toshinSHINANO's blog

ようこそtoshinSHINANOへ。 http://www7.plala.or.jp/toshin-sinano/

浅間山(中山道東側の佐久市平尾より)

2021年01月27日 | 歴史の道/中山道

佐久平スマートICから、西へ下った場所からの浅間山です。
帰り際に、ふと見ると、しっかり雪で覆われていました。
この時期でも、ここまできれいに雪があるのは、珍しいことです。
この辺りの西側を、中山道になる以前の古道があったといわれています。

勇姿を見せる浅間山

この辺りです。

コメント

予約状況2021/1/27 18:00現在

2021年01月27日 | スキー情報

掲載日以降に、変更している場合もあります。
複数の候補日、時間をご連絡いただけると助かります。

コメント

パラダ周辺道路の状況1/27

2021年01月27日 | パラダおよび周辺道路の参考情報

1/27夕方、昨日と同じような状況で日陰では、雪が溶け流れ出しています。
明朝は凍結により、危険だと思われます。
ブラックアイスバーンに気がつかないこともありますので注意してください。

天気予報
 天気予報
 

周辺道路状況

拡大地図はこちら⇒

高速道路情報⇒

楜沢レンタルスキー⇒土・日・祝日・混雑予想日は休業です。

コメント

中山道佐久の道・宿場案内

2021年01月23日 | 「佐久歴史の道」案内人と一緒にweb散策しましょう!

中山道佐久の道の宿場をWebで楽しみながら散策しましょう。
四季折々に姿を変える佐久の里 煙たなびく浅間をお供に宿場巡り 姫のやど 小田井宿から 寺社を巡る 岩村田宿 千曲の渡し 塩名田宿 八幡様の八幡宿 駒の里 望月宿を過ぎて 情緒の残る茂田井宿 ゆったりと佐久の街道を訪ねませんか


【中山道佐久の道Map】

【小田井宿】和宮から贈られた御所人形


 江戸から40里31町(160㌔m)21番目の宿場で追分宿と岩村田宿のほぼ中間に位置する。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で規模は小さいが、大名行列は追分に宿をとり、ここは姫君など女性が中心に宿をとったことから「姫の宿」と呼ばれた。

【岩村田宿】龍雲寺/王城公園

江戸より距離42里2町(165km)、22番目の宿場町で、内藤氏(岩村田藩)の城下町(陣屋町)でもあった。江戸方の小田井宿からは1里7町(4.7km)、京方の塩名田宿までは1里11町(5.1km)の距離にあり、北の江戸方枡形のあった住吉神社付近から、南の京方枡形のあった若宮神社入り口付近まで、1kmとなっている。

【塩名田宿】案内石碑「是より真楽寺三里」

江戸より43里13町(170km)、23番目の宿場。千曲川は頻繁に氾濫していたが、川渡しを確保するため、近くの、岩下、白合(しらせ)、町田の地域に住んでいた人々を移り住まわせ、四十数軒で新しく設けられた宿場である。

【八幡宿】八幡神社

江戸より44里4町(178㌔m)、24番目の宿場町で、千曲川の左岸にあたり、対岸の塩名田宿の加宿である御馬寄からの距離は3㌔m弱で、次の望月宿とも3km程度で両方の宿場との距離が極めて短い。これは川止めになった時の待機地として、また、この近辺一帯が強粘土質で降雨や雪解け時には、通行が困難になることから設けられた。

【望月宿】万治の石仏

江戸から44里20町〈175㌔m)、25番目の宿場で、八幡宿からは33町(3.6㌔m)と短いが、八幡宿との間には難所の瓜生(うりゅう)坂がある。江戸方から、百沢集落を過ぎ、金山坂の山道を約1㌔m上ると一里塚があり、峠の頂上付近に茶屋跡があって、瓜生坂を下り鹿曲川(かくまがわ)に掛る長坂橋を渡って望月宿に入る。

【茂田井間の宿】諏訪神社の双体道祖神

中山道望月宿と芦田宿の間にある集落で、本陣などの機能はなく旅人の休み処となり間宿(あいのしゅく)といわれた所である。江戸から45里10町(178km)、望月宿から26町(2.8km)、芦田宿から18町(2km)、宿長は750mである。(茂田井の宿内は1.7km)

コメント

佐久武士団の由利郡(現秋田県由利本荘市)への移住

2021年01月19日 | 歴史の道/中山道

2021/1/14(木)学習会より




コメント

虚空蔵山トレッキング

2021年01月10日 | トレッキング

2020/1/9 晴れ 14:30出発
道の駅ヘルシーテラス佐久南→ショートコースを登る→山頂→馬頭観世→一等三角点→熊久保集落→道の駅ヘルシーテラス
歩行距離 約5.5km 所要時間1:36


コース案内掲示板と説明文の拡大表示

頂上到着 浅間山を望む

平尾山を望む

荒船山、兜岩を望む。

馬頭観世音

一等三角点

コメント

佐久地方の周辺道路情報

2021年01月09日 | パラダおよび周辺道路の参考情報

北信(長野県北部)は大雪で大変そうなんですが、
寒いんですが、当地では雪は舞う程度しか降っていません。
道路も乾燥状態が続いています。

ただし、いったん雪が降ると長い間、溶けませんので注意してください。
雪がない佐久平からは浅間山もしっかり見えています。

パラダ近くの風景です。

コメント

東信濃の東山道

2020年07月12日 | 歴史の道/中山道

「夢遊館」館長 茂木さんのお話から


近江国の勢多駅(せたのうまや)を起点として東国に向かう東への山の道東山道
美濃の国の坂本駅からの最大の難所といわれた神坂峠を越えて信濃の阿智駅に通じ東信濃路へ
松本保福寺 浦野駅 亘駅 清水駅 長倉駅 入山峠を越えて上野国へと東山道が総駅八十六駅
信濃では十五駅で伝馬総数六十五疋である。

