goo blog サービス終了のお知らせ 

竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

宇留地の記憶  14

2019-03-17 | お山の大将そばバカ日誌
そばバカ大将独り言
宇留地小学校から国鉄穴水駅まで約3里途中には雑貨屋さんが二軒とクリーニングさんが一軒、お店と言えば此の三軒、大将の家は余裕などない。必然的に自然の草木が遊び相手となる。
前出の笛もそうだが次は
「水鉄砲」
1)初歩的なのは直系3センチ位の竹を長さが30センチに切り片方は節のまま切りその先に30センチの竹筒に入るくらいに布を巻きつけて縛る。
  たらいに水を張り竹筒の節側を入れ細い竹を上下に出し入れするとポンプになり筒先の穴から水が勢よく飛び出す。
2)杉鉄砲
  今では花粉症の方から目の敵にされている杉花粉の発生源、「杉」・・・だが、春なると花芽ができる。その花芽が大将の格好の遊びの材料。
  熊笹を採ってきて7〜8センチに切り、片方の節を落としもう片方の端から3センチのところでカット、短い方に竹ひごを差し込み、長い方のパイプ状の寸法より1、5〜2センチ短く切る。
  杉の花芽を数十個口に含み、一粒パイプに入れ、竹ひごで押し込む。更にもう一個パイプに入れ竹ひごで押し込むと前に押し込まれていた花芽が「プチッ」と勢いよく飛び出す、これが杉鉄砲だ。
  長さの違う鉄砲を作りずらっと並べて楽しむ。ただ余り短いものはネズミのウンチに似似たものがニョロニョロ出るだけなので注意。
  この作業は竹採りからひご作りまでお祭りで買った折り畳みナイフ一丁
  
  杉の花粉が飛び散る頃には竹竿を振り回して杉の枝をゆすり飛び散る花粉を 浴びて頭を黄色くして遊んだがあの頃花粉症なんて有ったのかなぁ

3)龍の髭玉鉄砲
  この鉄砲の弾は龍の髭にできる綺麗な藍色をした5mm位の玉、果肉の中には 白い 半透明の丸く固い玉が入っている。
  これもやはり材料は竹、杉鉄砲用の竹より太め、作る要領は全て杉鉄砲の兄貴分を作る感じの加工、龍の髭の5mmの玉を押し込むと果肉が剥がれ固い玉だけが筒の中に入る。
  一発目を押し込み、二発目を勢いよく押し込むと「パン」筒先から煙状の水分と共に玉が飛び出し、当たると結構痛い位に勢いがある
/font>

宇留地の記憶  14

2019-03-17 | お山の大将そばバカ日誌
そばバカ大将独り言
宇留地の記憶14
宇留地小学校から国鉄穴水駅まで約3里途中には雑貨屋さんが二軒とクリーニングさんが一軒、お店と言えば此の三軒、大将の家は余裕などない。必然的に自然の草木が遊び相手となる。
前出の笛もそうだが次は
「水鉄砲」
1)初歩的なのは直系3センチ位の竹を長さが30センチに切り片方は節のまま切りその先に30センチの竹筒に入るくらいに布を巻きつけて縛る。
  たらいに水を張り竹筒の節側を入れ細い竹を上下に出し入れするとポンプになり筒先の穴から水が勢よく飛び出す。
2)杉鉄砲
  今では花粉症の方から目の敵にされている杉花粉の発生源、「杉」・・・だが、春なると花芽ができる。その花芽が大将の格好の遊びの材料。
  熊笹を採ってきて7〜8センチに切り、片方の節を落としもう片方の端から3センチのところでカット、短い方に竹ひごを差し込み、長い方のパイプ状の寸法より1、5〜2センチ短く切る。
  杉の花芽を数十個口に含み、一粒パイプに入れ、竹ひごで押し込む。更にもう一個パイプに入れ竹ひごで押し込むと前に押し込まれていた花芽が「プチッ」と勢いよく飛び出す、これが杉鉄砲だ。
  長さの違う鉄砲を作りずらっと並べて楽しむ。ただ余り短いものはネズミのウンチに似似たものがニョロニョロ出るだけなので注意。
  この作業は竹採りからひご作りまでお祭りで買った折り畳みナイフ一丁
  
