書いてないことで覚えて居るのは、家の焼け跡から融けかゝった銅貨が塊になって見付かったことです。その塊をタガネで一枚/\剝がしながら、号外でも米や衣類の配給でも、何でも買うことが出来たそうです。
この震災の話は金沢の叔母(二三郎四女)(ブログ大将の母)から聞きました。
        この稿続く

御挨拶

2012-08-12 | 「竿忠の寝言」
御挨拶                                       中根音吉
光陰矢の如く月日に関守り無しとか。
祖父竹翁逝きまして早や一年、私にとって其の一年は、多事多端な誠に思い出多いものが御座います。
さて茲に私は此の書を纒めました趣旨と動機とに就て一言述べさせて頂きます。
竹翁生前に在って、其の体験や追憶談を気の向く侭に折々語られました。夫れを私が「竿忠貧乏記」と題してノートの端から聴き書きを始めましたが、途中祖父は病の為め、物語りするのも物憂げなので、不本意ながら夫れなりになって居りました。処が流星一点地に墜ちて不帰の客となられ、今は悲しくも、懐かしき祖父を思慕するの余り思い立ち、祖父の小伝を物して其の霊前に捧げんものと、前記貧乏記を基に祖父の手記せる日記帳、竿忠寝言集等の物を掻き集め、夫れに日頃の訓話や世事談を初め私共が見聞きした祖父の行跡を毀誉褒貶の用捨も無く一束として、小口から順序も無く羅列し、覚束無くも喋舌り書きを始めたのが昨年三月、夜分の寸暇を盗んで漸く本年二月上旬に脱稿とまで漕着けました。私は之れをp祖父の手帳の名其の侭に「竿忠の寝言」と題し、一竿院忠達竹翁居士の霊前に供えると同時に、祖父に御厚情をお寄せ賜りし方々の御笑覧に入れたらば聊かでも在りし面影の一端を御伝え出来て、一夕のお興を添えようかと、父に図りました処、父は「汝等、元より修行中の職人、述べるも記するも何等素養なき無学の徒、且つ我が竿忠家に於いては何等か為にするものならん。曰く売名、曰く宣伝、曰く阿諛と、種々の誤解と誇りを受けんこと必定なり、故に先代もの遺志に叛くものあり、又反って物笑いの種を蒔く基だ」と許されません。私は夫れは心得て居りますが、趣旨は断然他意あるものではありません。唯一途、祖父を憶うの真情これ丈けです、と誠心を披歴し尚も訴えまして漸く納得を受け、出費負担の許諾を得て出来上がったのが此の小冊子です。
改めて諸賢の目を穢すとなると考えさせられます。
無学盲の悲哀は此の書の趣旨に悖る処はないと大胆に構えても、何分にも日が迫り、余暇は無く、為に思う様な調べも届かず、名人斉藤銀八氏、浜岡政右衛門氏等の来歴及び消息を得られませんことは誠に残念でした。
祖父が在世ならば興味ある材料も豊富に御座いましたろうが、今更に詮ない次第で御座います。
そこで内容はと申しますと御覧の如き、蕪雑極まる貧弱其物に過ぎませんが、若し幸いにして一言一句でも背綮に中るものがありますか、又は御同感を頂けます処があったならば満足です。分けて竿師、否、一般技芸家の処世の一端にもと迄は考えませんが、此の内に何物おか暗示するものが含まれているとしたら欣快之れに過ぎません。
次に本書を綴るに当りまして、彦田茂八氏、柳原緑風先生、谷中鉄五郎の方々に種々と御高配に預かりましたことを謹んで感謝致します。
一、 本書の印刷装幀等一切は、浅草区馬道一丁目の池田富蔵氏のご配慮を煩わし、種々御尽力下されたことを茲に感謝致します。
一、 背文字は柳原緑風先生に特に願って御揮毫を頂いたものです。
一、 表紙の竹は綾岡の筆にて其の散木集、題、竹の都に拠ったものです。
一、 見返し、前附、後附の翁面は、玉章の絵帳から採ったもので、之れは池田氏の寄附になるものです。つまり表紙と見返しで竹翁と利かせ、聊かこじ附けた様ですが、摺りには相当苦心の跡が認められましょう。
一、 押画の木版刷りは、絵は義兄が百枚ばかりの、戯れ描きの中から抜いたもので、原画は見られたものでは無いのですが、彫刻と摺師は池田氏から頼んで、一流の摺師本橋貞次郎氏の特技に成ったものですから、之れだけは自慢出来ようかと思われます
終わりに臨み、駄言を重ねたることをお詫びすると共に、御精読下されたことを光栄として一言御挨拶まで斯の如くで御座います


実は先日中根音吉の娘、この後「付録 寝言以後」を書いた中根喜三郎の妹、海老名香葉子(大将の従姉弟)が隣町へ講演に来た帰り、大将の母、(香葉子の叔母)にお参りをしたいと帰り道、小松空港へ行く途中、寄ってくれました。
そこで聴いた話では此の「竿忠の寝言」の「初版本を持っているから読む?」と云われ一にも二にも「見せて」と云う事で貴重な初版本を眼にする事もうすぐが出来そうです。
唐変木の蕎麦を食べながら思い出話に夢中になり、搭乗手続きの時間ギリギリまで話し、慌てて空港へ・・・
間に合ったかなァ     この後中国へ行ったそうです。。