官道について   

東山道は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八国に属する地域の総称でもあった。

古代律令国家は、地方諸国を統治するうえで、中央と諸国の国府を最短距離で結ぶ七つの官道を整備した。

この七道は、西海道・山陽道・山陰道・南海道・東海道と東山道で、これらは官道であるとともに、その一つ一つが行政区画でもあった。

こうした官道には、駅(うまや)が設けられた。「養老令」によると、官道には原則として三十里(約16km)にごとに駅をおくこと、駅には駅長を配し、東山道のような中路には、十疋の駅馬を常備し、郡ごとに伝馬五十四疋を置くことなどが決められていた。

出典:佐久の古代史/東信濃国佐久郡に暮らす人々

 

コメント

飯盛山の初夏

2020年06月08日 | トレッキング

2020/6/6(金)晴れ
平沢峠10:26→10:35宮司の滝への分岐(寄道)10:45→平沢山分岐11:07→11:20平沢山11:24→展望台(三沢)分岐11:34→展望台11:40→11:56飯盛山山頂12:40→平沢峠13:35



登山口の平沢峠へ到着。晴れて八ヶ岳が手に取るように見え気持ちがいいです。
準備運動完了。では、出発。

全体Map

登山口

宮司の滝の方向に寄り道しました。

平沢山への分岐
ここまでは、日陰で気持ちよく歩けました。

平沢山から、南アルプスを望む。

展望台より八ヶ岳を望む
手前が平沢山

山頂到着=昼食、風があって気持ちがいい。

さて、帰ります。
今度は、平沢山のすそを歩くルートへ
寄り道しましたが、楽しく歩けました。

ここは、登山とは関係ないですが、JRの鉄道最高標高の場所の記念碑です。

コメント

野沢宿の野外学習

2020年06月02日 | 歴史の道/中山道

<Topページ>野澤館(大正期からの老舗旅館です。)
敷地内に、千曲川の氾濫の際に
地境の目印になる境界石があります。

2020/05/21(木)曇り、雲が厚くこの時期にしては寒い日になりました。

野沢宿は、佐久甲州道(※) 、上州道と中山道八幡宿からの根際道の交差する交通の要衝であった。
また、鎌倉時代より伴野氏の荘園として、耕作地が広がり豊かな米どころであることもあり、米をはじめ食料、物資の物流基地として発展してきた。
街道の東岸中込地区からの千曲川の渡しは、南側の原村から宿場に入る橋があったが、川の流れによっては川幅の短い場所に丸太橋を架けたり、浅瀬を渡ったりしたようである。
宿場とは言いながら、本陣や脇本陣はなく、旅籠と中馬はあった。
(※)佐久甲州街道、甲州往還ということもある。
<野沢宿散策ルート>
伴野城址(城山公園、大伴神社など)→成田山/医王山薬師寺→ぴんころ地蔵尊→野澤館→中島公園→諏訪神社→原公園(バラ)→紫雲山金台寺→常夜燈・金毘羅宮→女男木→白倉通り→大伴公園(戻り)

<野沢宿中心部Map>

主な見どころ案内
伴野城址


鎌倉時代、佐久では大井荘(岩村田)、平賀荘とともに荘園であった伴野荘の伴野氏の居館(野澤館)
四方を川と土塁で囲んでいますが、平城で防備として軽度なものであり、ここは平和な場所だったのでしょう。
戦国時代に入るとここから西側の場所に山腹に山城の前山城を築き、家督の関係で前山城とここの伴野城に住んだとされている。武田信玄の配下に入るが、戦国時代末期に戦乱の末、依田氏(信繁)によって滅ぼされ廃城となった。
城郭は、東西74m~85m、南北110m、土塁は15~16世紀に石積みされたものと推定され、北側と西側、東側は半分だけ残る。周囲の堀(川)は周囲全部が残っている。


伴野城址の堀の北側に、日本国内の測量基準を統一を明治政府に建白し、明治時代初期の「度量衡取締条例」や「度量衡法」制定に影響を与えた市川又三<838(天保9)-1909(明治42)年>の住居があった。
現在は、敷地内に彼の銅像が設置されている。

大伴神社、稲荷神社、素戔嗚神社、厳島神社

かつて、宿場の中央にあった十二諏訪大明神と呼ばれる社が、1910(明治43)年に町内の区画整理のため、この伴野城跡にあった八幡社と合祀して大伴神社として移転され現在に至っている。
大伴神社の名前の由来は、江戸時代にこの場所が大伴という地名だったことによる。
この場所には、ほかに素戔嗚神社、稲荷神社を始め厳島神社など多くの神々が祀られている。


成田山/医王山薬師寺(薬師寺山門:写真下)

