50年前、ある大学講師が道民の革新性が生まれた理由は、アイヌ民族が松前藩に対して挑んだ1669年の“シャクシャインの戦い”にあると語っていた。シャクシャインの戦いは、「官」との戦いであったから、確かに道民は、保革伯仲しているから「官」への敵対意識が他県よりも強いように思う。
道民の先祖は、分家しても食べていくためのもらう土地が狭いことや様々な理由から内地(本州)を飛び出してきた。そして、過去のことを聞きださない暗黙のルールのもとで、全国各地から入植した人々により開拓されてきた。道民は、良い慣習や文化を積極的に取り入れて、良いものは良い又は悪いものは悪いというように、合理的に物事を考えてきた。例えば、結婚祝賀会は会費制が通常であり、私の結婚祝賀会も4,500円の会費制であった。
また、1897年(明治30)、北海道国有未開地処分法ができ所有土地が広く、北海道の人口はその時期を境に爆発的に増えたのである。北海道国有未開地処分法とは、本州の資本家に100万ha以上の大面積を無償で提供するというもので、成功の検査も曖昧なものであった。この結果、大農場の建設が相次ぐこととなり、北海道の不在地主制を決定づけることにもなり、小作争議が頻繁に起こった。
ある時、私は関西に住んだことがある。大阪商人が、道産子に対して“これ以上、まけることが出来まへんわ”というと、すぐに了解してくれるので商売がやり易いそうだ。道産子は、お人好しでドアホの人が多いのであるが、一方で大阪商人は、義理人情に厚く必ず恩返ししてくれることを学んだ。関西人は損得に厳しいが、率直にものを言い、道産子と同様に革新性も強い。
内地・外地に関する話であるが、なぜ、道産子が本州のことを“内地 ”というのかは、北海道が流刑地で先住民族であったアイヌが住む辺境の地で、 “外地”であったからである。もっとも、征夷大将軍坂上田村麻呂が、エミシ征伐で東北を攻めた時には、北東北も辺境の地で外地であった。
ところで、司馬遼太郎氏の著書“街道をゆく(オホーツク街道)”を読むと、日本列島に住んでいたみんなが縄文人=エミシであり、そのDNAを持っているアイヌは、縄文文化を守り続けた人々の後裔であると書いていた。
しかし、エミシは次第に影響力を増大させていく大和朝廷により征服・吸収され、集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。
なお、北海道入植者の県別は、青森県が第1位、2位は新潟県、3位は秋田県、続いて石川県、富山県、宮城県、岩手県、山形県、福井県、福島県である。 因みに十勝は、富山県、岐阜県、宮城県、福島県、福井県、徳島県、石川県、香川県、山形県、新潟県の順である。 (情報元:道庁統計書)
「十勝の活性化を考える会」会員T