昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

仏教との出会-1:ビルマの竪琴(竹山道雄 作)

2010年10月31日 | 日記

2010103

仏教との出会-1:ビルマの竪琴(竹山道雄 作)

 いくつか記憶に残る仏教との出会いは、それぞれの人によって大切な思い出かもしれない。子供のころお寺で遊んだとか、奈良や京都のお寺巡りをした人は沢山おられると思う。

 もう40年前であるが、NHKの連続ドラマで松本清張という推理作家の『球形の荒野』という作品がドラマ化された。第二次世界大戦の末期、外務省の一部が連合国との和平工作に着手した。その責任者だったオーストリア駐在書記官の野上が、極秘に和平工作に当たった。しかし駐在武官伊藤中佐から、敵国に通じているのではないかと疑惑を持たれた。野上は失踪し異国の地で死亡したとされた。

 野上の家族がある日、お寺参りをしていて、野上の筆跡のような名前を見つけてひどく不思議に感じた。同じころ、伊藤中佐は戦後公職追放で仕事がなく、老いて寺巡りを続けていた。ある日、お寺の記帳の中に、かつての野上の筆跡と酷似した筆跡を見つけて、それを破りとって真相の究明を始めた。伊藤中佐は戦後、野上のような和平工作に当たった人物への報復を志す結社の一員となっていた・・・。

 今、80歳代のお年寄りだが、青年の時、愛国心に燃え、予科練のような飛行学校に入ったり、特攻潜水艦の搭乗員の訓練を受けて終戦を迎えた人を私は何人か知っている。その人たちから、青少年だった私の先生方だったので、個人的な体験話を伺うことがあった。戦争の原因や是非、責任を問うことは実に困難なことだと思うが、全人類の一員として戦争そのものに加わったことへの懺悔は当然のことだと思う。ただ、誰に、何のために懺悔するのか、それはよくはわからないのだが。

その感じは今すでに此の世を去られた世代の方や、80歳代の方の思いの底にあるように思う。或るグループホームを訪問調査したとき、利用者の方は皆女性だったが、皆でしきりと軍歌を歌っていた。遠い、おそらくは切ない思い出が歌となっているのだろうと思った。

 竹山道雄は今から半世紀ほど前に著名な作家だった。とくに『ビルマの竪琴』は不朽の名作であり、2度、映画化された。新潮文庫で読むことができる。

 あらすじを書いても不十分な紹介しかできないので、それは書かない。唯一、最後の名場面の描写のみしておきたい。主人公、水島上等兵はビルマ(現在はミャンマーという国名)に派遣された将兵の一人だった。歌う部隊と呼ばれた部隊の一員で、僧の姿に変装して竪琴をもって斥候にでかけ、行く手が安全かどうかを琴の調べで知らせるという任務を負っていた。インパール作戦というが、かってインドはイギリス領だったので、旧日本軍はそこに攻め入るためにインドのマニプール州の州都インパールを陥落させようと、陸軍3個師団(約5万名からなる戦闘部隊と、後方部隊数万)全部で10万人の兵を動かした。飛行師団は別に一個師団が配置された。「隼」という戦闘機が活躍したのがビルマ上空であるが、この設計者の一人が糸川英夫である。「イトカワ」と「ハヤブサ」は星になった。さて、この作戦、始めは順調に見えたが、日本軍の補給線があまりに長くまた貧弱だった。必要な食糧、武器弾薬、医薬品のすべて不足していた。ビルマは熱帯雨林地帯で、モンスーン期は猛烈な雨になり川が氾濫する。物資も病人も動かすことができない。さらに、マラリヤ、赤痢、その他熱帯性の伝染病があって日本人には免疫がない。

 日本軍はインパールを簡単に落とせると楽観して、短期で作戦を終わらせられると誤算した。15軍司令部と師団は無理で欲張りな作戦を立て、インパールと同時に北方のコヒマも落とそうと精強な1個旅団(宮崎部隊5000人)を派遣して、兵力は分散していた。イギリスは、当時世界最大の航空輸送力をもっていた。北アフリカのドイツ軍団を破った後、その輸送機をインドに回し、膨大な物資をインパールに送り込んだ。その結果、包囲したはずの日本軍が逆にイギリス軍から攻撃され、補給線を寸断され、戦闘を続けることが不可能となった。すなわち、全面的な退却である。それをイギリスの戦闘機と戦車が追撃してくる。昼も夜も砲弾の雨が降り注ぎ、負傷兵たちは仮の野戦病院に置き去りにされ、多くが病気と飢えで苦しんだ末に、数万人の死傷者がでた。戦闘でなくなるより、病気と負傷と飢餓で亡くなった。日本軍の退却路は白骨街道といわれ、戦没者の遺骨は未だミャンマーの地に眠っている。(以上、昔読んだインパール作戦戦記、ビルマ戦史、コヒマ戦線についてのイギリス将校の手記など)

