徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

2019-09-06 05:00:00 | 日記
さて、ここでの私の仕事となると、一日中負傷者の診察と包帯交換、特にうじ虫の除去に追われ、大小便などもバケツの中にして外に捨てる状態であった。
このころになると食糧は、もう握り飯などはなく、乾パンと缶詰と、僅かな飲料水が配られるのみであった。

負傷者は次第に衰弱していく、また全員が栄養不良のため、憔悴の色がこく、そのうえ吹き出物や、シラミの発生にも悩まされた。
特にビタミンの不足の結果、多くの者に視力の衰えが目立ち、夜盲症の状態であった。

7月5日ごろからは、さらに陸軍部隊と民間人が相次いで洞窟に集まってきた。
戦局と言えば、すでに島の北部方面にまで米陸軍の攻略は進んできていた。
わが方はもう海軍も陸軍も、民間人も全く区別がなくなり、軍医長はひたすらに医務隊を指揮し、兵たちと一緒に治療に当たった。
戦死者は夜のうちに洞窟の外に搬出し、初めの頃は埋葬していたが、終わりの頃ともなると木陰に安置するのが精一杯の状況であった。

7月5日の夜のこと、この洞窟から一キロほど離れた崖の下にある戦闘指揮所に、浜野主計中尉と私が兵二名を連れて連絡に行ったことがあった。
ここは根拠地隊、航空隊司令など海軍部隊の上層部が集まり、最後の作戦指揮を取っていたのであった。
戦闘指揮所は100メートルもある切り立った断崖の下の方にあり、洞窟と岩のへこみを利用し、周囲を鉄筋コンクリートで固めた《要塞》であった。

それは外部からは全く発見されないようにしてあり、また、艦砲の砲弾にも耐えられるように堅固に作られてあった。
この戦闘指揮所の上部の崖は、敵の上陸いらい数百発、いやそれ以上の艦砲弾を撃ち込まれたと見え、外見も変わるほどであった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)