成田山(不動堂)は、1921(大正10)年、成田山新勝寺より不動明王を勧請し、成田山信濃主張所として受け賜わった。
薬師寺の寺歴は、平安時代末期の1149(久安)5年創建とされ、その後千曲の洪水や兵火で荒廃したが、その後、野沢城(伴野城)構築の際に東北の一隅に再建した。
分かりにくいのは、「成田山薬師寺」として勘違いしている人が、意外と多いのですが成田山と薬師寺は同じ敷地の中にありますが別のものとのことである。
(成田山山門を内側から見たところ:写真下)

(成田山山門をぴんころ地蔵尊の方向から見たところ:写真下)
山門のすぐ左側にぴんころ地蔵尊がある。

この門は、田野口藩龍岡城五稜郭の東通用門を移築したもの。


ぴんころ地蔵尊

2013(平成15)年、佐久市民の健康促進を願いここ成田山の山門に建立されたお地蔵様。健康で長生きし(ぴんぴん)寝込まず楽に大往生する(ころり)をヒントに命名された。
毎月第二土曜日には、参道で山門市が開かれて、多くの参拝者が訪れる。


旅館野澤館 境界石を確認するために庭に入らせていただく。


中島公園

千曲川河岸の旧原村にある市の公園で、昭和初期に鉱山経営で莫大な財を得た中島寯吉(しゅんきち)氏の邸宅跡を佐久市が購入し公園にした。
旧邸宅は、江戸時代真田藩の中屋敷として明治~大正を経て、東京に残されていたものを購入移築したもので、建物は教鹿温泉の天竜閣が購入し、再度移築し現在、玄関棟が残されている。
また、岩村田藩の蔵も移築されたが、現在は残されていない。
この辺りの、東側が、中込から千曲川渡河の橋があったとされる地点(写真下)


諏訪神社

かつて、宮の木地籍(宿場南方向の千曲川沿い鍛冶屋境付近)にあった。(祭神:健御名方神、譽田別神、稲倉魂神)1705(宝永2)年に遷宮、1909(明治42)年には村内北方の野沢八幡社、中島公園内の川除稲荷神社と西方の社口社を合祀した。
社殿は1707(宝永4)年に造営の記録があり、その後、1792(寛政4)年に再建され、今日に及んでいる。
境内は、胴回り数メートルもの欅の大木が残り、東側には境界石がある。


原公園(バラ)

野沢地区の整備基本方針「観光客と住民が触れ合うまちづくり」に向けた取り組みとして、ぴんころ地蔵尊南側の野沢市街地の一画に整備した公園。
園内には、遊具があり子供から大人まで楽しめる憩いの場になっている。
また、36種類のバラが植栽され、開花時期には訪れる人々を楽しませてくれる。
ぴんころ地蔵尊の参道につながることから、ここには観光バスの駐車場がある。
ここから北側に、成田山につながる参道がある。
(市外から成田山山門につながる参道:写真下)


紫雲山金台寺

宗派は時宗、本尊は阿弥陀如来、寺宝として一遍上人絵伝・紙本墨書他阿上人自筆仮名消息(しほんぼくしょたあしょうにんじひつかなしょうそく)=平仮、に変体仮名、漢字を混えて書いた手紙(重分)などがある。1279(弘安2)年伴野時直が創建、一遍上人が佐久伴野荘で踊念仏を始めた。境内には、天満宮や熊野本宮なども奉られている。


常夜燈・金毘羅宮

宿場旧道を南下すると金毘羅権現大常夜灯がある。
金毘羅大権現を奉る社は、この常夜灯から東に一人ずつしか通れない小道があり、100mほどの場所に社ある。この道が参道だったのかもしれない。
社は長野県に五ヵ所ない貴重な神社ですが、信徒の減少など社屋の維持が課題になっている。
金毘羅大権現(写真下)

金毘羅権現の参道で見つけた石碑(写真下)。「雷電神社」と刻まれている。
江戸時代の相撲取りの雷電より先かも知れない。


女男木と道標

宿場の中心に、東に岩村田に向かう佐久甲州道と西方の八幡方面への根際道の分岐点に欅の大木がある。一説には、この欅は鎌倉時代に伴野氏の時代に植えられたと伝わるが、今日まで900年もの間があり、どこかで植え替えられた可能性もある。
説明書きには、目通り7.2mと記載されている。


欅の大木のすぐ脇には、石の道標「北木曽路 東岩村田道 南甲州道」や市神様が祀られている。


白倉通り

伴野城につながる西側にある白壁の土蔵が連なる道。この白壁の建物は豪農並木本家の建物で江戸時代岩村田藩が当地を治めた頃、藩財政の困窮を助けたと伝わる。
この後、伴野城址/大伴神社/稲荷神社/厳島神社のある出発地に戻る。


番外編(宿場中心の女男木より南に約1km)
取手百番観音堂と甲州道の道標


野沢村から南の取手村へ向かうと、取手百番観音堂がある。
八面山観音堂として、観音仏像100体が祀られている。 秩父34か所観音の系列に属することが台座裏に済書きされる。百番観音とはいいますが、観音像は99体で、100体目の本尊は阿弥陀如来像である。
(百番観音は、西国33所・坂東33所・秩父34箇所を合わせた日本を代表する100の観音巡礼地)

江戸時代の1654(承応3)年の記録に見られますが、辻堂や阿弥陀堂から変わったとする説もあります。
脇を通るのが佐久甲州道で右側の石柱には、甲州道であることが記されている。(写真下)


おまけ<野沢のお気に入り、”おやつ”いただきます。>
(新海たい焼き屋:写真下) ボリウムがすごい!

