徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

2019-09-27 05:00:00 | 日記
この点について、私のような新任の一軍医中尉が、日本の陸海軍の戦略、戦術などについてのべる資格はないが、この島で米軍の空襲、艦砲射撃につぐ上陸、さらに総攻撃、玉砕までの戦闘経過の様相を自ら体験し、かつ感じたことを述べることが許されるならば、次のような点が”決定的な敗因”であったと思われるのである。

一、 昭和19年6月初旬、マーシャル群島のクエゼリン環礁内に、米機動部隊および、艦船部隊の大艦隊が集結している事をわが方の偵察機が確認しておりながら、「あ号作戦発動用意」で、基地航空隊の主力をハルマヘラ島方面に移動させたことである。
したがってサイパン島のアスリート基地は、航空兵力は半減し、実戦経験の少ない若い搭乗員によって防備されていたのだった。
これでは、敵の空母15隻、戦艦8隻を主とする艦隊や輸送船団に対して、基地航空隊による反撃が全くできなかったのは当然であろう。

二、 数百機の敵艦上機の空襲に対しては、地上対空砲、機銃によって対抗するしかなく、艦上機の集中爆撃、機銃掃射、ロケット弾攻撃のため、わが方の唯一の武器である対空砲火さえも、三日目には沈黙をせざるを得ない状態になった。

三、 敵の戦艦8隻を主とする数十隻はサイパン~テニアン水道から、島内軍事施設、飛行場、水上基地、陸軍陣地に対し徹底的に、また、凄まじい量の艦砲弾、焼夷弾を打ち込み、これに対してわが方は全く打つ手が無かった。

四、 さらに米海兵隊の上陸は艦砲射撃と艦上機の援護射撃のもとマキン、タワラ攻略の戦闘経験ある第2、第4海兵師団で、日本軍の戦術、特に夜襲作戦を熟知した部隊によるものであった。
このため日本陸軍および海軍陸戦隊の水際作戦も、夜襲も、二日目でほとんど壊滅状態になった。

五、 日本陸軍部隊の守備兵力は約25000名であったが、これらは2、3ヶ月前から米軍攻撃直前まで、内地から輸送船で派遣された部隊で、その多くはサイパン入港直前に、米潜水艦の雷撃で沈没したものが多く、重火器、戦車の大半は海没していた。
輸送船の沈没で救助された多数の兵隊は小銃すらも所持せず、ほとんどが丸腰で、ガラパン、チャランカノアの海浜に天幕を張り、陣地構築やタコツボ堀りで作業人夫同様の姿であった。
陸軍の装備兵力は、正規の半分以下と考えられた。
これらは、私がたびたび第5海軍病院に重症患者を輸送中に目撃した事実である。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

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