宮内省御用
斯うした頃で、毎日釣に出ていたものだから、若し東屋から催促が来たらば、斯う云えと云い置いてあるので女房は東屋の親方に前の通り云ったのだ。鱚から戻ってきて竿忠、之を聞いて、噓とは云い乍ら親方の情深いのに今更乍ら、御恩は一生忘れ無いと、云う口の下から相変わらず翌日も釣に出て行った。昨日は大層、鱚が食った。明日は土曜日、予てから宮内省御用の竿を製作中であって、土曜日には宮内省から竿を取りに来る。鱚釣は、暁方に出て、お昼には帰って来る。帰って来てから仕上げをして、宮内省へ修める寸法で釣に出た。すると、留守に宮内省からお使いとして富小路(とみのこうじ)様がお出でに成られたが、女の事で判らないから「留守で判りません」と云う挨拶。富小路様には散々のお立腹で「竿忠が帰って来たら宮内省迄、詫(あやまり)とに来い」と云い置かれてお戻りに成った。入れ違いに魚籃を提げて竿忠帰って来た。「お父っあんや、留守に遂今し方、富小路様がお出に成って散々の腹立ちでお帰りに成った許りだが、竿は何うなって居るんだえ」「竿は出来て居るんだ」「然なら詫(あやま)ってお納めしたらいゝだろう」「何も詫りに行く様な悪い事あしねえ、明日の日曜に間に合わせれば少(ち)っとも怒られる処は無えんだよ」と自分勝手な屁理屈を云っていた。東屋の大将、飛んで来て「竿忠、宮内省だから詫に往って呉れろ」「イヤ宮内省だろうが何処だろうが、断然、詫まるって云う事は出来ねえ。俺は生涯詫まるって事を、神様に誓って絶っているんだ。竿の遅くなったのは後で勘弁して呉れるが、竿の悪いのは勘弁して呉れない」と云う強情の気性で、何と云っても詫まりに行くと云わ無い。仕方無く、割下水の釣音の家へ往って親父から、忠吉に何とか口添えして呉と頼んだ。そこで車を持たして迎いに寄木した。「忠吉に直ぐ来い」何事成らんと割下水に往って見ると、今の話、「忠吉や、宮内省だからお前の恥には成らないのだ。だから詫まれよ」「お父っあんの前だが、之を詫まると私の恥じゃ有りません。お父っあんの恥に成りますぜ」「何、何故俺の恥になる。何う云う訳だ」「然うぢや有りませんか。是れから先に普通のお客様の竿が間に合わ無かったとしたら、何うします。竿忠つまり二代目釣音は相手が宮内省だから詫まって他のお客様なら詫まら無いとしたら、お父つあん、何んなもんです。夫れに明日の御用に足りねえと云うんぢやあ無え。仕上げるばかりに成っていて、是れから結構間に合うんだ。唯出来ましたとしても、漆なんてえ物は素人には安直に思って居るだろうが、ねえお父つあん、私共だって仲々勝手にやあならないよ。一遍差上げて了って、直ぐに返して下さい、仕上げ直して改めて差出しますぢやあ始まら無い。念に念を入れて良しと成らなければ、お客様に渡されないのが私の性分だ。何も私ばかりぢやあ無い。竿師は誰でも、然だろう。だから、宮内省でも私は詫まりません」と道理の立つ云い分に、親父の釣音も1本参って其侭忠吉の思い通りに為(さ)せた。
さて、此宮内省へ納めるべき其竿は出来上がったが、斯んな事で納めるのを見合わせ、其日の内に他のお客に売って了ったから、尚々役所の方で立腹せられ、大の不首尾となり、遂に一時、宮内省お出入り止めと成って了った。
斯うした頃で、毎日釣に出ていたものだから、若し東屋から催促が来たらば、斯う云えと云い置いてあるので女房は東屋の親方に前の通り云ったのだ。鱚から戻ってきて竿忠、之を聞いて、噓とは云い乍ら親方の情深いのに今更乍ら、御恩は一生忘れ無いと、云う口の下から相変わらず翌日も釣に出て行った。昨日は大層、鱚が食った。明日は土曜日、予てから宮内省御用の竿を製作中であって、土曜日には宮内省から竿を取りに来る。鱚釣は、暁方に出て、お昼には帰って来る。帰って来てから仕上げをして、宮内省へ修める寸法で釣に出た。すると、留守に宮内省からお使いとして富小路(とみのこうじ)様がお出でに成られたが、女の事で判らないから「留守で判りません」と云う挨拶。富小路様には散々のお立腹で「竿忠が帰って来たら宮内省迄、詫(あやまり)とに来い」と云い置かれてお戻りに成った。入れ違いに魚籃を提げて竿忠帰って来た。「お父っあんや、留守に遂今し方、富小路様がお出に成って散々の腹立ちでお帰りに成った許りだが、竿は何うなって居るんだえ」「竿は出来て居るんだ」「然なら詫(あやま)ってお納めしたらいゝだろう」「何も詫りに行く様な悪い事あしねえ、明日の日曜に間に合わせれば少(ち)っとも怒られる処は無えんだよ」と自分勝手な屁理屈を云っていた。東屋の大将、飛んで来て「竿忠、宮内省だから詫に往って呉れろ」「イヤ宮内省だろうが何処だろうが、断然、詫まるって云う事は出来ねえ。俺は生涯詫まるって事を、神様に誓って絶っているんだ。竿の遅くなったのは後で勘弁して呉れるが、竿の悪いのは勘弁して呉れない」と云う強情の気性で、何と云っても詫まりに行くと云わ無い。仕方無く、割下水の釣音の家へ往って親父から、忠吉に何とか口添えして呉と頼んだ。そこで車を持たして迎いに寄木した。「忠吉に直ぐ来い」何事成らんと割下水に往って見ると、今の話、「忠吉や、宮内省だからお前の恥には成らないのだ。だから詫まれよ」「お父っあんの前だが、之を詫まると私の恥じゃ有りません。お父っあんの恥に成りますぜ」「何、何故俺の恥になる。何う云う訳だ」「然うぢや有りませんか。是れから先に普通のお客様の竿が間に合わ無かったとしたら、何うします。竿忠つまり二代目釣音は相手が宮内省だから詫まって他のお客様なら詫まら無いとしたら、お父つあん、何んなもんです。夫れに明日の御用に足りねえと云うんぢやあ無え。仕上げるばかりに成っていて、是れから結構間に合うんだ。唯出来ましたとしても、漆なんてえ物は素人には安直に思って居るだろうが、ねえお父つあん、私共だって仲々勝手にやあならないよ。一遍差上げて了って、直ぐに返して下さい、仕上げ直して改めて差出しますぢやあ始まら無い。念に念を入れて良しと成らなければ、お客様に渡されないのが私の性分だ。何も私ばかりぢやあ無い。竿師は誰でも、然だろう。だから、宮内省でも私は詫まりません」と道理の立つ云い分に、親父の釣音も1本参って其侭忠吉の思い通りに為(さ)せた。
さて、此宮内省へ納めるべき其竿は出来上がったが、斯んな事で納めるのを見合わせ、其日の内に他のお客に売って了ったから、尚々役所の方で立腹せられ、大の不首尾となり、遂に一時、宮内省お出入り止めと成って了った。