陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その157・小手先芸

2010-06-17 09:15:32 | 日記
 桃山時代につくられた名茶碗の図録を目の前にひろげ、手本とにらめっこしながらろくろを回した。ゴツく挽いてヘラ削ぎで造形する「志野」、端正だが胴ひもの装飾がひどくむずかしい「黄瀬戸」、薄づくりで切り立った「瀬戸黒」、極端にゆがめて挽く「織部」、若葉家仕こみの左回転で「唐津」・・・かたっぱしからなんでもつくった。磁器で碗形を挽き、染め付け(生地にコバルトで絵を描いてその上から施釉するため、下絵付けという)で伊万里ふうにしたり、上絵付け(施釉して焼きあげ、その上にカラフルな絵の具で絵を描くため、上絵という)で九谷ふうにしたりもした。手づくねで楽をつくったり、高麗ものの粉引き、三島、井戸、唐ものの天目までつくった。すべて「~ふう」の付くパチもんではあるけれど。
 ところが皮肉なことに、ハンパに上達した腕前が災いして、こざかしいほどにうまいものが挽けてしまう。うまいというのはつまり、無個性な、という意味だ。これではまるで「食器」だ。喜左衛門井戸は、雑器の中から見立てられて抹茶碗に昇格した例だが、オレの抹茶碗は逆に「普段使いにちょうどいいみそ汁碗」に見立てたい感じだ。これではとても茶室の風情にはマッチしない。抹茶碗は、もっと品格という後光をまとわねばならないのだ。そのハードルがひどく高い。ゆがんだ形が挽けないどころの話ではない。挽けば挽くほどわからなくなっていく。
ーそれにしても、どこがどうちがうってんだろ・・・?ー
 眼前にたたずむ名品の多くは、滑稽と呼びたくなるほどの放埒さで挽かれていて、ほとんどアバンギャルドに近い印象を受ける。フリーだ。ふざけ半分のようにも見える。しかしろくろの初心者がつくるへっぽこ作品のあのいびつさ、あのだらしなさ、あの無定形を、昔の陶工は自分の手とろくろとを自在にコントロールして、メリットとして自作品に反映させている。それらは、訓練校で学んだ無機質的完成度とは対極にある「運動」「内圧」、また「童心」「シャレっ気」というものを持っていた。遊び心があるのにたたずまいは堅固で、それでいて鼓動を打つように生き生きとしている。その大いなる存在感を前にすると、オレは覚えたての小手先芸で上手に挽けた自分の茶碗に、とても満足する気にはなれなかった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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