(小さなパン屋さん「りあん」:写真下2枚)
豆パンが人気。すぐ売り入れてしまうらしい。
予約しておかないと!

コメント

中山道22岩村田宿

2020年05月26日 | 「佐久歴史の道」案内人と一緒にweb散策しましょう!
<Topページ>お鍾馗(しょうき)さま
民家の屋根にポツンと屋根瓦のひょうきんなお顔。私の好きな岩村田宿のお宝です。
疫病などの魔除け、願い事成就の神様と言われています。

岩村田は、古くから交通の要衝として栄え、北へ北国街道につながる善光寺道、下仁田道の起点、佐久甲州道の起点がある
鎌倉時代、大井氏の郷として広大な城下町であった時代には、若宮神社の南西周辺にを中心に「民家6,000軒、交易四達し、賑わい国府まされり」といわれ栄えた。また、社寺30など人口2万人を擁した町並であったようである。
さらに、大井氏は、室町時代応永年間(1394~1428)には関東管領となった足利持氏に重用され、繁栄の極みであったと伝えられます。勢いに乗じ、信濃小県・更級・埴科、上州や武州まで領地を拡大をはかった
これに、反感をもった更級・埴科の村上氏は、1484(文明16)年、岩村田に攻め入り一気に民家や寺社を焼き討ちにし、大井氏を滅ぼしてしまいました
なお、大井氏はその後、長久保依田城城主大井貞隆が宗家を継いだ
その後、戦国時代を経て武田信玄により岩村田は寺を中心に再興され、江戸時代に至りました。
宿場の概要

1602(慶長7)年、江戸幕府からの命を使者より受け「中山道岩村田宿」が成立し活動を始めた。

岩村田宿は、江戸日本橋より距離42里2町(約170Km )22番目の宿場になる。
江戸側の小田井宿から1里7町(約4.7km)、京側の塩名田宿までは1里11町(約5.1km)の場所に位置する。
桝形は、江戸側が住吉神社付近、京側が西宮神社のあたりにあった。なお、京側枡形はさらに300m程度、京側に下った若宮神社入り口付近ともいわれる説もある。
岩村田宿は宿場でありながら本陣や脇本陣がなかった。したがって、大名の宿泊が必要な場合については、宿場内の寺社を利用したといわれる。このような宿場は、ほかに高崎宿が同様に本陣・脇本陣がなかった。
岩村田宿は、1843(天保14)年※1の軒数・人数は、18,350件・1,637人、男808女829はほぼ半々であった。

※1 児玉幸多校訂「近世交通資料集 中山道宿村大概帳」による。


<岩村田宿の歴史史跡Map>


主な見どころ案内
龍雲寺

鎌倉時代に地頭の大井氏がここより南の地に龍雲寺を創建、その後、1484(文明16)年の兵火で焼失し、戦国時代に入ると武田家が庇護し荒廃した龍雲寺を再興、北高禅師により、武田信玄、勝頼が帰依し、佐久郡における曹洞宗寺院の中心的存在となって、1572(元亀3)年には信玄上洛の際、必勝祈願の千人法幢が行われた。境内には信玄の亡骸を埋葬したと伝わっており、昭和6年境内の土中から信玄のものと思われる遺骨(分骨)と短刀(島田助宗作)や袈裟環などの副葬品が発見されている。
また、江戸時代には岩田村藩主から庇護され、本陣のなかった岩村田宿の中で、身分の高い人達の宿所や休憩所にもなっていた
普段は締まりっぱなしの山門には正親町天皇の直筆で「東山法窟」の勅額が掲げられている。


円満寺


平安時代に創建。鎌倉時代末期の永禄年間、紀州の僧雄伝が開山、武田信玄が開基となり施無畏堂(観音堂)を建立した。現在のお堂は江戸時代に再興したもので、木造11面観音立像が安置されている。
この寺は真言宗で、明治時代以降は不動明王と中尊大日如来座像が主尊となっている。境内には明治期の国会議員立川運平像や軽井沢の慈善家カナダ宣教師のキャンベル夫妻の供養塔などがある。
また、境内の奥には、藤棚があり、花の時期には地面に届くくらいの見事な花をつけ、「砂ずりの藤」として、知られている。この藤は、戦国時代開祖の興教大師が京都の本山から野田藤を移植したが、江戸時代に焼けたため再移植し、現在は二代目である。


住吉神社

岩村田宿の北の枡形があった場所に近く、ここから岩村田宿が始まる。この神社は、宿場の形態を整えるため室町時代の1469年の文明年間にこの地に祀られた。祭神は、大阪の住吉神社に起神し、社には、庚申塔6基、道祖神20基、石祠(せきし)13基などが合祀されています。また、ここには、神社より南に30mほどの所に善光寺道の道標がありましたが、昭和に入り事故で破損したため、ここに旧道標が移設され、旧道標のあった場所には新たな道標が建てられています。


