当たり前ながら忘れがちになるのが、ジェネレーションギャップはどの時代にもあったということです。例えば、それが江戸時代から明治に変わったような、歴史の教科書に載るような大変革なら、夏目漱石『こころ』だの、岡本綺堂『半七捕物帳』だの……といった形で、作家や作品名が試験勉強的知識でゴロゴロ出てきます。しかし、現在私たちが一緒くたにしてしまいがちな、明治~大正~昭和にかけても、結構深刻な(?)ジェネレーションギャップがあったワケです。今日はその証言を一つ。
証言台に立つのは、横溝正史。彼の生み出した金田一耕助こそ、現在の名探偵たちにDNAをもっとも多く残したキャラクターの一人でしょう。さて、正史が戦前、雑誌『新青年』の編集に携わり、江戸川乱歩の担当として腕を振るっていたのは、ちょっとこの時代の探偵小説に興味を持っている人間なら誰でも知っていること。また、二大巨頭の厚い絆は、今更言うまでもありません。
しかし。その乱歩が、『新青年』と担当横溝青年に大いに気をクサらせていた時期があるようなのです。
(…略…)さらに昭和3年には高田の馬場ちかくへ引っ越して、さらに大規模な下宿屋をはじめ、大いに奥さんを酷使しながら、自分は何もしようともせず、クサリにクサリ切っているものだから、いたって平凡な常識人であるところの私は、呆れ返ってものもいえなかった。そのことについて乱歩はつぎのように書いている。
戦後この文章を読んだとき私は愕然たらざるをえなかった。そういえばその当時、
「いまの新青年みたいなモダン雑誌に、ぼくみたいな作家は不向きだろう」
と、いうような言葉を二三度乱歩から聞いた記憶があるが、乱歩がかくも被害妄想狂であり、かくも私に対して遺恨コツズイであり、深讐メンメンであったろうとは、真実私は思いもよらぬところであった。私が「新青年」をすっかりモダンでダンディーな雑誌に改造したのは、私なりの主張なり意見なりがあってのことだが、それに触れることはここでは控えよう。私はモダン趣味と探偵趣味は両立しうると考え、「新青年」はつねに乱歩を必要としていたのである。
『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店 H14年5月25日初版 ISBN4-04-883746-X)より。
この部分だけを読むと、二人の仲が誤解されそうだなぁ(苦笑)。探偵小説という土俵の上では、お互いに歯に衣着せぬ物言いを出来る相手だったということで、ご理解ください。
それにしても、乱歩の「モダン」に対するこの疎外感は何でしょう!思い返してみれば、『押し絵と旅する男』の浅草十二階や、覗きからくり、『パノラマ島綺譚』をはじめとするパノラマ……。震災前の東京を感じさせる言葉です。
一方、正史は「モダン」と「探偵」小説は両立できると主張。彼にとっては、自己表現の重要な二つの柱だったわけです。戦前の由利先生ものではホームズの『四つの署名』ばりにモーターボートと汽船のリバーチェイス、ミッキーマウスのお面をつけて仮面舞踏会……。昭和の匂いがする部分が見受けられます。
大正浪漫と昭和モダン。時の流れが止まるときは無くとも、区切りというものは確かにあるようです。
証言台に立つのは、横溝正史。彼の生み出した金田一耕助こそ、現在の名探偵たちにDNAをもっとも多く残したキャラクターの一人でしょう。さて、正史が戦前、雑誌『新青年』の編集に携わり、江戸川乱歩の担当として腕を振るっていたのは、ちょっとこの時代の探偵小説に興味を持っている人間なら誰でも知っていること。また、二大巨頭の厚い絆は、今更言うまでもありません。
しかし。その乱歩が、『新青年』と担当横溝青年に大いに気をクサらせていた時期があるようなのです。
(…略…)さらに昭和3年には高田の馬場ちかくへ引っ越して、さらに大規模な下宿屋をはじめ、大いに奥さんを酷使しながら、自分は何もしようともせず、クサリにクサリ切っているものだから、いたって平凡な常識人であるところの私は、呆れ返ってものもいえなかった。そのことについて乱歩はつぎのように書いている。
(前略)ところで、本当のことを白状すると、実は私を駄目にしたものは「新青年」なのである。横溝君が主張したところのモダン主義という怪物が、旧来の味の探偵小説を、まことに恥しい立場に追い出してしまった。もはやルブランか、然らざればリーコック、ウッドハウス、乃至はカミ、上品なところでフランス式コントにあらざれば、「新青年」に顔出しが出来ない空気が醸されてしまった。(中略)即ち私の如き、やけくそな、自信のない鈍物は、昨日の幽霊の如く、はかなくも退場すべきときである。(後略)
戦後この文章を読んだとき私は愕然たらざるをえなかった。そういえばその当時、
「いまの新青年みたいなモダン雑誌に、ぼくみたいな作家は不向きだろう」
と、いうような言葉を二三度乱歩から聞いた記憶があるが、乱歩がかくも被害妄想狂であり、かくも私に対して遺恨コツズイであり、深讐メンメンであったろうとは、真実私は思いもよらぬところであった。私が「新青年」をすっかりモダンでダンディーな雑誌に改造したのは、私なりの主張なり意見なりがあってのことだが、それに触れることはここでは控えよう。私はモダン趣味と探偵趣味は両立しうると考え、「新青年」はつねに乱歩を必要としていたのである。
『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店 H14年5月25日初版 ISBN4-04-883746-X)より。
この部分だけを読むと、二人の仲が誤解されそうだなぁ(苦笑)。探偵小説という土俵の上では、お互いに歯に衣着せぬ物言いを出来る相手だったということで、ご理解ください。
それにしても、乱歩の「モダン」に対するこの疎外感は何でしょう!思い返してみれば、『押し絵と旅する男』の浅草十二階や、覗きからくり、『パノラマ島綺譚』をはじめとするパノラマ……。震災前の東京を感じさせる言葉です。
一方、正史は「モダン」と「探偵」小説は両立できると主張。彼にとっては、自己表現の重要な二つの柱だったわけです。戦前の由利先生ものではホームズの『四つの署名』ばりにモーターボートと汽船のリバーチェイス、ミッキーマウスのお面をつけて仮面舞踏会……。昭和の匂いがする部分が見受けられます。
大正浪漫と昭和モダン。時の流れが止まるときは無くとも、区切りというものは確かにあるようです。