竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

宮内省御用

2009-10-30 | 「竿忠の寝言」
宮内省御用
斯うした頃で、毎日釣に出ていたものだから、若し東屋から催促が来たらば、斯う云えと云い置いてあるので女房は東屋の親方に前の通り云ったのだ。鱚から戻ってきて竿忠、之を聞いて、噓とは云い乍ら親方の情深いのに今更乍ら、御恩は一生忘れ無いと、云う口の下から相変わらず翌日も釣に出て行った。昨日は大層、鱚が食った。明日は土曜日、予てから宮内省御用の竿を製作中であって、土曜日には宮内省から竿を取りに来る。鱚釣は、暁方に出て、お昼には帰って来る。帰って来てから仕上げをして、宮内省へ修める寸法で釣に出た。すると、留守に宮内省からお使いとして富小路(とみのこうじ)様がお出でに成られたが、女の事で判らないから「留守で判りません」と云う挨拶。富小路様には散々のお立腹で「竿忠が帰って来たら宮内省迄、詫(あやまり)とに来い」と云い置かれてお戻りに成った。入れ違いに魚籃を提げて竿忠帰って来た。「お父っあんや、留守に遂今し方、富小路様がお出に成って散々の腹立ちでお帰りに成った許りだが、竿は何うなって居るんだえ」「竿は出来て居るんだ」「然なら詫(あやま)ってお納めしたらいゝだろう」「何も詫りに行く様な悪い事あしねえ、明日の日曜に間に合わせれば少(ち)っとも怒られる処は無えんだよ」と自分勝手な屁理屈を云っていた。東屋の大将、飛んで来て「竿忠、宮内省だから詫に往って呉れろ」「イヤ宮内省だろうが何処だろうが、断然、詫まるって云う事は出来ねえ。俺は生涯詫まるって事を、神様に誓って絶っているんだ。竿の遅くなったのは後で勘弁して呉れるが、竿の悪いのは勘弁して呉れない」と云う強情の気性で、何と云っても詫まりに行くと云わ無い。仕方無く、割下水の釣音の家へ往って親父から、忠吉に何とか口添えして呉と頼んだ。そこで車を持たして迎いに寄木した。「忠吉に直ぐ来い」何事成らんと割下水に往って見ると、今の話、「忠吉や、宮内省だからお前の恥には成らないのだ。だから詫まれよ」「お父っあんの前だが、之を詫まると私の恥じゃ有りません。お父っあんの恥に成りますぜ」「何、何故俺の恥になる。何う云う訳だ」「然うぢや有りませんか。是れから先に普通のお客様の竿が間に合わ無かったとしたら、何うします。竿忠つまり二代目釣音は相手が宮内省だから詫まって他のお客様なら詫まら無いとしたら、お父つあん、何んなもんです。夫れに明日の御用に足りねえと云うんぢやあ無え。仕上げるばかりに成っていて、是れから結構間に合うんだ。唯出来ましたとしても、漆なんてえ物は素人には安直に思って居るだろうが、ねえお父つあん、私共だって仲々勝手にやあならないよ。一遍差上げて了って、直ぐに返して下さい、仕上げ直して改めて差出しますぢやあ始まら無い。念に念を入れて良しと成らなければ、お客様に渡されないのが私の性分だ。何も私ばかりぢやあ無い。竿師は誰でも、然だろう。だから、宮内省でも私は詫まりません」と道理の立つ云い分に、親父の釣音も1本参って其侭忠吉の思い通りに為(さ)せた。
さて、此宮内省へ納めるべき其竿は出来上がったが、斯んな事で納めるのを見合わせ、其日の内に他のお客に売って了ったから、尚々役所の方で立腹せられ、大の不首尾となり、遂に一時、宮内省お出入り止めと成って了った。