旧法華堂

天台宗聖護院の信濃触頭で東信地方の本山派修験道の拠点であった。無動窟内陣には不動明王、投行者(えんのぎょうじゃ)東照大権現などが祀られている
屋敷裏には三宝荒神社がり、その横に昭和40年代岩村田本町ビル建設に伴い伊勢屋敷跡にあった神明神社が移築された。
所領者から大井法華堂とも呼ばれ、中世以来岩村田(佐久市岩村田)に住み、京都の本山派(聖護院門跡)からの補任や許容に関する多数の文書を持つ天台修験職の先達家であった。
旧法華堂の所領は、寺院や神社と同様、領主から安堵状が与えられ、天台宗の法華経による33日に及ぶ修行の場などに使われていた。 鎌倉時代から江戸慶長に至る中世重要資料が保存されている。 


西念寺

室町時代末期の創建で、伊勢生まれの岌往上人(きゅうおうしょうにん)が開山、武田信玄の開基。岌往上人は信濃、甲斐などの国に約70か所の寺院を開山している。当初の所在場所は、ここから南西へ1キロほど離れた閻魔大王鵜などを祀る蔦石付近の十王道で浄土宗の布教を行い崇高を集めた。
1560年(永禄3年)に本堂を建立、武田信玄の帰依を受け「一行山西念寺」とした。
<菩提寺>
小諸藩主、仙石秀久(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に仕えた)が菩提寺でもある。
岩村田藩五代目の内藤正国の墓石が境内外の南西に祀られている。
<吉澤鶏山(けいざん)墓碑と石碑>
江戸時代中期の学者で、岩村田界隈の歴史的事象をまとめた「四隣譚薮」(しりんたんそう)や特に信濃の山河、村落などを調べた「信陽雑志」(しんようざっし)が知られている。鶏山の屋敷はないが西念寺東に位置するそば店北西楼(ほくせいろう)で吉澤家の屋敷神様を祀っている。
<境内にあるもの>
下仁田道の道標や詩人山室静の墓、岩村田藩士の墓が数多くある。
大イチョウの木は、雌雄和合の木として一枝だけ実のなる枝のある珍しい木である。
また、墓地の南西には、鼻顔稲荷の南に位置する上州道(下仁田道)の道標が移管されている。


若宮八幡宮

小海線踏切を渡りすぐの所に境内の表示石碑がある。境内に入ると木製の両部鳥居が立っており、扁額には「郷社若宮八幡大神」と記されていう。
鳥居から参道を進むと社殿。瓦葺拝殿には「奉幣殿」と書かれた扁額。拝殿の後方には流造の立派な本殿があり、本殿の後方に御神木の欅がある。
右から若宮神社本殿、祇園天王・天満天神宮、正八幡大神・神功皇后社と三つの社が並ぶ
当地の領主大井朝光が源家であったことから鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請した神社だと伝わる
古来、岩村田の産土神であり岩村田藩の崇敬篤く、社伝では1202(建仁2)年、大井朝光の末裔である大井某奉納の懸心額と古鈴がある。
また、この地を治めた大井氏の大井郷2万人の住民を抱えた町並みはこの付近と言われている。
<見どころ>
① 各本殿(3社)屋根の鬼面②石常夜灯(石尊灯篭)③石常夜灯(下仁田道灯篭)④相対道祖神⑤祇園天王(岩村田祇園出発地)


佐久甲州道分け去れ(上:甲州道起点、下:起点の北側町内)

西宮神社の西約30m場所に、中山道から南の山梨県へ延びる佐久甲州道の分け去がある。
佐久甲州道は、野沢宿、臼田宿、高野宿・・・・韮崎宿で江戸から下諏訪へつながる甲州街道に合流する約100kmの街道である。(他の呼名:佐久甲州道、佐久甲州街道、佐久甲州往還など)


上州道起点

西宮神社から岩村田宿を北に約50mの場所に、中山道から群馬県へ延びる上州道の起点がある。本町から稲荷町を通リ、花園町で湯川を渡り、鼻顔稲荷神社の山門前から南へ約100m坂道を上ると分け去れがあり、過去にはここに百番順禮供養塔(ひゃくばんじゅんぽうくようとう:坂東33・秩父34・両国33か所の観音霊場をさす。=現在は西念寺境内に移設)があった。
(他の呼名:下仁田道、下仁田街道など)
このほか、長野県から群馬県へ超える峠は多く、中山道の碓井峠、そしてこの下仁田道の和美峠、その南に富岡街道の内山峠、田口の余地峠などがあり、関所もなかつたことから善光寺参りなどに行く女性が多く使い、信州姫街道、女街道とも呼ばれた。


伊勢屋敷
明治11年頃まで伊勢屋敷と呼ばれる伊勢神宮の出張所のあった場所
屋敷は、伊勢神宮の御師が駐留するための建物や参拝者の宿泊所、土蔵、天照大御神を祀る社など多くの建物があった。
神社の敷地はこの公園と一部南に200mほどの位置にある上州道付近まで、広大な敷地を有していました。
この場所にあったにあった神社、大神宮は、東にある稲荷神社の境内に移築されている。

その後、この土地には長野県の支所や警察などが建てられたが、現在は公園として、いこいの場所となっている。


大井城跡

鎌倉~室町時代にかけての地頭であった大井氏の居城であった石並城、王城と黒岩城を合わせて大井城と呼ぶ
場所は、宿場の東側の河岸段丘に位置し、現在は公園となっている。
王城にある樹齢500年の大けやきは圧巻である。このほかに、十二社、石尊、三峯、御岳の石神が鎮座する。


