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中山道 岩村田宿・東部

2023年11月23日 | 歴史の道/中山道

11/18(土)快晴の秋空の下、岩村田宿の東側を中心にガイドツアーを実施しました。

岩村田宿のポピュラーなコースは、中山道沿いの寺社巡りが中心になります。
一般には、あまり知られていませんが、宿場の通りから外れ東側の地域を巡ってみます。ここでも歴史の史跡が残り、意外性を感じる興味深い場所があります。
参加者43名、井出副会長のあいさつに続き、準備運動、宿場の概要説明の後に3グループに分かれ出発しました。

<主なコース案内>
伊勢屋敷跡⇒黒岩城(約5.5km)⇒信濃石(岩村田七石)⇒天神堂跡(旧岩村田小学校跡)⇒藤ヶ城址⇒鵲稲荷神社⇒招魂社⇒ヒカリゴケ洞⇒鼻顔稲荷神社⇒山頭火などの詩碑⇒戻る(約5.5km)



1時間前、受付準備のスタッフ。

中央公園(伊勢屋敷跡)でこの場所とコース全体説明。
伊勢神宮のお札を保管し配布したり、伊勢参りの通行証を配布した場所。旅所と呼ばれる。
敷地の北西に神明社(本町の守り神)がある。敷地内の北東に大神宮があった。大神宮は明治初期に鼻顔稲荷神社の上段にある公園に移されている。
1877(明治10)年に警察署、翌1878年に裁判所が設置された。1908(明治41)年は町役場が新設された。
なお、警察署は1922(大正11)年に現在地に移設された。大正15年に当時の県知事が警察署の廃止を決めたが、町民の大抗議運動を引き起こし、翌年この廃止決定は取り消された。
後年、この場所の西側にその当時の経緯が記された記念碑が建立された。

岩村田七石の一つ、信濃石。この土地の地名から名前が付けられた。
約2.4何年前に、浅間山の山体崩壊によりこの巨岩が溶岩に乗って運ばれてきたと伝わる。
岩村田にある七石とは、「蔦石」「勝田石」「夫婦石」「赤石」「鞍掛け石」「豆牟礼石(つむれいし)=潰れ石ということもある」とここの「信濃石」をいう。
「蔦石」岩村田高校の東側にある。かつて、ここにあった十王堂に西念寺開祖岌往(きゅうおう)上人が居住していたとされる。
「勝田石」現在のイオンショッピングモールにあった。現在はない。
「夫婦石」こども未来館付近、柳堂にあったが現在は一部が子育て地蔵の台座に使用されている。
「赤石」上木戸住吉町周辺にあったが、一部は龍雲寺入口の石碑の台石に使われている。
「鞍掛け石」猫塚砂田辺りにあったが、今はない。一部が浅間中の植え込みの庭石になっている。
「豆牟礼石」湯川の左岸で上平尾の潰石地籍の畑にある巨岩。1742(
寛保2)年の戌の満水で現在の場所に3つに砕け、流されたと言われる。

桜門につながる道。天守閣が建立される予定だった場所で奥に太鼓楼があった。
内藤氏は15,000石と石高は少なかったが譜代であり、幕府の要職に就いてきた。したがって、財政面では持ち出しがが多く潘財政は厳しかった。

火薬庫址
岩村田では最も高い場所で、町全体をや浅間山を望める。
鼓橋があり、西側の現在の鵲(かささぎ)稲荷神社のある場所に渡ることができた。

太鼓橋は、小学校の工事に不都合があり取り壊された。
藤城神社(とうどうじんじゃ・内藤氏の氏神)、「岩村田城址」石碑などがある。

高台から市街、浅間山を望む。

鵲稲荷神社
内藤氏の鎮守。鵲の神社は珍しい。
カササギは、北九州から朝
鮮半島に生息する鳥。古事では、七夕に由来し、オリヒメとヒコボシが年一回の逢瀬の夜、天の川が増水し、舟で渡れないときに、カササギの群れが現れ、天の川に橋を架け二人を逢わせることができたという伝説が残されている。このことから縁結びの鳥とも言われている。
また、カササギの鳴き声が「カチカチ」とも聞こえ、武運の願掛けをしたとも伝わる。

招魂社
江戸時代末期、戊辰戦争に新政府側として出兵した藩士1名が宇都宮の戦いで戦死した。
このため、明治政府からの弔慰金で内藤氏が建立した。
本殿、拝殿、控えの間を一つの建物の中におさめられている。控えの間は前面左右が引き戸になっており、薪能や舞を行う工夫がされ、板壁にはつがいの鶴や四季の花々が描かれている。
近年痛みが激しく、改修工事が待たれる。

藤ヶ城南の井戸
竣工時に描かれたとされる「岩村田御新城分間縮図」に記載される6つの
井戸のうちの一つであり、現存する唯一の井戸である。

井戸の前での説明

ヒカリゴケ
手前の常木用水に架かる橋の向こうの小さな洞窟には、ヒカリゴケの自生場所がある。
日本で最初に発見されたヒカリゴケです。明治43年(1910)に旧制野沢中学校(現在の野沢北高校)の生徒が発見しました。その生徒は、洞窟内で光る土を学校の先生に見せ、その先生が東京大学の三好博士に鑑定を依頼したところ、それがヒカリゴケであることがわかりました。これが日本ではじめてのヒカリゴケの発見になりました。そして、その貴重さが評価され、大正10(1921)年に国の天然記念物に指定されました。

鼻顔稲荷神社 荻原井泉水(せいせんすい)、種田山頭火、関口江畔(こうはん)、関口父草(ふそう)の句碑
神社上の段の公園のすぐ下のカーブの一角にある。
明治から昭和時代にかけて流派をなした自由律俳句の俳人、師の井泉水と門下の山頭火、
江畔と父草(石碑建立)父子の句が刻まれている。
荻原井泉水
  空を歩む ろうろうと 月ひとり
種田山頭火  浅間をむこうに深い水を汲み上げる
関口 江畔  兄も弟も日に焼けて 學校へ行く日となった朝飯
関口 父草  足もと照らしつつ自分のあしもと

鼻顔稲荷神社
永禄年間(1558-1570)に望月源八によって京都の伏見稲荷神社鑑賞され建立されたと伝わる。
祭神は、宇迦之魂命(うかたのみたまのみこと)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、猿田彦命(さるたひこのみこと)の三柱。
神社名称の由来は、地籍が「花園」であることから「鼻顔」となったという説や断崖造りの社殿が下の湯川に顔が突き出ているように見えることから「鼻顔」と呼ばれたとも云われる。

境内中心部分

湯川の橋より


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