なぜ、小野田寛郎氏のサバイバル哲学に学ぶのか
「人の行く裏に道あり花の山」相場格言の一つだ
人目に付くような表通りの道には、花(価値あるもの)はない
仮にあったとしても、とっくに取られた後だろう
ひどい場合は、毒にしかならない草しか生えていないかもしれない
本当に価値あるものは、道とも言えないような道を分け入り、汗をかきながら息を切らせてやって来る者
そんなご縁のある者だけをひっそりと待っているものなのかもしれない
誰もが簡単に見られるテレビやメディアなど、果して「花」はあるのだろうか?
相場で言うところの、情報の一番最後に伝わる場所となるところだ
もちろん、そんなところに価値あるものは存在しないと考えておくほうが良さそうである
これからの時代、自分軸で考え生きる力が必要とされる
では、「生き残るための考え方」とはどのようなことだろうか
それには、30年間ジャングルの中で生き延びた小野田氏の哲学にヒントがあるかもしれない
戦争についてのご意見は人によりいろいろおありと思うが、私が学ぶべきと思うところは、氏の驚異的なサバイバル能力についてである
快適な生活環境の中で、もっともらしく聞こえる理屈を語れる人間はごまんといる
だが、実際に30年間、文明とは隔絶したジャングルで自力で生きられる人間はどれほどいるのだろう
私も含め、今の日本では想像しただけで「自分には無理」と思ってしまう方がほとんどかもしれない
しかし、氏はそれを成し遂げた
経験者でなければ分からないこと、氏の貴重な「実践サバイバル術から学ぶ哲学」をこの著書から学ばせていただきたいと思う
著作名 生きる
著者 小野田寛郎
株式会社PHP研究所
<著者略歴>
小野田寛郎(おのだ・ひろお)
大正11年(1922)、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)に旧制海南中学卒業後、貿易商社に就職し中国に渡る。昭和19年(1944)9月、陸軍中野学校二俣分校に入校、12月にフィリピンのルバング島に派遣される。以後30年間、作戦解除命令を受けることなく任務を遂行し、昭和49年(1974)に帰還。昭和50年(1975)4月、ブラジルに渡り牧場を経営。昭和59年(1984)、子供たちのキャンプ「小野田自然塾」を開設し、理事長を務める。平成26年(2014)1月、逝去。
はじめに、なぜ小野田氏は、ルバング島に派遣されたのか、その理由のわかる記載を敬意をもって引用させていただく
本書p15~
なぜ、戦争が終わったことに気づかなかったのか、という質問がよくある。あるいは、三十年も戦争が続くと思っていたのか、という人もいるが、それはそれなりに理由があった。
ルバング島は淡路島の半分くらいの小さな島で、なぜ、その島に行ったのかという背景から説明しよう。昭和十九年十二月は、サイパンが占領された後、連日東京が爆撃されていて、日本国中で〝一億総玉砕ぎょくさい〟とまで叫ばれた時期である。
一方、前線では、すでにフィリピンのレイテ島が決戦に敗れており、明日にもルソン島のマニラに向かってアメリカ軍が上陸して来るという、本当に差し迫った時期であった。
私は情報要員、俗に言うスパイの養成所、陸軍中野学校を卒業して、フィリピンの軍司令部の参謀部に赴任した。そこでフィリピンの軍司令部が持っているすべての情報について説明を受けた。
「戦況は、我が軍にますます不利だ。米軍は、ルソン島攻略後、さらに沖縄上陸作戦を敢行。九州・大隈半島に上陸し、浜松を拠点化、九十九里浜上陸を目指す。本土決戦は必至である。最悪の場合、米国による日本本土占領もあり得る。その場合、日本政府は満州に転進、関東軍、支那派遣軍が徹底抗戦を図る。支那大陸には陸軍八十万の兵力が温存されている。反撃攻勢の時期は三年ないし五年と想定される」
と戦局の推移を説明された。
そして、私の任務は「ルバング島で游撃ゆうげき(ゲリラ)戦を指導せよ」だった。
アメリカ軍に対して、人的損害のみに絞って戦い続ける。支那大陸となると、アメリカの海軍の砲の威力が全然利かない陸上の戦闘。つまり、飛行機や戦車との戦いである。日本の方は、装備は劣勢であっても、陸上の戦闘ならアメリカ兵に対して損害を与えることができる。
この目的は、人的損害を多くして、アメリカ国内に反戦・厭戦えんせんの気分を助長し、戦争の継続を諦めさせようという心理的な狙いである。日本でも現在は民主国家だが、民主国家の一番の泣き所は、国民全体の意識が反戦・厭戦に傾いた時に、いかに大統領といえども戦いをやめざるを得ないことだ。ここが最後の狙いだったわけである。
こういう大きな戦略的な立場から、大陸で戦闘する場合、アメリカの後方の最も大きな基地がフィリピンである。スービック湾の海軍基地、クラークフィールドの空軍基地、こういう後方基地に対して、手を抜けば、いつでも目の前の小さな島の飛行場を占拠して、土手っ腹に匕首あいくちを突きつけるぞ、という牽制の態勢を見せようとしたわけである。
その手段として、アメリカ軍占領後も飛行場の滑走路を短時間占拠するゲリラ要員を、その島に忍ばせておく。私に命ぜられた任務はそれだった。
「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでも、その兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
横山静雄師団長から、じきじきに命ぜられた。
絶対死んではならないし、また自分の判断で他の島に移動することも禁じられた。牽制のための情報員は、現地に常駐していなければ役に立たない。こういうわけで、私はルバング島に昭和十九年十二月三十一日の朝、赴任して、早速持って行った戦闘資材を山に隠した。
故小野田寛郎氏も、戦後の日本を憂慮しておられた
心より哀悼の意を表し、敬意を持って引用させていただく
p14~
死ぬことは、負けること
陸軍でのもともとの教えは、
「捕虜になるくらいなら死ね」
中野学校はちがう。
「死ぬくらいなら、捕虜になっても生きろ」
それが情報将校の務め。
つまり、「死ぬこと」は負けだった。