信濃石

岩村田七石の一つ。2万4千年前の浅間山の大崩壊により、流れついた溶岩石の赤石でまるで庭石のような体で、おさまっている。この付近は地名も「信濃石」という。
<このほかの六石の所在場所>
豆牟礼石(つむれいし):上信越自動車道下の湯川付近にあったが、寛保2年の戌の満水の際に3つに砕けたという。
勝田石:現在のイオンモール付近
夫婦石:柳堂、現子供未来館付近
蔦石:岩村田高校の東側
赤石:住吉町付近、一部は龍雲寺の石碑の台座に使われている。
鞍掛石:宿場西より、1kmの砂田地籍にあった。一部は、浅間中学校の庭石になっている。


鼻顔稲荷神社

日本の五大稲荷(京都伏見、愛知豊川、佐賀祐徳、茨城笠間)の一に数えられ、1558年室町時代の永禄年間に商売繁盛を願い、京都伏見稲荷から勘請され、この地名の花園から神社の名前が付いたとされる。
神社は、天照大御神が天界の使いとして、白キツネに稲穂を担がせたことにより、稲荷神社として現在でも油揚げを奉納する。
祭神は、宇迦及御魂命(うかのみのみこと:生産、五穀豊穣)、猿田彦命(道祖神、交通安全)、大宮能麻売大神(おおみやのめのおおかみ:市場の神)で、明治、大正、昭和と養蚕の神様として繁栄した。
神社の岡の上には、明治に稲荷町の中央公園から移設された天照大御神を祀る大神宮がある。
また、荻原井泉水、山室静や種田山頭火の句碑などの多数の碑がある。


相生の松

かつて、宿場の西、若宮神社から500mほどの場所に長塚と呼ばれ丘地形がありました。(現在、浅間総合病院の一部)
赤松と黒松が双生の珍しい松があり、夫婦の絆や共に育つなど縁起が良いということから「相生の松」呼ばれた。(赤松の別名をメマツ、黒松をオマツとも言った。)
皇女、和宮が14代将軍家茂の正室として降嫁の際に、岩村田藩の内藤志摩守のはからいで、この場所で野点をして休憩をした。
現在の松は四代目であるが、昭和40年に一代目の松が枯れ、切り株から約200年以上前の松といわれ、和宮が野点をした頃は、この一代目の松の下で休憩したのではないでしょうか。


藤ヶ城(岩村田城)

六代藩主内藤正縄(老中水野忠邦の弟)の時代、伏見奉行職から城主格となり宿場の東南、上ノ城地籍に七代正誠が1861(文久元)年に築城を開始、延べ人員255,000人、工費2万両あまりで4年後の1864年に本丸御殿を棟上げしてた。城の規模は、敷地約30,000坪、本丸御殿、城門10、特に櫓門は小諸城表門の倍第と評され(この櫓門を城の象徴としたようで、鯱を載せている)。
城の防御は南東を湯川の湿地で、西方に水堀を設け、各城門付近には枡形の防御を施し、城内の四隅には櫓(未完成)を、北の桜門と太鼓楼付近の場内で一番高い場所に天守閣を計画したが、藩籍奉還で、築城は中断され完成をみなかった


京側枡形より、宿場を見る

コメント

鍋倉山/黒倉山

2020年05月26日 | トレッキング

2020/05/24(日)晴れ
<コース>
駐車場9:40頃→9:50巨木の谷登山口→10:25鋭角な曲り角→10:44巨木の谷・休憩点~森姫・森太郎付近探索~11:28休憩点(戻り)11:38→11:54森太郎×登山道交差地点11:57→関田峠からの登山道へ出る12:55→13:02鍋倉山山頂(昼食)13:33→久々野峠→13:53黒倉山→14:13黒倉小池→14:46茶屋池(周遊)15:05頃→(大神楽展望台)→15:59駐車場

<全体Map>
県道に面した登山口の入口を慎重に探しながら林に入ることができた。
一旦、登山道に入れば巨木の谷までは、比較的わかりやすい道である。
ただし、案内看板は抜かれており地面に裏向きにして伏せられている。

<鋭角な曲り角>

<巨木の谷・休憩点~森姫・森太郎付近探索~休憩点(戻り)>
道らしい道がなく林の中をさまよい、約1時間かかってしまった。

<森太郎×登山道交差地点>

足跡が見当たらない雪渓を、関田峠からの登山道を目指してトラバースして行く。
ところどころ急な傾斜の谷地形で足を滑らしたら、下まで流されてしまう。
傾斜が緩やかになった場所で、一気に直登しヤブコギをすることになった。
約1時間かけて、やっと関田峠からの登山道へ出ることができた。
ここに出るのが一般的な登山道であり、下山する人に遇えたことがとてもうれしかった。

<鍋倉山山頂(昼食)>
30分弱の休憩で、早々と下山することにしました。

<久々野峠>
この地点が、巨木の谷からの道と関田峠からの道の地点であった。
しかし、巨木の谷からの道には足跡が見られない。冬場は殆ど通る人がいないように思える。

<黒倉山~黒倉小池で展望の効く地点>
ここからは、日本海が見えているはずなんですが、霞んでしまっていました。

<茶屋池>
約20分周遊して、県道へ出ました。
お疲れさまでした。

以下、歩きながら見た花たちのピックアップです。

オオイワカガミ
群落がありますが、不思議にここだけ咲いていました。
花の時期には、少し早いようです。

ショウジョバカマ

ミツバツツジ

ミネザクラ
最後に咲く、桜として知られています。
2000m程度の場所では、6月下旬に咲きます。
このほかには、タムシバ、オオカメノキ、タニウツギなどが咲いていました。