竹翁辞世  竿忠の功績  最後の面影

2012-08-04 | 「竿忠の寝言」
{竹翁辞世}
お台場の澪(みお)の流れは変るとも 世に釣り人の用は尽きまじ
{竿忠さんへの手向け}   南天居美緑
現世(このよ)では贔屓の竿のいろ男 あの世へ往って婆鯊を釣る
{竹翁の通夜に列びて}
今日のこの釣人々のつどいこそ 竹のおきなの名をぞおしめて

{菩提所}葬る寺は亀戸天神東門通り俚俗脚気地蔵の名ある 天台宗亀命山光明寺
諡は    一竿院忠達竹翁居士  初代竿忠号  中根忠吉  行年六十七歳



竿忠釣竿界に於ける功績と特技の一端
一、 鯊、中通しの緡(いと)巻を現今の如き様の形状になした。
一、 従前の釣竿は非美術的の粗末なる物なりしを美術的趣味を加え美麗なるものにせり。
一、 従来の巻詰め(竿に糸を総巻きとせる)を千段巻きとす。
一、 以前は一本の糸にて巻きしが、二本糸にて巻く様にした。故に甚だ能率を上げたり。
一、 根堀(根付き)の振り出しを考案し、見事なる物を作れり。元来振り出しは父釣音の発案に成るもの也。
一、 竿の目を書くは、昔は墨にて為す。これを漆の盛り上げと為す事を始めたり。
一、 日本式の合わせッ穂を、竹と竹とを矧ぎ合わせた。此の方法に特殊の一法を考案せり。
一、 釣竿師の道具に大いに改良を加え、広く一般に普及せり。
一、 むく(洞無き)の継竿、大なる肉厚の竹を割って削っって継竿とすることを考案し製作す。震災後は嵯峨侯爵家に納める、二間以内(六寸乃至八寸)。
一、 トウジロ(スッテキ用の木材)にて継竿を作る。震災後は作らず。
一、 南洋の矢竹を始めて日本にて釣竿用に使用し、試作に成功す。継竿、鯉、鮎に用ゆ
一、 翁竹は専ら鱚の穂先に使用す。
一、 雀竹は小竿の穂モチに使う。翁竹雀竹共に之れを得るには、深山幽谷へ入るに八里、出ずるに八里の場所ならでは得難き物也。竿忠之れを発見したる也
一、 従来釣竿の継口は固むるに金具を多く使用せしが苦心研究の結果、漆を以て塗り固むる事に成功せり、之れは水に浸りても断然小口に故障を生ぜざるもの也
一、 釣竿の胴拭は従来ふきとりとなりしが、新しく之れに手ふきと云う方法を考案し成功収めたり。斯くすれば日に曝され水に浸りても竹の地に損傷を生ぜしめざるもの也
一、 縒り(より)(撚)戻しを考案し、飾職志村源太郎に作らせしが最初。
一、 蛇口(龍頭、又は乳)へ金を用い始めたり。之れは釣師に最も親切なるもの也。従来の絹糸、麻糸を用いて巻きたる頃は一年に再三の附替えをせしが、金の蛇口bに改める時は永久的に完全なものとなれり。
一、 釣竿へ金具を附けることは竿忠に依て種々創始せられたり。尻金(石突き)等も然りとす。
一、 釣竿の継竿に就て、、其の継口、即ち据え込み(スゲコミ)は時日経過すれば弛みを来たし、又は固くなり、故に挿入れ難く或は抜出す等の難あり。之れを防ぐ竿の刳(くり)方を工夫して成功すぇり。
一、 釣堀の鯉竿、鯉竿の削りッ穂へ筋巻き(最初は麻を使用あせり)を始めたり。
一、 竿の胴拭きに、筋影を創案す。
一、 竿の胴拭き(漆工法)に就いて、創始せるものは「松皮塗」「錆竹塗」煤竹塗」
一、 布袋竹にては従来数々の作り手はありしが、八寸の矢竹の二タ筋は竿忠作りし後末だ作り手なし
一、 同、目無しの二タ筋の竿も作りし。
一、 或は尺で三筋にして目無し、長州の池の鰡(ぼら)竿
一、 小なる物は八寸の三十三本継ぎ、鮒竿、之れは芭蕉博に出品せる物。昔の人にして二十五本継ぎを作りし者はあれど三十本以上継ぎし人は甞って無し。
(絶品切組かけの竿)
最後の作品は、昭和五年二月十二日即ち死の前日、枕頭に置きし、切組かけの竿。後二代目、之れを仕上げ、今近藤銕次氏の所蔵となる。布袋の芋継ぎ二本、鮒竿。
(絶品仕上げ済みの竿)
仕上げたる最後の竿は八寸の二十二本継ぎ鮒竿、古色蒼(そう)る塗色、竹翁印。前中央亭主人、現二葉亭主人の渡辺彦太郎所蔵す。

最後の面影
竿忠最後の最も思出深きものは、博文館、大橋邦之介の依頼により、昭和五年四月号「朝日」に掲載しべき為め、同年二月一日、記者高森栄次氏来訪ありて、種々雑談を交え速記せられしが、其の四月号出帆を見ずして逝かれし也。
又其の次の日、三日には同館より写真班来り、竿忠珍しく衣を整え撮影せしが、思わざりき之れが最後の撮影となりて、
今は在りし世の面影を夫れに名残止めんとは。
尚此の写真原版は博文館所蔵に成るものですが、今般特別の御好意で竿忠家へ御貸し下されました。
注 口絵写真に使用。