 高校生の頃に読んだこの昔の戦記のなかで、未だ私の頭にこびりついている証言がある。それは将兵の靴が破れて裸足で道なき道を行軍し、足が傷ついてもはや歩くことができず、道端で無念の置き去りになることだった。

 ビルマは仏教国である。中国や日本の仏教とは伝統が異なる。中国や日本の仏教は北伝の仏教といい、大乗仏教という。これに対して、ビルマやタイの仏教は南伝の仏教という。昔は大乗が優れ、それに対して小乗は劣っている、という変な手前勝手な解釈を中国や日本の坊さんたちが言っていたが、それはまだ昔(江戸時代以前)は、文献学がまだ古代の仏教の姿を十分明らかにしていなかったためである。南伝の仏教は、釈迦のもともとの教えへの深い考察があって決して劣ったものではない。南伝の仏教は南伝大蔵経という原始仏典群と、その哲学的解釈であるアビダルマ(論蔵)の膨大な考察を残しており、また、涅槃仏、つまり死を迎えられた仏陀が横臥されておられる仏像で知られている。ビルマの仏塔はパゴダといい、これは後期の仏塔信仰によるものである。

 水島上等兵は、815日の終戦を知らない友軍にこれを知らせるために一人竪琴をかかえて出向き、負傷して原隊復帰できずに山林をさまよい、ビルマの僧のもとで仏教に目覚め、一人遺骨収集と供養に歩き、いよいよ原隊が日本に復員帰国するとき、柵の外で旧友とあいまみえる、という話である。彼の肩には二羽のインコが止まっていて、「水島、日本にかえろう」という。それは原隊の仲間がそう教え込んで、水島ではないかと思われる僧侶にわたしていたのである。しかし、水島上等兵はビルマに留まった。

 これに近いことは、東南アジアの各地であったようだ。

 

 私の知り合いで、高校を卒業してから世界中を放浪した人たちがいる。二人知っているが、二人ともインドになぜか深く魅せられていた。その一人A君から私は、ハレ・クリシュナという祈りの詠唱を初めて聞いた。クリシュナ神はインドでもっとも尊崇されるヒンヅー教徒の3大神のうちの一柱である。『バガバッド・ギーター』というインドの聖典に、この神の教えが説かれている。偉大な教えなので、いつか触れてみたいと思う。もう一人T氏は、こんな話をしてくれた。彼はインドからミャンマーに入国して、心からほっとしたそうである。なぜならインドは荒涼とした赤土の世界だったが、ビルマは緑だったからだそうである。

 東邦大学名誉教授の幡井勉医学博士は、戦時中ビルマ戦線に軍医として派遣され、どの地点のことかはわからないが九死に一生を得た経験をされた方であるが、帰国後インド医学すなわちアユル・ヴェーダを広めるために活躍されてきた。

アユル・ヴェーダとは、生命の知識のことで、スシュルタサンヒター(外科)とチャラカサンヒター(内科)を併せ持つといわれる。詳しいことは幡井先生の本で学んでいただきたい。ビルマで先生はイギリスの軽戦車に遭遇された。戦車の砲口は自分に向けられていて、これで死ぬ、と思われたそうである。ところが急に戦車は向きを変えていってしまった。

 アユル・ヴェーダで使う薬草や鉱物は日本では使えないものがほとんどだが、イスクラという輸入業者を通じて手に入るものは手に入るとのことだった。オイルマッサージにはゴマ油を使うことは聞いたが、もっとほかにも種類があるかもしれない。オイル療法は普遍性がある療法のようである。

 私がみせていただいた薬草に、「満天星」という植物が印象的だった。小さな白い花弁で黄色の花芯であったが満点の星のように、一本の茎から花開いていた。ミャンマーに今なお眠る将兵の御魂安かれと祈った次第である。


仏教の応用―1:仏教と占い(易占を含めて)-2(9月20日付のつづき)

2010年10月25日 | 日記

2010年9月27日

仏教の応用―1:仏教と占い(易占を含めて)-2(9月20日付のつづき)