  杉の花粉が飛び散る頃には竹竿を振り回して杉の枝をゆすり飛び散る花粉を 浴びて頭を黄色くして遊んだがあの頃花粉症なんて有ったのかなぁ

3)龍の髭玉鉄砲
  この鉄砲の弾は龍の髭にできる綺麗な藍色をした5mm位の玉、果肉の中には 白い 半透明の丸く固い玉が入っている。
  これもやはり材料は竹、杉鉄砲用の竹より太め、作る要領は全て杉鉄砲の兄貴分を作る感じの加工、龍の髭の5mmの玉を押し込むと果肉が剥がれ固い玉だけが筒の中に入る。
  一発目を押し込み、二発目を勢いよく押し込むと「パン」筒先から煙状の水分と共に玉が飛び出し、当たると結構痛い位に勢いがある
/font>

宇留地の記憶13  

2019-01-02 | お山の大将そばバカ日誌
記憶13
麦わらとカエル
学校の裏庭に直径5メートル位の池が有った。 多分菖蒲や何かも有ったと思う。
カエルを始め、ゲンゴロウ、トンボのヤゴ、ミズスマシ、水カマキリ、背中に卵をのせたカメムシ様の虫、アカハラ(トカゲの仲間)さながらビオトープ。
当時は、アマガエル、殿様蛙、牛蛙等カエルの種類も多かった。
中でも殿様蛙は大将の格好の遊び相手、麦の茎でストロー状のパイプを作り、殿様蛙のお尻に差し込み「ぷーっ」空気を吹き込んで池に放り込むと腹を上にして「プカプカ」 しばらくすると空気が抜けて何事も無かったかの様に泳ぎだす。
カエルが「この野郎覚えて嫌がれ」なんつったらビックリもんだ。
ただ注意が必要、やつは空気を入れる時渾身の力で抵抗するついでに「ションベン」もやらかす。パイプを伝って逆流。「ペッ ペッ」蝉のションベンは聞いた事があるがカエルのションベンは滅多にお目にじゃない味わえない超レア物・・となるので注意。

葉っぱの笛
1)常緑樹の葉、せいぜい5〜6cmの葉っぱの先端部を1cm程のところで折り曲げる。その時途中で折れて切れてしまうものは硬いので使えない。そこそこ硬くそこそこ柔らかい葉っぱ、ここのところが難しく至極微妙、それを直径5〜6mm位のパイプ状に丸めて潰す。この潰し方も微妙、あんまりぺったんこに潰すと吹くときに息が入らない、かと言って潰し方が甘いと息がスカスカ通ってしまい笛にならない。適度に潰した葉っぱの笛は吹くと最初に巻き込む時に潰した葉っぱが震えてリードの役目で鳴る仕組み。強からず弱からず吹くと見事に鳴る。
2)柔らかい葉っぱを唇に当てて指二本で押さえ吹いても鳴る
3)ススキの葉を10cm位に切って両親指の付け根に縦に挟み吹いても鳴る。
4)ススキより柔らかめの葉っぱを7〜8cmに切りUの字に曲げ端から2cm位の所を人差し指と中指に挟んで両方に広げて吹く。
木の幹に白っぽく楕円、上部には穴が空いてる虫の抜け殻これも鳴る。
くま笹の新芽を引き抜き白い食べられる部分は切り取り巻いている葉を一度解き巻き直して元から吹くとブーブー鳴る。
5)直径1cm位の竹、片方は節に切り込みを入れても鳴る、(時代劇の呼び子)長いのから短いのまでたくさん作って鳴らし比べた。
6)竹を10cm位に切り、片方は節。瓶の口を尺八を吹く方法で鳴らした。
6)上級者は40cm位の竹で横笛を作っていた。吹き口と端っこには竹の皮で作った竹紐を綺麗に巻いていた。
竹笛の細工には折りたたみの小刀をたためない様に固定し良く研ぐと力も入るし素晴らしい切れ味になる。この小刀一丁で作るのだから凄い。当時は町の文房具屋さんで何十円位かで売ってた。

きリ、鉈、小刀、で鳥籠も作る。竹を細く割り、鉈でしごいて竹ひごを作り切り揃え5mm角の材料に差し込んでいく。入り口もスライド式、水入れ、餌台も竹
鳥の捕獲は鳥もちと言うネバネバを棒に塗り鳥が停まるとくっついて離れない
メジロやウグイス等を捕まえて鳴き声を楽しんだり、又オトリとしても使う。
当時大将は籠を作る技術が無いのでもらったものに巣から落っこちてきた子スズメを入れ、ハエや虫を捕まえてきて飼った。
/font>

