陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その156・思想

2010-06-16 09:20:30 | 日記
 また、陶芸をわが国に伝えた唐ものが、土から宝石をつくろうという錬金術じみた考え方であるのに対し、和ものは土の素材感を大切にし、土に帰ろうという思想がある。茶碗の中でわが国独自の価値観が育ったのだ。唐ものは、土くれを精錬して磁器という白玉の焼き物に行き着き、かたや和ものは、ついには無釉の焼き締めというプリミティブな方法論にまで回帰した。
 とはいえ、和もの茶碗の成形には驚くべき手練が盛りこまれている。唐ものの正確さも超絶的技巧だが、数学的にきっちりとした整い方であるため、がんばればなんとなくマネができそうだ。ところが和ものはそうはいかない。物理的に不可能、理論的に不可解、というものがゴロゴロと存在する。碗の見込みを三角形に挽くなど、ろくろをどう操作したのか皆目見当がつかないものもある。その手ぎわには舌を巻くしかない。いろんな名碗の写真を見ながら、また美術館や資料館で実物を見ながら、おこがましくもジェラシーの炎に焼かれたものだ。
 いろんな茶碗を知ると、がぜんモチベーションが上がってくる。前述した迷いにも完全に折り合いがついた。これもまた修行だ。今までにつちかった技術を応用し、さらに展開していこうと開き直った。自由な形を挽くことによって、新しい感覚を取りこんでいけばいいのだ。お茶道具を好きなようにつくる、などと太陽センセーの耳に入れたら、「片腹痛いわ」くらい言われるにちがいないが、型を理解することによって本質に迫る、という日本古来からの考え方もある。とにかく古いものをマネして挽きまくって(「写し」なのだ)、実践から茶陶の文化をひもといてみればいい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

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