易占は、以上の観点から回向のために行い、また解釈していかなければなりません。わたしたちは、仏陀の弟子達、長老といいますが、彼らのようには神通力はもっていないようにみえます。興味がおありなら長老たちが自らの信仰告白を言い残した詩集『テーラー・ガーター』という本を図書館で探されたらいいです。しかし、私たちのエゴとその意識には神通力はないというだけの話で、わたしたちの良心という私たちの本来の心は、エゴとは別のように感じられますが実は本来の、神通力をもともともっている私たち自身です。わたしたちは、自らの内なる神聖な自己との結びつきを考えるべきなのです。自分が自分にお願いしたり、祈ったりするのは何か変な感じでしょうが、それが真相です。易の神さまというのはおりません。宇宙心は自分の心です。インド古代の宗教や仏教の言い方では、「梵我一如」といいます。梵とはサンスクリットでいうとブラーフマンで、我というのはエゴでなくてセルフのことですが、アートマンといいます。本来の自己、宇宙心に帰一したセルフで、ハイヤーセルフという言い方をする人もいます。

 易占の具体的な注意点は、およそ三つあります。占い方は、コインをつかうかサイコロを使うか、あるいは自分で探してください。

易経という本は必要です(岩波文庫)。それから、通俗的でない、しっかりした解説書もあったほうがよいです。同じ卦でも爻(こう)が違うと解釈が変わります。とくにおすすめの解説書はありません。ご自分でよいと思うものでとりあえずされたらいいのです。注意点は以下のとおりです。(ところで、易といっても、ここでいうのは周易であって、断易(五行易)ではありません。ややこしくなるので説明はしません。)

一、    自分のことを占うのは難しい。手前味噌の解釈に陥りがちである。まずは、おみくじを引いて、誠心誠意でおみくじを引いたとき、どういう答えを得るかを自分で納得するまで確かめて、自分の心の癖に気付いてください。それから易をやってみてください。

二、    他人のことの占いは、その他人が承認するのでない限り、しないこと。台湾で易をしてもらったことがあります。本場のやりかたを見てみたかったのです。共通していたのは、占いを求めてきたその本人に易をさせるのです。させ方は秘伝で、書くことはできません。

三、    易の卦に「山水蒙」という卦があります。これが出たら、それ以上、その件の占いは止めること。どうしても再占したいのなら、日を改めてしてください。

 なお、自分自身と、ある相手の人との関係に関する問いについては、何度か質問を変えて易をして、八割がた同じ傾向の答えなら、それが当面の答えである、と割り切るようにします。もちろん、一回ごとに日付、質問内容、答え、をメモしてもよいが、誰にも見られないように保管し、現実とあうかどうかを注意深く見直します。時期が来て不要になったらできれば焼き捨てる、さもなければこまかく裁断してしまう。この処置は、古今東西のいかなる場合でも共通する処置です。結構面倒なので、易占そのものをあまりやらないほうが良いでしょう。その暇があれば、当面の自分の気持ちを優先させて、冷静に行動するほうが良い場合があります。大事なのはタイミングであり行動であって、易は手段にすぎません。行動すれば結果が良くても悪くても、後になってそれが最善だったと気づくときがあります。諺に、「塞翁が馬」というのがあります。易にこだわって行動が遅れて本末転倒にならないように。

 くりかえしますが、易占をするのはあくまで自分の本来の自己、ハイヤーセルフとつながる練習のためです。さらに専門的に易で修行しようと思うなら、朱子学を学ぶことです。江戸時代の学問といえば朱子学でした。朱子という中国の学者の易についての解釈は大変優れたものです。以上。

 


仏教との出会い:秋風と無門関―1

2010年10月25日 | 日記

2010年10月11日

仏教との出会い:秋風と無門関―1

 いつの間にか秋は深まった。朝夕の秋雨と、晴れた空の高い絹雲は遠い昔、安芸 ( あき )の秋芳洞に、また境港に遊んだ数日を思い出させる。皆さんは修学旅行をされただろうか。そのころ、高校の2年のころだったが父母は苦労が多かった。自分も気持ちが沈む日々があったが今となっては古い白黒の映画フィルムの断片のように思い出されるだけだ。

