2015年に出版された「京都ぎらい」がそこそこ売れた、ということで二匹目のドジョウを・・。この筆者、どうも同じ歳、同学年らしい。嵯峨育ちの宇治住まいだというが、上京生まれの宇治育ちという自分と重なる部分がかなりの部分を占めていて、知り合いにお喋りの書き手がいるようで、贔屓するのか毛嫌いするのかを決めかねる。「今の時代にけしからん」と突っ込まれるのを待つような、確信犯エロ爺の一冊でもあり、炎上商法とも言える。
とにかく、京都の歴史に登場してきたイイ女について書いてある。古くは大王家に献上させられたという美形の采女、中大兄と大海人で取り合いになった額田女王、清盛に寵愛され捨てられたという祇王や祇女。祇王寺で庵主になった元新橋芸者の智照尼、彼女は瀬戸内晴美時代の小説「女徳」のモデルにもなったので、少年時代筆者は見にいったと言うが本当だろうか。それに牛若丸の母である常葉、南北朝争いの発端ともなる亀山、後深草兄弟による美人女房二条の譲り合い、そして京都に多い和服を売りさばく女性たちの呼び名で、お色気で売上を上げたという好色一代女に登場した「スアイ(数間女)」まで。それが時の権力者に見初められたり、利用されたり、捨てられたりしてきた、という証拠、もしくは痕跡を探し出してまとめた本、というところ。「自立する女性」を目指す、もしくは推進する立場からすればトンデモナイ、と言われるような内容でもあるのだが、そこは予防線と煙幕を張り巡らし、突っ込まれても「これは京都歴史紹介ですから」とトボケられるようになっている。
良かった点を書こう。一つは清水寺の位置づけについての考察。今昔物語には清水寺に参詣した町娘が領主に見初められたというエピソードがあるという。宇治拾遺物語にも清水詣での美人女官「進命婦」が藤原頼道に見初められた話が紹介されている。義朝の妻で牛若丸の母あった常葉も元はと言えば清水寺が藤原呈子に依頼されて選んだ美女。清水寺にはそうした美女を探して斡旋するという役割があったのではという筆者の推察である。平安末期から室町時代の天皇家や貴族と寺の関係を示す裏からの見方で、おもしろいと思う。記憶違いかもしれないが、落語の「崇徳院」でもバリエーションとして、若旦那が茶店で美女と和歌を交換したのが、清水寺だった、というバージョンがあったような気もするが。
もう一つは角屋と桂離宮の数寄屋造りについての考察。角屋は島原遊郭あとに現存する揚屋で、今では「もてなしの文化美術館」となっている。揚屋=花街という痕跡を消しながら、女性の団体様でも外国客でもどうぞいらっしゃい、という体で、江戸初期の揚屋建築、寛永時期の数寄屋建築が見られる美術館である。筆者によれば、数寄屋造りそのものやその室内の構え、網代の間に設けられた棚は桂離宮新御殿の剣璽棚を強く偲ばせるそうだ。そこでそのことを雑誌に記事にして原稿を送り、宮内庁から離宮の写真使用許可を取ろうとしたときに、角屋との共通点などトンデモナイ、と不許可となり、仕方なく記事内容を書き直したとのこと。宮内庁はなぜそんなことに目くじらを立てるのかと、島原が遊郭であったことは歴史的事実で、数寄屋造りも江戸時代の庶民が、貴族の別荘で遊んでいるような気分になれるよう取り入れたもの。源氏名だって、そうじゃあないか、角屋も宮内庁も何を今頃、というわけである。
とにかく、学者の先生で、祇園でモテたい、との気持ちはよく分かる。作家の先生がモテるのを横目で見ていると、本が売れる、ということほど銀座や祇園でモテることはないらしい。宮内庁やもてなしの文化美術館にケンカを売っているようでいて、実はちゃんと話ができていることもウッスラと想像できるし、ツッコミどころ満載すぎて、「その手には乗りたくない」のに、このボケは見過ごせない、と思わせてしまう。そんな、井上センセのもう一匹のドジョウ。