宇留地の記憶12  家族

2018-09-10 | お山の大将そばバカ日誌
(当時の我が家のクリスマス)
その彼らは家から持ち出した芋やら小豆等を持ってきては我が家の貧乏食卓に添え、母親の手作り料理やホットケーキ、父親がパチンコで取ってきた景品の菓子を摘みながら、夜遅くまで話に花を咲かせ帰るのが常だった。当時戦後の物資不足の折では有ったが、我が家のクリスマスプレゼントは豪華なもの。一応どんなプレゼントが欲しいかは前以もって書いて置くのだが大将は幼くて字が書けずあれこれ欲張って姉に書いてもらった。

さーてデコレーションケーキなんて豪華な物なんか有ありゃしない、母親の手製ホットケーキのお出ましだ。ここで頭数に、等分に、正確に分けなければならない、姉から大将に向かって「くにお、何分の一が良い?」矢継ぎ早に「8分の一が良いか20分の一が良いか」と年輪もいかない純真無垢な可愛い弟の筈なのに難しい質問が来た。ここで大将一計を案じたね、そんなこたぁ聴かれなくっても分かってらぁぃ数の多い方がいいに決まってるじゃないか当然「20分の一!』・・・・と・・・後々まで語りぐさになっちまったね、今でも

早めにとこに入り時々薄目を開けては靴下を見るのだがサンタさんは一向にくる気配がない。その内眠ってしまい薄暗いうちに目を冷ますとゴツゴツ膨らんだ靴下が見える。
「お母さんサンタさんが来たよ」靴下の中には森永のキャラメル(父親のパチンコ景品)ビスケット(父親のパチンコの景品)味の素(父親のパチンコの景品)ビー玉(父親のパチンコの景品)はたまたサンスター(此の時代に此のメーカーはあったかなぁ)歯磨き粉の缶の中に替えのペン先。等々がゴツゴツとした形で詰め込まれて居た。
此の頃はテレビも無くラジオも滅多に聞けない、ましてや保育園、幼稚園等なくサンタさんは居るものと信じ夢があって良い時代でした

此の我が家のクリスマスパーティーは金沢に越しても続けられ色紙で作ったチェーンやモール、点滅をする電飾、コーナーにはカラー照明、ビリーボーンやパーシーフェースの音楽、ろうそく、クラッカー本物のデコレーションケーキ、手ずくり料理又何人もの知り合いが参加して年々華やかになって行ったがあの当時の夢のあるプレゼントは無くなってしまった。

宇留地の記憶11  6人組のその後

2018-08-28 | お山の大将そばバカ日誌
その後女子の一人は坂の上の男兄弟5人の内の長男の処に嫁ぎ、一人は町のお寺に嫁いだ。4人組の殆どがそれぞれ東京に。後、真面目な面を持つKAは木場の材木屋さんに就職その後御養子さんに、KIは能登に帰り、JIは新宿歌舞伎町の別社会の入り口?の近くに居たらしく大将家族が金沢にいる頃ある日突然腹に白いサラシを巻いて現れ「逃れて北海道のノシャップ」にいるとか、別社会から追われてる様な様子だったがその後帰郷し金沢の精肉関係で働き結婚、実家の農業の手伝いもしてた様子。
大将家族が金沢の寺町に住んでた頃、母親の所へは時々捌きたてのまだ暖かい牛肉を両手に抱えて持って来てくれた。
MAは殆ど別社会に浸ったままと聞いた。一度だけ金沢に来た事があるが大将から見た印象は目付きが鋭く、天真爛漫な子供の頃の様には見えなかった。その後の消息は不明。JIは手術不可能な癌で、KAは癌で亡くなり、現在KI一人の所在が判明している。