 大学に入って哲学を学びたいととても強く思った。不思議に合格してしまった、というのはなぜか受験勉強に全然身が入らなくて、井上靖の小説『敦煌 ( とんこう )』を勉強に見せかけて?読んでいたからだ。世界史の問題が出た。そしてほとんど全部、「西域」つまりシルクロードに関係する問題だった。ほかの学科の成績は凡庸でけっこう危なかったのだろうが世界史の得点だけは突出していたにちがいない。それは『敦煌』を読みながら自然と覚えていた事柄だった。小説『敦煌』は、中国史でいえば蒙古によって宋帝国が滅ぼされる少し前の時代設定だ。シルクロードには楼蘭、ウテン、亀慈、カシュガル、フェルガーナなどのオアシス都市国家が点在していた。天山南路や崑崙山脈沿いの道はパミール高原を越えて、チベット、アフガニスタン、パキスタンを経て、釈迦の教えが花開いた地域北インドのガンダーラに通じていた。皆さんは、「ガンダーラ」というポップ・ミュージックを聞かれたことがあるだろうか。1980年代、もうだいぶ昔になったが、第一回にNHK番組「シルクロード」が喜多郎の音楽とともに放映され、砂漠の隊商の映像はまさに『敦煌』の背景そのものだった。

 敦煌は仏教壁画と埋蔵仏典の舞台として描かれる。シルクロードの都市国家の支配階級には、仏教を崇拝した人たちが多かったようだ。玄奘 ( げんじょう )三蔵 ( さんぞう )(孫悟空の師匠、三蔵法師のこと)とかクマラジーヴァの名前をご存知なら、きっと『般若心経 ( はんにゃしんぎょう )』と『法華経 ( ほっけきょう )』の名前もご存知だろう。これらの大乗仏典と呼ばれる仏典はシルクロードを伝わって日本までやってきた。北伝の仏教ともいう。

 シルクロードを通ってきたペルシャ(イランの古名)人やインド人はアリアン系の人たちで、眼が青い。それで、禅宗の達磨 ( だるま )大師(ダルマさんがころんだ、のあのダルマさん)のことを、禅宗では碧眼の胡子という。読み方は「ヘキガンノコス」である。禅宗というのは大乗仏教の系統の、瞑想を特に重要視した流派で、原点は釈迦で、その弟子のマハーカシャパという弟子(といっても一派をなす長老であるが)に、仏の本意を文字を通さずに以心伝心でもって直伝 ( じきでん )されたということを宗旨としている。どういう意味かというと、お経で学ぶのでなくて、師匠から弟子への悟りの境地の直接開示ともいうべき方法で伝わるということなのだ。だから、鎌倉時代の日本で禅宗を広めた永平道元という人は『正法眼蔵 ( しょうぼうげんぞう )』という本を書いたが、それは「正法をみる眼」とは何かを説いたものである。いっぱい書いてあって、それ自体お経のようなものなので禅の本旨にそぐわないと思われるかもしれないが、私の指導教授は『正法眼蔵 ( しょうぼうげんぞう )』は座禅をしながら読むものだ、と言われた。だからやっぱり「経外」別伝なのだ。禅宗では、「教外別伝 不立文字」といって「きょうげべつでん ふりゅうもんじ」という。

ついでにいうと、禅宗の教えの中核、特に『無門関 ( むもんかん )』に描かれている「無」の説き方は「直指 ( じきし )人心 ( にんしん )」といって、瞬時に心の迷妄を打破するものだ。心という場合、決して師匠・弟子、先輩・後輩のように分離してはいない。自己・自然のように分離してはいない。分離している、ゆえに孤独で我をはって生きていかなければ、と思うことそれが迷いだ、といわれるように思う。分離の想いを超えることで初めて、無限の生命とひとつである自分に気がつく、ということなのだろう。そう悟りきることを禅宗は目指していると思う。

『無門関』という本は岩波文庫で出ているが、図書館にあるだろう。私は、鎌倉の円覚寺(臨済宗という禅宗の一派の寺)の居士林という民間人用の道場で8日間行われる「摂 ( せっ ) ( しん )」という修道会があるが、当時の管長は朝比奈宗源という人だったが、真の自由を知りたかったら参加しなさい、という誘いを掲示板でみてこれに参加した。二十歳の梅雨空の残る夏であった。

仏教との出会い: 秋風と無門関―3

2010年10月25日 | 日記

2010/10/25

仏教との出会い: 秋風と無門関―3 

固い話が続いて少し疲れたかもしれませんね。一息入れて、鎌倉の話をしましょう。ご存じのように鎌倉は源頼朝が幕府を開いたところです。沢山の名所旧跡があります。お寺が多いのはなぜでしょう。京都のお公家さん達の文化、そのころは仏教文化の花盛りでしたから、を取り入れたからかもしれませんが、それにしても春夏秋冬別々のお寺に参詣する人たちが一年中町を歩いています。陸路から鎌倉に入るには、鎌倉を取り巻いているいくつかの小高い丘の連なりを越えて行かなければなりません。鎌倉の材木座海岸、由比ヶ浜、七里ヶ浜、は海路とつながりますが、陸から入るには、大船方面か藤沢からか、横浜の金沢八景から入ることになります。逗子から三浦半島の方面に行くと、観音崎の真向かいは房総半島です。久里浜から金谷までフェリーで1時間以内でつきます。高速船なら半時間くらいです。内房にも外房にも近いです。

