乙巳の変以降、権力の中枢に宿り木のように寄り添って明治維新以降までも生きながらえてきた「藤原氏一族」。天智・天武・持統天皇時代に淵源を持ち、律令制の奈良時代から摂関政治の平安時代にピークを迎えたあとも、摂関家、大臣家、清華家、羽林家、名家、半家などとして公卿の各門地として、鎌倉、室町、戦国、江戸、そして明治維新までも、貴族の役割を分担しながら生きながらえてきた。
日本史の中での権力維持と行政執行機関を概観すると、邪馬台国時代のヒメと弟、推古と聖徳太子・蘇我氏、奈良から平安時代の天皇と摂関政治、鎌倉から室町では天皇、将軍、執権、江戸時代にも天皇家と将軍家、明治以降も天皇家と政権、現代でも総理とそれを操る影の実力者、というふうに、象徴的権力トップとそれを支える実行者という組み合わせを踏襲しているようにみえる。中臣鎌足とその子不比等は意識的にか無意識にか、天智・天武、持統天皇と手を組み、神祇の中臣氏、行政首班の藤原家という家柄の確立と藤原各家への国家的な役割の継承の仕組みを作り上げた。
奈良時代になると、不比等亡きあと南家、北家、式家、京家という四家分立時代を迎えるが、天皇家との身内関係をどのように作り上げられるかは、各家の娘を入内させ親王を成人させられるかどうか、そしてより良い家柄の娘との間に長生きできる男子が成せるか、に依存する。不比等の4人の息子では、南家の武智麻呂の子では仲麻呂、北家の房前の子では三男の真楯が後の摂関家の祖となる。式家の宇合の子では、次男の良継は兄の広嗣の謀反に連座するが後に叙爵され専権を得る。京家では浜足が叙爵を受けるがこの時代には、四家ともに叙爵を受けた官人の数も少なく、危機を迎えた。
橘諸兄が権力を握った後に、その勢力に対抗したのは南家の仲麻呂。光明皇后と手を組んだ南家の仲麻呂は恵美押勝と名乗る。しかし光明皇后の死とともに押勝の権力基盤が崩壊、臣下として初めて王権に武力では向かうという恵美押勝の乱を引き起こしたが制圧され、仲麻呂亡き後に起きた政変劇に現れたのが称徳天皇と道鏡だった。
その後の薬子の変(平城上皇の変)を収束させ平安京確立したのが藤原北家で、ここに摂関政治の始まるが見える。初めて摂政の地位についたのが良房、関白には基経、皇位継承と摂政関白の地位維持を主流となった北家、それ以外の門地の違いは、入内の成否と門地成人男子の活躍だった。その権力を藤原摂関家として確立させ、政権は道長、そして頼通へと収斂されるが、その権力基盤は、入内した子の懐妊不成功と成人男子の不活躍、そして荘園整理令による経済的基盤弱体化が契機となり、あっけなく崩れ去った。
武家政権成立と同時に貴族勢力は形式化、藤原家も摂関家としての形式的権力維持へと移行する。近衛、鷹司、九条、一条、二条という摂関家分立、藤原秀衡などは武家として活躍する分流も出現したが、あくまで本流は摂関家とその他の貴族門地だった。摂関家以外では、和歌・装束・笛などの清華家、有職故実の大臣家、歌道・神楽などの羽林家、紀伝道・儒道などの名家、和歌・俳諧などの半家などの家業で生き延びる。本書内容は以上。
武家においては家を継ぐのは領地を守り役職を引き継ぐことだったが、藤原各氏においても、それは家業を引き継ぎ生き延びるために最も大切なことだった。「家の格が釣り合いません、反対です!」という親による結婚への反対は、こうした意識・無意識下での門地維持の主張であり、国家による官職も広大なる領地もない現代人には無用の配慮であることは言を俟たない。いや、相手の気持ちもあるのだから、相手の名字が摂関家やその他の藤原門地のなかに含まれるかどうかの確認程度は必要なのかもしれない。