此の6人組の事は大将幼き頃の事、うる覚えであり、曖昧な記憶で本当の所は定かではありません

宇留地の記憶10

2018-07-31 | お山の大将そばバカ日誌
記憶10
4人組の事
さて、泣く子も黙る4人組の事を少し。
この4人組の中には多かれ少なかれ家庭の事情が複雑だった者が居た様だ。
仮にJI,MA,KA,KI ,としておこう。リーダー格は高校時代相撲部で活躍、がっしりしたJI、ついで細身のMA、 中でも真面目な一面のあるKA, 年下で話しの面白いKI。
まぁこの順番は幼い大将から見た順番で本当のところは定かでは無為、もしかしたらこんな順番は無かったかも知れないと言っておく。
全員が農家の長男あるいは次男である。此の4人組時々山学校と称して家から食料を持ち出し近くの山へ入り煮炊きをしていた様だ。家の仕事は言うに及ばず学校もサボって居た。
ところが学校の用務員だった大将の母親から見た4人組は誠に純情で年相応の少年達で毎日の様に集まって来た4人組の話を良く聞いてやって居たし母親の言う事は素直に聞き入れて力仕事など良くを手伝っていた。時々フット部屋から居なくり、母親が変に思って探すと職員室に居る。なにやら怪しく慌てた様子で手を振りその辺りの空気を散らしている。
当直の先生の居ないのを見計らって昼間先生達が吸ったタバコの吸い殻を火鉢から拾って吸って居た様だ。ギリギリまで吸ってニコチンが指に着き黄色くなるのが彼らのステータス、自慢の種、母親も「ダメよそんな事をしチャァ」と言う程度の注意に見えた。
当直の先生がいる時は「早う帰らんか」「早う帰らんか」の声を聞くとそれぞれの家に帰っていった。

当時大将の家には弟はまだ存在しておらず、此の4人組がなんともたくましい兄達に見えた。
その内4人組と同学年の女子、IとT二人も合流、(クリスマスには居た気がする)狭い部屋に9人も集まり大家族の様なひと時、お手玉、おはじき、トランプ、双六、いろんな時間を過ごし大将や姉の相手をしてくれた。
大将此の二人その内の一人がそばにいると何となく小さな胸がトキトキときめいた、ひょっとすると恋多き大将に取ってフアーストインプレッションかも知れない。
此の部屋は学校の用務員、大将家族の生活の場、食事、寝室、勉強部屋、遊び場、客間、床屋さん、物干し場、家具、父親の机、タンス、全てが揃った便利な一屋部屋。
当時父親は単身赴任で金沢に居り週末には帰ってくるのでその日は此の和やか?な雰囲気がは変、静かな4人家族になり大将が叱られる回数が多くなる。

記憶10話 次に続く

宇留地の記憶9

2018-07-02 | お山の大将そばバカ日誌
事件簿8からの続き
腹に巻いた喧嘩用チェーン
このTさん「名うてのやんちゃもん」と書いたが実は本当にやんちゃもん。
大将が住んでた地域は大きく4っつに分かれてた。学校を中心に一つは上の集落
一つは学校の地元、後ふたっつは下、そのうちの一つはさらに下。集落ごとに子供達は時々抗争を起こす。ある日、下の二つが喧嘩になった。大将は意気地が無いので見学。その時Tさんはベルトの位置に自転車のチェーンを巻いて居た。すでに起こりうる抗争の為に準備をして居たと思われる。
お互い石を投げるやら棒を不振り回すやらで乱闘が始まった。その時走りながらチェーンを振り回してたTさんは蹴躓いて砂利道にしこたま顔を打ち付け血だらけになった。 さすがのやんちゃもんも泣いては居たが手ぬぐいで血を拭いてびっくり、下唇に小指が通るほどの穴が開いてた。この怪我をみた皆んなは蜘蛛の子を散らすように消えた。  のを大将は見た。  その後Tさんはどうなったんだろう
今ではきっと親の跡を継いで立派な経営者になってる事でしょう

喧嘩と言えば
又、坂の上の家は電気料の集金を委託されて居て川下の集落にも行かなければならない。集金の役目は男兄弟ばかりの上から三番目のM、大将より4っつ五つばかり上、誘われて集金のお供、各家へ回ってる時、チラホラとやんちゃ軍団が見え隠れしてた。お寺の近辺を歩いて居た時、突然石飛礫、縁の下の向こうから二、三人がこちらに向かって投げてくる。 ほとんどがMを目掛けて飛んでくる縁の下には雪よけ用の太い竹が積んでありその竹にイシツブテが当たりカランコロコロと音を立ててる。さぁ集金どころの話では無い、すっ飛んでその場を離れ急いで飛んで帰った。
後でつらつら考えるに、学っ校の坊やには当てられないのでMのみを襲った。
後でつらつら考えるに、当てられない、学っ校の坊やを連れて行けば襲われない。
後でつらつら考えるに、盾?当て馬?出し?に使われたかっ!
今の時代だったら大変な事件になっていたに違いない。
大人になってからこのことをつらつら考えるに学っ校のボヤには狙われない一つの要素が有った気がする
実はこの四つのやんちゃ軍団の更に先輩格に当たる4人組、箸にも棒にも掛からないナラズ者達が母をっ慕って年中出入りしていて若いヤンチャ者も一目置く存在。
(言っとくが「ならず者」と書いたが 小学校高学年〜中学一二年生五人の集まりの事。
でも年下のやんちゃ軍団達にとってはとても恐い存在。滅多やたらにいじめる事は出来なかったのだと思う。
この五人組の事はこの後思い出しながら綴って見たいと思う。