鎌倉の中心は鶴岡八幡宮です。春、桜が咲き染めるころは、鶴岡八幡宮から海岸まで昔は一路、段葛(だんかずら)という道が一直線に伸びていました。その道を飾る桜並木の向こうに、小高く鶴岡八幡宮の本殿が見えてきます。その昔、義経の妻、静御前が頼朝以下鎌倉武将達の前で「しずやしず しずのおだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな」と歌いつつ舞を舞ったという舞台があり、石段の脇には大銀杏の古木が歴史を見つめていました。惜しくも今年、ついに鎌倉幕府以来八百年の巨木も倒れてしまいました。頼朝の長男、頼家は伊豆の修善寺で暗殺され、その遺児別当公暁がそそのかされて叔父源実朝をこの銀杏の陰から躍り出て暗殺してしまいました。実朝は文化人で公家の文化に詳しく歌人でもありました。七里ヶ浜に立って相模湾に打ち寄せる波をみていると、雄大な波が「割れて砕けて裂けて散るかも」(金槐和歌集)と詠んだ歌人の心が伝わってくるようです。

 七里ヶ浜の西に江ノ島が見え、その遠く富士の高嶺がそびえています。七里ヶ浜から鎌倉に進攻しようとしたのが新田義貞です。後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を呼びかけられ、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らが北条氏と激しく戦いました。多摩川の分倍河原で北条方の軍勢を破って一挙に南下して鎌倉に迫った新田の行く手を阻んだのが稲村ヶ崎でした。彼が願をかけて太刀を海に投ずると稲村ヶ崎の水が引いて鎌倉攻めができたという伝説があります。その義貞も南北朝の争いの後は吉野方について、北朝を押し立てた足利尊氏と戦って戦死します。源平の戦いを謡った平家物語も、南北朝の戦いを謡った太平記も、ともに日本人の無常観をあらわしています。仏教が無常の想いを育てたといえます。

さて、稲村ヶ崎から鎌倉の由比ヶ浜に至る途中に、極楽寺殿と呼ばれた北条重時をまつった極楽寺坂があります。鎌倉では浄土宗系統の仏教と、武家に人気があった禅宗系統の仏教が盛んでした。女性にゆかりの深いお寺は駆け込み寺として有名な東慶寺、名月院(あじさい寺)、白旗弁財天、佐助稲荷などではないでしょうか。いずれも北鎌倉の駅から行けます。これらのお寺のほかにも歌人、与謝野晶子がほめ歌として詠んだ鎌倉の大仏があります。大仏は長谷(はせ)にあります。この長谷にある長谷観音は、近畿の長谷寺と深くつながっていると聞きました。鎌倉は今は古都の風情ですが、その昔、政治の渦中にあったとき、多くの人の血が流されました。お寺が多いのもそのせいかもしれませんね。 

 


仏教との出会い:秋風と無門関―2

2010年10月17日 | 日記

2010年10月18日

仏教との出会い:秋風と無門関―2

『無門関』というのは中国の禅僧が編纂した、「公案」とよばれる一種の宿題問題集である。禅宗のうち、臨済宗では「公案」をもちいる。臨済宗の祖は臨済という人で『臨済録』という本に、この禅僧がどのように門下生を教えたか知ることができる。人は肉体がすべてではない。しかし、それを徹底して見極めるということが大事である、臨済はそう教えている。真我というもの、真の面目というものを見るように、といっているのである。それが自由な自分であり宇宙とひとつであるということである、仏陀の教えとはこれに尽きるのだ、という。

ところで『無門関』については中国文化の背景をもっていて、決してインド伝来の悟りのなにかを全部伝えるものでもない。あまり本の記述を珍重しすぎては本来の仏教の趣旨から離れるかもしれない。円覚寺居士林の「摂心」に参加したとき、指導者である老師の説法(提唱)があった。こういう話あった。『無門関』には、趙州(じょうしゅう)禅師の逸話が多いが、彼の悟りの輪郭は老師の自分ですら全体像がつかみきれない、といわれた。趙州禅師にとっても達磨大師の輪郭はつかみきれていないだろうし、釈迦についてはそれ以上だろう。文字だけで理解することはもちろん、修行で到達するというものでもない。しかし、学ぶことをしないではすまない。悟るも悟らぬも時節因縁があって、天命であるというほかはないのだろう。

