昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

仏教との出会-1:ビルマの竪琴(竹山道雄 作)

2010年10月31日 | 日記

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仏教との出会-1:ビルマの竪琴(竹山道雄 作)

 いくつか記憶に残る仏教との出会いは、それぞれの人によって大切な思い出かもしれない。子供のころお寺で遊んだとか、奈良や京都のお寺巡りをした人は沢山おられると思う。

 もう40年前であるが、NHKの連続ドラマで松本清張という推理作家の『球形の荒野』という作品がドラマ化された。第二次世界大戦の末期、外務省の一部が連合国との和平工作に着手した。その責任者だったオーストリア駐在書記官の野上が、極秘に和平工作に当たった。しかし駐在武官伊藤中佐から、敵国に通じているのではないかと疑惑を持たれた。野上は失踪し異国の地で死亡したとされた。

 野上の家族がある日、お寺参りをしていて、野上の筆跡のような名前を見つけてひどく不思議に感じた。同じころ、伊藤中佐は戦後公職追放で仕事がなく、老いて寺巡りを続けていた。ある日、お寺の記帳の中に、かつての野上の筆跡と酷似した筆跡を見つけて、それを破りとって真相の究明を始めた。伊藤中佐は戦後、野上のような和平工作に当たった人物への報復を志す結社の一員となっていた・・・。

 今、80歳代のお年寄りだが、青年の時、愛国心に燃え、予科練のような飛行学校に入ったり、特攻潜水艦の搭乗員の訓練を受けて終戦を迎えた人を私は何人か知っている。その人たちから、青少年だった私の先生方だったので、個人的な体験話を伺うことがあった。戦争の原因や是非、責任を問うことは実に困難なことだと思うが、全人類の一員として戦争そのものに加わったことへの懺悔は当然のことだと思う。ただ、誰に、何のために懺悔するのか、それはよくはわからないのだが。

その感じは今すでに此の世を去られた世代の方や、80歳代の方の思いの底にあるように思う。或るグループホームを訪問調査したとき、利用者の方は皆女性だったが、皆でしきりと軍歌を歌っていた。遠い、おそらくは切ない思い出が歌となっているのだろうと思った。

 竹山道雄は今から半世紀ほど前に著名な作家だった。とくに『ビルマの竪琴』は不朽の名作であり、2度、映画化された。新潮文庫で読むことができる。

 あらすじを書いても不十分な紹介しかできないので、それは書かない。唯一、最後の名場面の描写のみしておきたい。主人公、水島上等兵はビルマ(現在はミャンマーという国名)に派遣された将兵の一人だった。歌う部隊と呼ばれた部隊の一員で、僧の姿に変装して竪琴をもって斥候にでかけ、行く手が安全かどうかを琴の調べで知らせるという任務を負っていた。インパール作戦というが、かってインドはイギリス領だったので、旧日本軍はそこに攻め入るためにインドのマニプール州の州都インパールを陥落させようと、陸軍3個師団(約5万名からなる戦闘部隊と、後方部隊数万)全部で10万人の兵を動かした。飛行師団は別に一個師団が配置された。「隼」という戦闘機が活躍したのがビルマ上空であるが、この設計者の一人が糸川英夫である。「イトカワ」と「ハヤブサ」は星になった。さて、この作戦、始めは順調に見えたが、日本軍の補給線があまりに長くまた貧弱だった。必要な食糧、武器弾薬、医薬品のすべて不足していた。ビルマは熱帯雨林地帯で、モンスーン期は猛烈な雨になり川が氾濫する。物資も病人も動かすことができない。さらに、マラリヤ、赤痢、その他熱帯性の伝染病があって日本人には免疫がない。

 日本軍はインパールを簡単に落とせると楽観して、短期で作戦を終わらせられると誤算した。15軍司令部と師団は無理で欲張りな作戦を立て、インパールと同時に北方のコヒマも落とそうと精強な1個旅団(宮崎部隊5000人)を派遣して、兵力は分散していた。イギリスは、当時世界最大の航空輸送力をもっていた。北アフリカのドイツ軍団を破った後、その輸送機をインドに回し、膨大な物資をインパールに送り込んだ。その結果、包囲したはずの日本軍が逆にイギリス軍から攻撃され、補給線を寸断され、戦闘を続けることが不可能となった。すなわち、全面的な退却である。それをイギリスの戦闘機と戦車が追撃してくる。昼も夜も砲弾の雨が降り注ぎ、負傷兵たちは仮の野戦病院に置き去りにされ、多くが病気と飢えで苦しんだ末に、数万人の死傷者がでた。戦闘でなくなるより、病気と負傷と飢餓で亡くなった。日本軍の退却路は白骨街道といわれ、戦没者の遺骨は未だミャンマーの地に眠っている。(以上、昔読んだインパール作戦戦記、ビルマ戦史、コヒマ戦線についてのイギリス将校の手記など)

