11/10(木)曇り 薄日は差しているものの寒い日になった。
ここは、武田軍の侵攻により、多くの犠牲を出した地として伝わっている。妙法寺記(勝山あたり(現在、富士河口湖町)の法華宗僧侶によって書き継がれた記録)にもこの残酷さが記録されている。
やや、大げさな記述があるにしても、このことだけはあまり楽しいいこととして受け取れない。
さて、出発。
雲興寺裏の道から登る。5分ほどのぼると林の中は、紅葉がちょうど見ごろ。
志賀城の東端。林間の見えるのが高棚山(高棚城)。
ほぼ平らな城郭を西側に歩くと、大きな石を並べた石積みがみられる。
さあ、帰ります。下山中。下には、民家が多数見えています。
これなら敵の動きもつかめます。ということは、正面から攻めるようなことはしないということです。
田んぼの中にある「笠原新三郎清繁の首塚」。
こちらはおまけ。「神津家の赤壁」です。
生け捕り、残るものは皆殺しと伝えられていますが、この戦国のさなかどのように神津家は生き残ったのでしょう。