 『無門関』という本の目的は何だろうか。題から想像するかぎり、「無」という関門があって、それは「かんぬき」がかけられ、閉ざされている、有志諸君よ、無の門を開けてごらん、という意味のように思われる。公案というのは、中国で皇帝が開門を指示する公文書という意味だという。ついでにいっておくと、井上靖の『敦煌』にもあったと思うが、西域の都市国家は中国の領域では○○関という名前がついていて、いずれも城壁をめぐらしていて、町全体が城壁の内にある。騎馬民族や盗賊集団などが来襲してきたとき、門を閉めるのだ。中国の著名な詩人杜甫の詩の一篇は、彼と家族がこのような都市で生活したときの荒涼とした雰囲気の作品である。そして、三蔵法師はこの西域の関門を国禁を犯して越え、「天に飛鳥(ひちょう)なく地に(そう)(じゅう)なし」といわれたタクラマカン砂漠を越えてインドへの旅を進めた。この、「(かん)を越えるということは決死の覚悟がいったのである。「関」とはそういう重みのある言葉である。の門を開けたその向こうに、もしたどりつくことができたなら、果てしなき光明の世界が広がる、自分の立ち位置において。達磨大師の言葉には「(かく)(ねん)無聖(むしょう)」という言葉がある。そのなかで、人はまだ生まれる前のように聖なる母胎に養われている。「聖胎長養」という言葉がある。わたしたちが還り行くべき本来の故郷が今、ここにある。

 この話からあるいは「シャンバラ」という言葉を思い起こす人がいるかもしれない。この話はいつか別の機会にしてみたい。

 ここでは「無」についての話に戻りたい。この『無門関』の場合の「無」というのはインドの「空 Sunya シューニャ」の特殊な漢訳、とみていいと思う。いいと思う、というあいまいな言い方をしなければならないのは、ちょっと違うところがあるかな、という点があるからである。「無」というと中国の場合、どうしても老荘思想を下敷きにして考えることになる(例えば老子は「無為自然」を説いた)のだけれど、仏教というか仏陀は「無」は説いてはいない。仏陀は悩み苦しみの火を吹き消した平安であるところの「寂滅(じゃくめつ)(ニルヴァーナを説いたのである。その寂滅は、イコール無ではない。大乗仏教の時代、仏陀滅後数百年もあとの話だが、「寂滅」というみかけは消極的な言葉でなくて、それの積極的な意味をとらえて(くう)」の思想が説かれるようになった。とくに「(ちゅう)観派(がんは)」と呼ばれる仏教哲学の一派で「空」が強調された。その祖は竜樹という人である。この「空」のとらえ方を瞑想でもってとらえようとした流れの一つが禅宗である。そもそも「禅」というのはサンスクリット語の瞑想」の意味で、ディアーナからきた言葉である。

 『無門関』は、インドの「空」の思想を中国人に理解しやすい「無」という風にとらえたのかもしれない。もしそうなら、「空」については禅宗の『無門関』よりは、法相(ほっそう)宗の三蔵法師玄奘が訳した『般若心経』のほうがより正確な翻訳ということになる。ご存知かと思うが「色不異空、空不異色、色即是空 空即是色」とシューニャ即ち、無自性、相依相対、縁起、のことを「空」と翻訳してあるからである。

 遊びのつもりで、「色即是空」の「空」のところを代数でいう変数Xとみたてて、色即(無自性、相依相対、縁起)と代入してみて、次に「色」=身体、というふうに置きなおしてみてほしい。すると、体は、「即」無自性、相依相対、縁起で成るもの、ということが説かれていると判明するだろう。難しいのが「即」の理解である。これは二重否定というふうに解釈される、つまり「○○でなくはない」という二重否定である。もし「現象」と「本質」を区別するなら、この場合、「現象(眼に見えるもの、体や物質界など)は、本質(自分の、というものはなく諸要素が集合離散する運動、縁起で成立する運動である)でなくはない」

 ここまでの話はなかなか分かりづらいにちがいない。自分がそうだからである。本当は各自で考えて、あるいは瞑想して、自分の理解をしてみてほしいのだ。