宇留地小学校の記憶8

2018-06-11 | お山の大将そばバカ日誌
今年の大雪で土台が下がり湾曲してしまった屋根を3トンジャッキ、建築用足場ジャッキ、建築用ジャッキ×2の持ってるジャッキ全てをを使い持ち上げ、土台を入れ替え、我ながら見栄えの良い薪置き場になりました。
その頃にはスミレも咲き始め良い季節になりました。

又、坂の上の家にも自転車があった。家まで持ち上げるのは大変なので持ち主は勤めから帰ると学校の体育館の搬入口にいつも立てかけてあった。
普段は鍵を掛けてあるが時々掛け忘れて置いてある。この時がチャーンス、早速運動場に引っ張り出し三角乗り(サドルが高く跨げないからフレームの三角部分に足を通し反対側のペダルを漕いで乗る)方法。上の家から見えない運動場半分を何周も何周も何周も乗った。
その内どうしてもサドルに跨って大人乗りをしたくなるのが人の常、大将も例外ではない。
毎日牛乳屋さんが朝早くからの配達の帰りに学校に寄ってくれる。大型の貨物自転車の両脇のカバンんの中と荷台の箱には牛乳瓶がぎっしり入って居た。配達の帰りだから空瓶だが相当に重い。
それを小学校高学年のそれも小柄なTがその自転車で遠くからお尻をモミモミやってくるんだから凄い、このモミモミってのは大人用の自転車だから高いサドルに乗ってペダルを漕ぐとお尻が右へ左へ揉まれるように動く様をそう言う。このTは名うてのやんちゃもんだと言うが・・・・

ある日牛乳屋さんのTが大将の母親と話してる隙に大将乗りたい一心であろうことかその大型の牛乳瓶を満載した重たい自転車のサドルの高いところ、お尻をモミモミしてもペダルまでの足が届くのは漕ぐ時の上半分、反対側のペダルが回ってくるまで足が宙に浮いてる様な、ペダルまでしこたま距離があるのに跨って生まれて初めて大人乗りをしてしまった。運動場を何周かしてさて元の位置に返して置かなければと思ったが跨ったまま降りる事が出来ない、無理して降りれば牛乳瓶が木っ端微塵になるのは必致。
そうこうしてる内にTさんが戻って来た、でも降りられない、大将心を決めて「おろして〜」情けないったらありゃしない。
止めてくれるとばっかり思ってたら「ぼやっ もっと回れ、回れっ 乗れたがいや」。大事な商売もんをと怒られるとばかり思ってたら応援してくれた。が、大将半はべそ、母親は平身低頭「すみません、すみません」の繰り返し。
尻をモミモミしながら悠々と帰って行く小柄な牛乳屋さんの背中が眩しかった。
名うてのやんちゃもん?、根性のある素敵な男でした。
この人は しっちょもの Tさん/font>

宇留地小学校の記憶7

2018-04-24 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将そばバカ日誌   
の前に
今回の大雪にはいろんな所で被害が出ました。唐変木に来られるお客様の中にもビニールハウスの倒壊、庭木の枝折れ、倒木、除雪での体調崩し等のお話をお聞きしました
唐変木も例外ではなく、早朝のそば打ちが済むとほぼ毎日70cm程の除雪、お客様の来られる少し前には一二時間の間に更に積もった雪の始末。
店の屋根雪に及んではこれまでの最高回数四度の屋根雪降ろし、4回目には雪下ろしではなく雪あげの状態でした。
それでも春はやってきました。
枝が折れ傷ついても何事もなかった様に今年も咲きました。大雨には何度も溢れ、自主避難までした側溝の工事が念願叶って、広く深く掃除がし易く出来上がりました。
細かい砂利も引いてるもらいこれまで気になっていた駐車区分ラインを石灰で、コンクリート部分にはペンキで、幅は大きめにユッタリと、ちよっとの事で車の整理ができました。

