少年トッパ

アメリカ映画はアメリカ社会を変えるのか?

 ここんとこ、硬派で骨太なアメリカ映画が続々と公開されている。アカデミー賞の候補になったのも、ほとんどが「社会派」と呼ばれるタイプの作品だった。いや、まだ半分ぐらいは日本じゃ未公開なので、自分の目で確かめたわけじゃないけどね。ともあれ、たとえば『ミュンヘン』では「報復」が無意味で虚しいものであることが訴えられ、『クラッシュ』では今なおアメリカに根強く残る人種差別が描かれるなど、「カネにモノを言わせた娯楽作」とは一線を画す作品が目立っているのは間違いないだろう。今年に入ってから僕が観た中では、暗躍する武器商人の姿を通じてアメリカ合衆国を皮肉った『ロード・オブ・ウォー』、世界初のセクハラ裁判に基づいた『スタンドアップ』、湾岸戦争に出征した若き兵士たちが精神を病んでいく姿を描いた『ジャーヘッド』も、重く現代的な主題に挑んだ作品だった。
 こうした諸作品を観ては、僕ら映画ファンは「アメリカ映画の良心」だの「アメリカの映画人の心意気」だの「アメリカ社会のフトコロの広さ」だのを感じたり語ったりする。しかし、果たして作り手の切実な想いや訴えがアメリカ社会に影響を与えることができるのかというと、それは甚だ疑問だったりもするのだ。これは僕だけが思うことじゃないだろうが、そういった作品を作ったり観たりすることは結局のところ「ガス抜き」のような作用しか果たさないような気がするし、そもそも「訴えを届けたい相手」は作品を観ないだろう、などと考えてしまうのである。あの『華氏911』でさえブッシュ再選を妨げることはできなかったという事実、それに今なおアメリカによるイラクへの武力行使が続いていることが、それを証明している……気がする。
 無論、「社会派映画」の存在が無意味であるとは思わない。多くの人々を啓蒙したり、あまり知られていない事実を世に広めたり、観客に自分の頭でモノを考えるよう促したりする、という意味では充分に有意義だ。しかし、たとえば戦争の虚しさや無意味さを描いた作品を観るのは、その大半が戦争の虚しさや無意味さをそれなりに理解している者だろう。人を差別することの残酷さや非道さを描いた作品を観るのは、やはり大半が人を差別することの残酷さや非道さをそれなりに知っている者なのではないか。もちろん、これはアメリカに限ったことではない。日本だって他の国だって同じだろう。
 昨年、『映画 日本国憲法』というドキュメンタリー映画が公開された。観た者のほとんどが「日本の憲法は素晴らしいと改めて思った」という感想を持つであろう作品である。僕自身も、そんな風に思った。しかし、おそらくは観た者のほとんどが、もともと日本国憲法の意義を知っている者であったはずだ。いわゆる「改憲論者」は、この手の作品を決して観ないのである。ブッシュを支持する者が『華氏911』を観なかったのと同じように。
 では、どうすればいいのか。要するに、万人が観るようなコテコテの娯楽作品に、伝えたいメッセージを上手にまぶせばいいのである。って、言うのは簡単だけど、それを実現させるのは至難のワザなんだよねぇ。うーん、またしても中途半端な内容になっちまった。ご無礼っ。
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