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徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃1~

2019-09-09 05:00:00 | 日記
戦闘指揮所の入口の番兵に、261空司令に連絡に来たことを告げ、横の僅かな隙間から石の階段を十数段のぼると、左側に入口があり、その中には十数名の海軍上層部の主として、左官級の立ち姿が淡いロウソクの光を中心にして集まり、作戦会議中であった。

上田司令が出てこられ、私たちに次の事をつたえられた。「戦況はわが軍にとって極めて不利である。米陸軍部隊、海兵隊はアスリート飛行場を完全に占領し、すでに軽飛行機の離着陸が可能な状況である。また米陸軍部隊は、戦車を先頭にタポーチョ山に進攻してきており、一方ガラパン市街は陥落、敵はタナバク水上基地北部にまで進出してきた。
ここにおいて、日本軍の救援、逆上陸は、もはや望み得ない。従って数日以内に陸、海軍および軍属、民間人にも参加可能なる者は全員参加し、最後の総攻撃を敢行する。全員は総攻撃用意のため、兵器を整備し待機せよ。」私たちは深夜に至って洞窟に戻ると、早速、岡本軍医長にその旨を報告した。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

2019-09-06 05:00:00 | 日記
さて、ここでの私の仕事となると、一日中負傷者の診察と包帯交換、特にうじ虫の除去に追われ、大小便などもバケツの中にして外に捨てる状態であった。
このころになると食糧は、もう握り飯などはなく、乾パンと缶詰と、僅かな飲料水が配られるのみであった。

負傷者は次第に衰弱していく、また全員が栄養不良のため、憔悴の色がこく、そのうえ吹き出物や、シラミの発生にも悩まされた。
特にビタミンの不足の結果、多くの者に視力の衰えが目立ち、夜盲症の状態であった。

7月5日ごろからは、さらに陸軍部隊と民間人が相次いで洞窟に集まってきた。
戦局と言えば、すでに島の北部方面にまで米陸軍の攻略は進んできていた。
わが方はもう海軍も陸軍も、民間人も全く区別がなくなり、軍医長はひたすらに医務隊を指揮し、兵たちと一緒に治療に当たった。
戦死者は夜のうちに洞窟の外に搬出し、初めの頃は埋葬していたが、終わりの頃ともなると木陰に安置するのが精一杯の状況であった。

7月5日の夜のこと、この洞窟から一キロほど離れた崖の下にある戦闘指揮所に、浜野主計中尉と私が兵二名を連れて連絡に行ったことがあった。
ここは根拠地隊、航空隊司令など海軍部隊の上層部が集まり、最後の作戦指揮を取っていたのであった。
戦闘指揮所は100メートルもある切り立った断崖の下の方にあり、洞窟と岩のへこみを利用し、周囲を鉄筋コンクリートで固めた《要塞》であった。

それは外部からは全く発見されないようにしてあり、また、艦砲の砲弾にも耐えられるように堅固に作られてあった。
この戦闘指揮所の上部の崖は、敵の上陸いらい数百発、いやそれ以上の艦砲弾を撃ち込まれたと見え、外見も変わるほどであった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光2~

2019-09-05 05:00:00 | 日記
ある夜間、敵の黄燐焼夷弾をうけた熱傷の幼児を抱きかかえた女性が、治療のため私たちの場所を探してやって来た。
傷口を診ると、暗闇の中で紫色の燐光を発し、皮膚に燃え広がっていく。
消毒液で清拭するが、燃え上がる黄燐はなかなか除去出来ず、傷口をヨードチンキで拭くと燐光はすぐ消滅したが、幼児は疼痛のため一段と泣き叫ぶ。
母親は夢中で胸に抱きしめ、乳房を吸わせる・・・ こうして、まさに文字通り、阿鼻叫喚の地獄谷となってきた。

7月2日。
地獄谷付近にも砲弾の落下が、いよいよ激しくなってくる。
この日司令部から、「わが海軍機のパナデル第二飛行場への緊急着陸が行われるかも知れぬから、その時に備えるため、261空の全員は飛行場近くの洞窟に移動すべし」という命令がきて、深夜、負傷者と医務隊員はトラック3台に分乗、他の者は徒歩でひそかにその洞窟へ移動する。