釣狂時代の船賃

2009-10-20 | 「竿忠の寝言」
釣狂時代の船賃
夫れで竿忠が釣に行く時の服装(なり)は、毎時も上っ張りは赤ラシヤの服、之は外国の軍楽隊の古服を、飾りを取って直した物だ。夫れを着て鱚釣に出掛ける。斯んな真赤な服だから、人々の眼に著く。之が為赤忠とも云われ、よく沖で「何うでえ竿忠の野郎が今日も赤い服を着ていやあがらあ。竿忠で無くって赤忠だ」と云われた。江戸っ子のパリでも、沖へ出て汐風に晒されては日頃の性分にも似ず、西洋の服を引掛ける様になる。
此当時は、米が円に一斗六升から一斗八升五合、釣の乗合い舟は六百、だから毎日釣をしていても、そう大して生活は苦しく無い。竿の火入れが一本五銭で、四五本やれば、二十銭三十銭は得られたから、誠に楽であった。普通のお客は餌付きで六百二十五文、つまり六銭二厘五毛。其頃は今と違い船出は、朝の五時頃、今では夜中に出す。之れで尺以上の鱚が百尾以上釣れたのだから、皆釣りに凝って夢中に成ったのも尤もだ。仕立て舟は二朱二百位の相場、ご承知の通り1朱は十二銭五厘、だから二十七銭になる。
注 江戸時代の金銭の単位は一両が四分(金貨)で、他に銅貨文(もん)があり、金銀胴の変動により換算率が変化した。維新後一両は一円に、一分は二十五銭に置換えられて、混用された次期があった。その頃、銅貨千文が十銭であった。従って二朱二百は十四銭五厘が正解。

国賓クロパトキン    竿師か釣師か  

2009-10-14 | 「竿忠の寝言」
国賓クロパトキン
黒田さんの御贔屓に預かり、其のお手引きから宮内庁の釣竿を承わっていた、此時分にロシヤのクロパとキン(日露の戦争では有名な人だ)が我が国に来た時、国賓の待遇で、日光の離宮で此人の使う鱒竿を竿忠が作った。

竿師か釣師か
時は明治二十四年、場所は本所三ッ目竿忠の住居、内には歳の頃二十五六と見える女房、黒襦子の襟付の着物で髪は結び髪、今、余念無く、縫物の針を運ばせている。傍らの隅の方で七八ッ位の男の子が二人、仲良く学校の復習をしている。此竿忠の表の戸をガラリッと開けて這入って来たのは、唐桟づくめで、腰の銀鎖の煙草入れを下げ、のめりの駒下駄という、何処から見ても生え抜きの江戸ッ子風な、いなせな親爺。東「今日は」「オヤこれは何方かと思いましたら、神田川の東屋(あずまや)の親方さんですか、まあお上がり下さい」東「時に、之れあつまらねえ物だが子供衆に上げておくれ」と何か菓子の包を出した「何うも毎度/\済みません。有難う御座います」東屋の親方は暫く家内の様子を見廻して「何かえお内儀さん、忠さんは居ない様だが、俺んちの仕事は何うしてあるんだね」云われておすゞは両手を揉み合わせ、申し訳する様に「あの夫(やど)はね此頃は家を外にして居りまして、トント家へは寄り付きませんで、子供を抱えて困って居りますんですの」「何イ家へ寄り付かねえと。然うか仕様がねえ野郎だな。だが何かい、家へ銭でも持って来るかえ」「いえもう、トント」「いや情けねえ奴だ」と何か考えて居たが、表へ出て暫く経つと、米を一斗に、沢庵を五本、クサヤの干物を二十枚持って来て、夫れで兎も角も一時、凌いでいろと云って帰った。此人が有名な兼茂八(かねもはち)さん。
東屋の親方は、家へ帰って来ると、恰度、沖から、倅の政次郎さんが河岸へ上がって来た。之れが現代の東屋茂八さん、「倅、何うも竿忠にも困った者だな。此頃は家を外に遊び歩いて、トント家の方へ寄り付かねえという話だ。俺あ今のう、竿が何うなって居るか見に行った処が内儀さんが、之々と零すから、嬶アや餓鬼が加哀相だから、俺(おら)あ食べ物を置いて帰って来た」「何をお父つあん、云っているんだな、忠ちゃんは沖で釣りをしてたぜ」何あにあの野郎、鱚に出て居やがったのか、嬶アの奴も馴れ合って俺を騙しやがったのか、アハッハハハ彼奴の釣の好きなのにも、何うも困ったものだ。まるで気狂えぢやあねえか」
竿忠、貴様は釣師か竿師か」と云われた時「お客さん貴朗(あなた)は釣は面白う御座んすかえ」客「面白いヨ」忠「然うでしょう、だから私も面白いんでさア。エヽ直し物、持ってお帰り」まるで禅問答の様だ。