まだ時期は早いですが、カニコウモリ、エンレイソウ、アマドコロ、サンカヨウ、マイズルソウなどまだ分かりませんが、6月中ごろになればいっぱい咲きそうです。
黒倉小池には、モリアオガエル、クロサンショウウオの卵がいっぱいありました。

コメント

御牧ケ原の野馬除史跡めぐり

2020年04月09日 | 歴史の道/中山道

2020/4/8(水)御牧ケ原の野馬除(のまよけ)史跡の現地学習
御牧ヶ原という場所は、長野県佐久市(旧望月町、旧浅科村)、東御市(旧北御牧村)と小諸市にまたがる広い台地です。

この御牧ケ原が、「望月牧」として知られる牧場で、馬が飼育された場所でした。
このような牧場は「御牧」と呼ばれ、甲斐・武蔵・上野・信濃国の4国に32牧が設けられていました。
これらの中でも「望月牧」は、最大の規模を誇り、ここで飼育された馬は駿馬「望月の駒」として全国に知られていました。
平安~鎌倉時代初期にかけて、信濃国16牧で80疋の貢馬(朝廷に献上する馬)が毎年、朝廷へ献上されていました。このうち、20疋は「望月牧」で飼育されたものでした。
牧場の規模は面積は約2,100haで、断崖など自然の障壁を除いては、周囲約38kmにわたって土手、柵や溝を築き、馬が逃げ出すのを防いだといわれています。この土手などを「野馬除」というようです。
現在も、このような箇所が、多数確認され、それぞれの市の指定文化財(小諸市を除く。)となっています。


駒込(馬を追い込み集める場所といわれる。)の上の断崖上からの眺め。
不思議な地形で、断崖に沿い布施川が円状の流れています。
この下が、「駒込」ですが、このほかに周辺では、馬に由来する地名が周囲にいくつか存在します。
例として、「御馬寄」「牧布施」「駒寄」「厩尻」「大杭」など。そもそも、「御牧ケ原」自体がそうでした。

入ノ沢地点
小高い場所にあり、浅間山から佐久平全体を見下ろすことができます。

同上地点から、浅間山を望む。

同地点から佐久平を望む。

上部から、溝が築かれており、野馬除けとされる場所。

池久保は土塁の上に、案内の柱がある。


藤見塚。御牧ケ原台地でも高い場所。
晴れていれば、富士山が眺望できるそうです。

藤見塚の下方のにある、佐久平を眺望できる場所から

御牧上、広場から浅間連峰を望む。

御牧上。右側の溝が、野馬除史跡です。

小諸分であるが、野馬除けとして正式に認められていないようです。

同上。反対の場所を望む。
この道の左奥に、農業大学校があります。

今回はここまで、
ごく一部ですので、後日、一日かけて学ぶことにしております。
下図が全体Mapですが、今回の学習範囲はせいぜい1/4程度でした。

コメント

八幡宿現地学習

2020年03月26日 | 歴史の道/中山道

2020/3/19(木)八幡宿現地学習
佐久歴史の道案内人の会の野外での会員学習会を開催いたしました。
定例会の後の午後の時間を使い、約1.5時間で主に中心部を歩きました。

主な、ルートはJA駐車場→八幡神社境内見学家→町家見学→脇本陣依田家/本陣本陣→根際道交差点→盗人道→桝形→常泉寺→生水大神→JA駐車場

八幡概略Map
<宿場説明>
* 宿場開設:宿場北方の蓬田(よもぎだ)村27軒、桑山村16件、宿場南方の八幡村20件の合計63軒の、人々が集められ1602(慶長7)年宿開設となった。三か村が集まり新しくできた宿場のため、当初は新(あら)町宿と呼ばれていたが、上野国(こうずけのくに)の新(しん)町宿があり紛らわしくなり、八幡宿と改称された。

<八幡宿地割り図>
* 集合した三か村は、それぞれに固まった場所に住居せず、入り組んで住んだため、村が複雑に入り組んでいる。問屋は本陣と三か村の名主の内の一軒が半月交代で務めた。(上図参照)
これは、現在も続き、お隣同士で郵便番号が違というようなことになっている。
* 江戸から24番目の宿場で街並みは約800m。道の両側に用水路が流れていた。
1843年(天保14)軒数143軒で本陣1、脇本陣4、旅籠3は、すべて中央の中宿に存在した。
* 西の望月宿まで3.5km(32町)、東の塩名田宿まで2.9km(27町)と極めて短い。これは、千曲川の川止めの際の待機地としての役割もあった。
また、当地は強粘土質の土壌で、雪解け時や降雨時の通行には困難を極めた場所でもある。



<八幡神社境内イラスト>
祭神:誉田別尊ほんだわけのみこと(応神天皇)、息長帯姫命おきながひめのみこと(神功皇后)、玉依姫命たまよりひめのみこと
創建、859(貞観元)年、滋野貞秀が上州雄徳山より勧進したものと伝わる。
勅使牧、「望月の牧」の南斜面でもあり、表玄関ともいえる場所で牧の守護神として祀られた。