 高校生の頃に読んだこの昔の戦記のなかで、未だ私の頭にこびりついている証言がある。それは将兵の靴が破れて裸足で道なき道を行軍し、足が傷ついてもはや歩くことができず、道端で無念の置き去りになることだった。

 ビルマは仏教国である。中国や日本の仏教とは伝統が異なる。中国や日本の仏教は北伝の仏教といい、大乗仏教という。これに対して、ビルマやタイの仏教は南伝の仏教という。昔は大乗が優れ、それに対して小乗は劣っている、という変な手前勝手な解釈を中国や日本の坊さんたちが言っていたが、それはまだ昔(江戸時代以前)は、文献学がまだ古代の仏教の姿を十分明らかにしていなかったためである。南伝の仏教は、釈迦のもともとの教えへの深い考察があって決して劣ったものではない。南伝の仏教は南伝大蔵経という原始仏典群と、その哲学的解釈であるアビダルマ(論蔵)の膨大な考察を残しており、また、涅槃仏、つまり死を迎えられた仏陀が横臥されておられる仏像で知られている。ビルマの仏塔はパゴダといい、これは後期の仏塔信仰によるものである。

 水島上等兵は、815日の終戦を知らない友軍にこれを知らせるために一人竪琴をかかえて出向き、負傷して原隊復帰できずに山林をさまよい、ビルマの僧のもとで仏教に目覚め、一人遺骨収集と供養に歩き、いよいよ原隊が日本に復員帰国するとき、柵の外で旧友とあいまみえる、という話である。彼の肩には二羽のインコが止まっていて、「水島、日本にかえろう」という。それは原隊の仲間がそう教え込んで、水島ではないかと思われる僧侶にわたしていたのである。しかし、水島上等兵はビルマに留まった。

 これに近いことは、東南アジアの各地であったようだ。

 

 私の知り合いで、高校を卒業してから世界中を放浪した人たちがいる。二人知っているが、二人ともインドになぜか深く魅せられていた。その一人A君から私は、ハレ・クリシュナという祈りの詠唱を初めて聞いた。クリシュナ神はインドでもっとも尊崇されるヒンヅー教徒の3大神のうちの一柱である。『バガバッド・ギーター』というインドの聖典に、この神の教えが説かれている。偉大な教えなので、いつか触れてみたいと思う。もう一人T氏は、こんな話をしてくれた。彼はインドからミャンマーに入国して、心からほっとしたそうである。なぜならインドは荒涼とした赤土の世界だったが、ビルマは緑だったからだそうである。

 東邦大学名誉教授の幡井勉医学博士は、戦時中ビルマ戦線に軍医として派遣され、どの地点のことかはわからないが九死に一生を得た経験をされた方であるが、帰国後インド医学すなわちアユル・ヴェーダを広めるために活躍されてきた。

アユル・ヴェーダとは、生命の知識のことで、スシュルタサンヒター(外科)とチャラカサンヒター(内科)を併せ持つといわれる。詳しいことは幡井先生の本で学んでいただきたい。ビルマで先生はイギリスの軽戦車に遭遇された。戦車の砲口は自分に向けられていて、これで死ぬ、と思われたそうである。ところが急に戦車は向きを変えていってしまった。

 アユル・ヴェーダで使う薬草や鉱物は日本では使えないものがほとんどだが、イスクラという輸入業者を通じて手に入るものは手に入るとのことだった。オイルマッサージにはゴマ油を使うことは聞いたが、もっとほかにも種類があるかもしれない。オイル療法は普遍性がある療法のようである。

 私がみせていただいた薬草に、「満天星」という植物が印象的だった。小さな白い花弁で黄色の花芯であったが満点の星のように、一本の茎から花開いていた。ミャンマーに今なお眠る将兵の御魂安かれと祈った次第である。


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