ホーム突き落とし
「死のうと思って駅に行った。怖くなって自殺できなかった」… だから前にいた人を「突き飛ばした」のか。
「狂人」は狂っているが故に法で罰せられることが無い。
狂っていることが「免罪符」のように使われれば、それだけで「狂人」は全てのことから「超越」する。あらゆる抗する力を無力化してしまう「全能の神」となってしまう。人の命を奪ったことになんの悲しみを抱かないものが、人の未来を奪ったものが、時が経ち、記憶が忘れられた頃に「復活」してしまう。
自分の命の代わりに誰かの命を供することが必要だったのか?それとも、突き飛ばした力が巡り巡って己の体を線路の上に押しやるのだ、と信じていたのか?
「不思議」な人の「不思議」な思考力に驚きを隠せないながら、その「不思議」さの思考を持った人間が他にもいくらでもいることが現実だと思い知るとき、背筋を凍らせざろうえない。
死への恐怖の感情がフラッシュバックするときに、極度のパニック状態から「のがれる」ための無意識の「暴挙」が、なんの接点をもたない人間にもたらされることが「異常」の結末であるのか。しかし、自分が不幸だとしても、それを他人に「償わせる」ことはない。殺された人はあなたに殺されるために生きてきたのではない。
自分の不幸を自分で精算できない人間が、本当は最もおそるべき人達なのかもしれない。近づいてはいけない存在なのかもしれない。
「これがお前のイージーオールか?」
テレビドラマ「がんばっていきまっしょい」。
悦ねぇが腰を悪くしてもうボートを漕ぐことができなくなった。今まで頑張ってきたのに、最後の最後で「琵琶湖」に行けない悦ねぇ。
「ボートが漕げんのなら、もうオール持てんのなら、意味無いんです。」
「琵琶湖にいっしょに行こう!」のみんなの誘いを悲しげに断ってしまう。
防ぎ切れない、自分ではどうしようもない現実を突きつけられて喪失感を感じてしまう悦ねぇ。
「これがお前のイージーオールか?」
幼なじみの「ブー」は悦ねぇに問いかける。後ろを向く悦ねぇに問いかける。「きちんとイージーオールせんと次が始まらんやろ」
「いくぜ!琵琶湖」
悦子の涙ながらの「みんなとやから、いっしょにやってこれたんよ」との告白にお父さんはこう言う。悦子の頑張りがわかっているから、悦子のこころを後押しする。
いいねぇ。ちょっと泣いちった。「がんばっていきまっしょい」 青春のほろ苦さや、感動を与えてくれるな。ストーリーに無理がないんだよな。淡々と進むけどもきっちり、感情を押さえて行く「つくり」なんだよな。
来週は最終回。30分拡大版です。