徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

2019-09-12 05:00:00 | 日記
かくして、いよいよ突撃の行進がはじまった。
医務隊は第32分隊ということで、総攻撃の後部近くで進撃に加わった。
暗闇の中、ここ数日来の戦闘で倒れたわが陸軍部隊の屍がるいるいとしており、屍臭漂う中を私たちはひたすら押し進んで行った。

午前3時30分ごろ、バナデル水上基地から2キロほど手前の敵陣地付近に、突如としてわぁーという喚声があがった。
先鋒の第一分隊からの突入がはじまったのだ。
米軍陣地では予想もしなかった、早期の日本軍の大規模な総攻撃をうけて、前線は混乱し、曳光弾や機銃弾が方向違いに飛び交う。
30分もしたころ、攻撃部隊はそれまでかなりの速度で進行しつつあったが、隊列が急に止まったかと思うと、先に進んだ兵隊が戻ってくる。

前方から退いてくるもの、後方から進むものとで、予期しない混乱がおこったが、これまでに、総攻撃部隊の半数以上が突入したらしい。
そうこうするうち、やがて東の空が薄明るくなってきた。
そのとき、どこからともなく伝わってきた命令は、本日の総攻撃はこれにて終わり、明早朝を期し再突入するから、各自は海浜近くの珊瑚礁やジャングル
、または岩陰に退避して命令をまて。
と言うものであった。

そこで私たちを含め、突入に間に合わなかった部隊の連中はすべて、海辺の熱帯樹の中に身をひそめた。

医務隊員は、岡本軍医長以下10名が、2~3人ずつに分散してジャングルの中の岩陰に身をひそめた。
陽が昇るとまもなく、敵機が頭上に現われ、私たちの潜んだジャングル付近に急降下で機銃掃射をしかけ、超低空でロケット弾を浴びせてきた。
私たちが潜んだ海浜の沖合1000メートルほどの海上にも、駆逐艦数隻が姿を見せ、砲口を陸上に向けて集中砲火をあびせてきた。

昨夜の前線部隊の突入地点は、すでに米軍戦車群に蹂躙されており、彼らは75ミリ砲と機銃を打ち込みながら轟音をたてて前進してきている。
敵戦・爆機の発射する13ミリの曳光弾は、多数の紫白色の線状をなして飛来し、樹木の枝、珊瑚礁や岩石に当たっては、反跳して飛散する。
また、艦砲弾の炸裂を至近距離にうけると、爆風と硝煙の臭い、それに一酸化炭素の発生で瞬間的に呼吸困難をきたす。
その日は終日、空と海と陸地から猛烈なる攻撃が続き、日没と共にようやく終息したのであった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)