工事のついでに畑の土を入れてもらいお陰様で畝を二本増設、春大根の播種もすみました。

それでは本題に

お山の大将そばバカ日誌
こんな環境の中で育った蕎麦屋のブログ
宇留地の記憶7  事件簿
お山の大将独り言の時間です   

初めての自転車
父親は駅までの通勤に自転車を使っていた。
穴水に疎開した頃部屋を借りた「与の助」には後ろフェンダーに白い富士山の形をしたフレームに赤い反射鏡が取り付けてあるのを記憶している、大将二歳。
玄関から入った土間にはその部分だけ天窓の陽射しに照らされスタンドを掛けピカピカ光る自転車が止めてある。今思うと「富士自転車」その頃では高級な自転車
大将二歳の頃、いつもペダルをぐるぐる回しながら多分構造の勉強をして居たんだ。父の大事な自転車。その頃宇留地では自転車を持っている家はそう無かったと思う。

学校へ越して来たその頃にはこの自転車かあるいは別の自転車かは定かでないが父は金沢に単身赴任中週一穴水駅まで通勤に使ってた。道路は未舗装、砂利道、道の両端っこは僅かに砂利が少なく走りやすい。
その自転車たるやノーパンクタイヤ、チューブの入ってない硬いゴムだけのタイヤで砂利道を走るもんだからクッションなんて有ったもんじゃない。減らないだけが取り柄、きっと父親は駅に着く頃は手が痺れていた   と思う。
その後この自転車は大将達が金沢に引っ越す頃数奇な運命に会う。
「お父さん、この自転車要らんがなら売ってきてやる」と言う男がいた。
数日後男は「こんだけで売れた」と数千円持って現れた。実はもっと価値のある品、チョッコシちょんぼされた模様。

始めての自転車の稿 続く

宇留地の記憶と今年の大雪

2018-03-14 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将そばバカ日誌
こんな環境の中で育った蕎麦屋のブログ
宇留地の記憶(6)  ちっちゃな事件簿

その前に唐変木の近況を
今年の大雪大将の生涯一二を争う多さ
小鳥も玄関に逃げ込んできた

父にはイナゴ事件もあったが知ってか知らいでか時々事件を起こす。
若い頃は酒が好きで大酒を飲んだ、呑んでも乱れはしなかったが生涯酒は好きだった。あんなこんなの数年後、父は県の職員となり、金沢に単身赴任、旧金沢市庁舎裏、金沢城石垣の下、現在テニスコートのある位置の英語の名前の宿舎で以前はアメリカの持ち物だったかも知れない。夏には大きな欅にアブラゼミの抜け殻が沢山くっついていて大将用夏休みの恰好の宿題材料となる。
ある日母親が部屋の掃除に金沢に出かけ襖を開けるとそこには色取り取りの焼酎の空き瓶がズラリと並んでたのを見たらしい。

若い頃友人が「飲もう」と高下駄、学帽姿で「干鰯」を新聞紙にくるみ、小脇に抱えて持って来た。それを肴に一瞬く間に一升酒をやらかしたらしい。

某日母が大根を擦りおろしていると、父がその辛い汁をくれといってお椀にもらい「これはビタミンCが豊富で体によろしい」とか何とか言ってグビグビと一気にやった。暫くして青い顔で「気持ち悪い」 父の胃袋には刺激が強すぎたらしい

某日母が台所に棚を付けて欲しいと父に頼んだ。早速得意のと言うか仕事がらと言うか机に向かい図面を引き出した。
母はもどかしく、板、鋸と釘、金槌を持ち出し設計図が出来上がる前に棚が出来上がってしまったらしい。    メデタシめでたし

父は当時蛇腹式のカメラを持っていた。カバーを外すと折り畳んであるレンズが飛び出してくる。確かライカ(外国製かな?)
後ろの四角いカバーを開けると結構幅のあるフィルムがボビンに巻かれてた。
露出もピントもギザギザなリングを手動で回す、シャッターはレンズの先にキャシャなレバーが付いてて右の方へジーッと倒す。
当時フィルムも印画紙も貴重だったせいか映った写真はどれも小さく大きいのは少なかった。
その父親が宇留地小学校の玄関で海軍の制服制帽白手袋直立不動で映った写真があるはず。大尉だったそうでカッコ良かったです。
/font>