徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

2019-09-04 05:00:00 | 日記
4・5日がたったころ、この地獄谷にも敵の小型観測機が、低空で飛来してくるようになった。
観測機が来ると、30分ほど後には必ず砲弾が落下してきた。
また敵の背後の敵陣地からは、多数の迫撃砲による攻撃が加わった。
ポン・ポン・ポンと十数発の曲射砲の発射音が聞こえると、咄嗟に私たちはみな、岩陰や地のへこみに身を伏せる。
すると数秒後にシュル・シュル・シュルと異様な音を立てて弾丸が飛来し、一斉落下、炸裂する。
そしてその都度負傷者が続出した。
負傷者は小屋から近くの岩陰や、へこみに移し、上空より発見されないようにした。

この頃から負傷者の中に、恐るべき破傷風の患者が多数発生してきた。
治療用の血清も、もう全く使い果たし、僅かに鎮痛剤の投与と、包帯交換をする程度しか手立ては無かった。
治療するにもすべがなく、また血のにじんだ傷口の包帯には必ずハエが来てとまり、産卵する。
それが二日目頃には3ミリ位のうじ虫に発育し、傷口に群生し、そのため負傷者は激しい疼痛をうったえる。
包帯交換のさいは傷口のうじ虫除去に長い時間を要した。

また至近弾が落下炸裂すると、炸裂音と震動のため、破傷風を併発した患者は一斉に顔面が苦悶状の形相となり、歯を食いしばり、全身にけいれんをおこす。
まさに凄惨そのもので、負傷者は次第に衰弱し、のどの渇きと疼痛のため軍医を呼ぶ声があちらこちらでおこり、悲惨極まる有様を現出する。
これらに対して私たち軍医と衛生兵は、僅かな飲料水を与えてやるのが精一杯であった。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)