<随神門>
1843(天保4)年建立。牧野康哉やすとしが大願主で、周囲の地域の小諸藩領地から欅材を調達した。
調達地の住民が運び込んだとされる。
構造:三間一戸楼門、一階と二階の間の親柱に擬宝珠(かざり)をつけた高欄の縁側が巡らされている。
両脇には、随神の武官、左大臣、右大臣が安置されている。刀の竜を見ると「阿吽」の形が分かる。
門の額は、明治初期のもので、小松宮彰仁親王による親筆で「止戈為武」と書かれており、「武とは戈を止めて武を為す」という意味です。


<算額のレプリカ>
本物は額殿(武徳殿)に奉納され保管されている。
算額は、「和算による問題と解法をしました」ものを額にしましたもの。
学問の向上を記念したり、成就に感謝して奉納されていた。
また、和算家の研究発表や交流の場とされていた。
長野県最古1780(安永9)年奉納の算額とされている。

<本陣(小松家)>
宿の中央北側に位置する。小松五右衛門が代々本陣・問屋を務めた。和宮通行の際のゆかりの品や関札(宿札)も多数伝えている。
残っている門は、中山道最古のもの
伝わる。

脇本陣跡(依田家)
宿の中央、南側に位置する。依田太郎兵衛家が脇本陣・問屋と八幡村の名主を務めた。古文書、関札が伝えられている。このほかに、脇本陣は2~3軒あった。


豆知識<八幡の読み方>
八幡宿=やわたじゅく
八幡神社=はちまんじんじゃ
八幡山常泉寺=はばんざんじょうせんじ


・・・宿の東「下原」には、五郎兵衛用水の水を利用した寄池(貯水池)4つと隧渠(トンネル)の話は別の機会に掲載いたします。


 

コメント

塩名田宿の現地学習

2020年03月23日 | 歴史の道/中山道

2020/3/19(木)塩名田宿現地学習
3/26(木)開催予定であった、歴史セミナー受講者の「現地学習」は、新コロナウィルス感染症の拡大防止ため中止になりました。
しかし、佐久歴史の道案内人の会では、野外での会員学習会を開催いたしました。
主な、ルートは浅科公民館→本陣/高札場→佐越家→佐藤家筆塚→斑稲荷神社→正縁寺→お滝の水場家→河原宿→千曲川へり/舟つなぎ石→中津橋→御馬寄→勝手神社→<戻り>→真楽寺道標→中津小学校→浅科公民館

ルートイメージMap(観光協会:観光ガイドマップより)

案内マップの大看板でのコース説明

左奥が佐越家、正面が大和屋酒店でかつての大和川蔵元です。
この付近に家には「武者隠し」とされる場所があります。


海老屋豆腐店 売り切れ・・・朝、早めに来ないと買えないとのこと
佐藤家筆塚>代々儒学者であった佐藤家の開いた寺子屋の門下生約300名により1853(嘉永6)年、建立された。
斑稲荷神社>稲荷大明神を養蚕の神様として、1787(天明7)年に勧請された。
正縁寺>浄土真宗、本尊は阿弥陀三尊像。この付近はかつてから阿弥陀信仰の僧が居住しており、正縁寺の称号もその由来とされる。創建時期は不詳であるが、戦国時代に焼失し、元和・寛永年間(1615~1644年)に、超誉一念和尚により再建された。
→河岸段丘を降りる。(ここまでの写真省略)

お滝の水場
かつて、滝明神があった。十九夜講、国土地理院水準点がある。
お隣は、「御や須み処 嘉登屋(かどや)」、続いて、河原宿の家並みを千曲川に進む。

舟つなぎ石がなんとひっくり返って、流れの方向に移動しているよう。
例の穴は石の下の部分です。
明治の木の橋脚は下がえぐられたためか、はっきり見えるようになりました。
上流の烏帽子石は、前のままの位置に残っているように見えます。

中津橋の橋上から、流れやかつての渡しの場所などを眺めながらの論議では、話に花が咲きました。
中津橋は、昭和6年に完成したものですが、しっかりした構造、その存在感に当時としては画期的な橋であったものと想像でします。この橋は日本百名橋に名を連ねています。

浅間山は佐久を見おろしていますね。ここからの眺めは、爽快で気持ちが晴れ晴らしていいですね。

千曲川を渡り、御馬寄にわたり最初の小路を南に進みます。丸三館という旅館がありました。
これは、新発見!二階の欄干のつくりはなかなか趣があります。
これから、調べる必要がありそうです。昭和30年代ごろには営業されていたのではなのでしょうか?

勝手神社創建不詳。いわゆる勝手神社の分社とされています。
境内には、他の場所から移された山の神神明社の神社があり、御嶽碑のほか道祖神などが並びます。
信玄がこの前で落馬してという逸話がある場所です。
この場所は千曲川の渡りがあったり、野沢につながる道がありました。

勝手神社の社殿。右裏には佐久市指定天然記念物の大ケヤキが立っています

真楽寺へ三里」の道標。横を通る県道(かつての国道)ができた際に、お滝のあたりの下の場所からこちらに移設された。

旧中津小学校の東側に常木用水が宿場に向かって流れています。
現在、冬ではありますが水の流れがあるのは、本来の取り入れ口とは別の場所の水が流れているようです。(調べてみる必要ありです。)

コメント