7月3日の午前3時頃、一行は指定された洞窟に到着した。
洞窟は、周囲が熱帯の樹木に覆われており、入口は径3メートルほどもあり、そこから約5メートルくらい斜めに梯子で降りると、内部は広く奥行きも7~80メートルはある。見れば、かねてより海軍の工作隊の手が加えられていたと見えて、木材で数段の床が張られており、早速そこに負傷者を収容し、医務隊、主計隊その他が駐留することになり、命令を待つことにした。暗闇の中にロウソクと灯油の光が点在し、それぞれ光の周辺に数人ずつが集まっている。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

2019-09-04 05:00:00 | 日記
4・5日がたったころ、この地獄谷にも敵の小型観測機が、低空で飛来してくるようになった。
観測機が来ると、30分ほど後には必ず砲弾が落下してきた。
また敵の背後の敵陣地からは、多数の迫撃砲による攻撃が加わった。
ポン・ポン・ポンと十数発の曲射砲の発射音が聞こえると、咄嗟に私たちはみな、岩陰や地のへこみに身を伏せる。
すると数秒後にシュル・シュル・シュルと異様な音を立てて弾丸が飛来し、一斉落下、炸裂する。
そしてその都度負傷者が続出した。
負傷者は小屋から近くの岩陰や、へこみに移し、上空より発見されないようにした。

この頃から負傷者の中に、恐るべき破傷風の患者が多数発生してきた。
治療用の血清も、もう全く使い果たし、僅かに鎮痛剤の投与と、包帯交換をする程度しか手立ては無かった。
治療するにもすべがなく、また血のにじんだ傷口の包帯には必ずハエが来てとまり、産卵する。
それが二日目頃には3ミリ位のうじ虫に発育し、傷口に群生し、そのため負傷者は激しい疼痛をうったえる。
包帯交換のさいは傷口のうじ虫除去に長い時間を要した。

また至近弾が落下炸裂すると、炸裂音と震動のため、破傷風を併発した患者は一斉に顔面が苦悶状の形相となり、歯を食いしばり、全身にけいれんをおこす。
まさに凄惨そのもので、負傷者は次第に衰弱し、のどの渇きと疼痛のため軍医を呼ぶ声があちらこちらでおこり、悲惨極まる有様を現出する。
これらに対して私たち軍医と衛生兵は、僅かな飲料水を与えてやるのが精一杯であった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

2019-09-03 05:00:00 | 日記
タポーチョ山を超えるさいも、昼間は南洋樹のジャングルにひそみ、日没を待って数人ずつで目的地に向かい、三日がかりで島内唯一の水源地に程近い地獄谷にたっした。
そこは名の示す通り、両側を崖に囲まれた谷で、谷底にはかつて島民の住んでいた、十数軒の草ぶきの小屋が点在していた。医務隊は全員で負傷者を、主計隊もまた全力をあげて食料と飲料水をその小屋に運び込んだ。

負傷者の治療に当たる医務隊とは別に、主計隊は、主計長の藤原治主計大尉や、庶務主任の浜野主計中尉の指揮のもとに、近くの林の中で空襲の合間に飲料水の確保と炊飯に専念し、数日ぶりの握り飯と缶詰などを隊員に配給した。
司令部からは伝令が、2~3時間ごとに戦闘状況を報告してきた。敵は次第にタポーチョ山の攻略に主力を注いできているらしい。

6月25日からの三日間は敵に発見されることもなく、どうやら平穏の日を過ごしたが、四日目ごろからこの地獄谷付近に陸軍部隊や、民間人たちが避難のために続々と集まってきた。
このころから、米地上軍の進撃速度はにわかに急ピッチとなり、わが陸軍部隊は、各地点で苦戦を強いられつつ、次第にタポーチョ山の北側に押し詰められてきているらしかった。
陸軍部隊は、主として43師団の兵で、愛知、岐阜、静岡方面の兵隊が多かった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)