昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

宮沢賢治 シリーズ:2 風の又三郎-1

2011年05月27日 | 日記

2011年5月28日

宮沢賢治 シリーズ:2 風の又三郎-1

 

50年くらい前のある日の小学校で、映画鑑賞があった。僕はまだ小学校2、3年生くらいだった。そのとき観たのが、宮沢賢治原作『風の又三郎』

白黒の、36ミリか忘れたが、フィルム映画だった。音声はあった。今、僕ははっきりとその旋律を思い出すことができる。他の記憶はほとんど消えて失せて散ってしまったのに。

 

原作からの引用;その下に、僕の記憶に残る音符を記しておく。

『九月一日

どっどど どどうど どどうど どどう

ミ ミミ ファ ミ    ミミミ   ファミ

 

青いくるみも               吹き飛ばせ 

ドド(以上は1オクターブ上のド)シラソソ ミミミミ

 

すっぱいかりんも             ふきとばせ

ドド(以上は1オクターブ上のド)シラソソ ミミミミ

 

どっどど どどうど どどうど どどう

ミ ミミ ファ ミ   ミミミ   ファミ』

 

 

                     あなたはこの旋律をどうお感じになられるだろうか。この調べが一体誰が作ったのか、僕はそれを考えている。この映画が作られたのは昭和30年代初期のはずだ、宮沢賢治が亡くなったのが、昭和8年。死後約20年だが、賢治の生前に教えを受けた少年だった人は多い。昭和30年なら、まだせいぜい40歳台の人たちだ。賢治の作でないものが教育映画に登場できるだろうか。賢治の音楽については学校関係者ならなおさらよく知っているはずだ。この調べは賢治自身が花巻市の教室のオルガンで自分で演奏した調べなのではなかろうか。   

 上の本の表紙の絵は、昭和58年から60年(1983年から85年)の当時の、角川文庫の本についていたカバーである。このカバーが欲しくて、この本を買った。今はもう別のカバーになっている。この影絵は、藤城清治画伯の描いた絵だ。藤城清治は賢治の本、とりわけ『銀河鉄道の夜』に数多くの挿絵を描いている。

この、「青いくるみ」や「すっぱいかりん」を吹き飛ばした台風については、以前この台風の進路についての短い論文をチラと見たことがあったが、忘れてしまった。ただ、戦後、東北を縦断して北上して、りんごを沢山ふるい落とした台風の進路と酷似していたように思う。

”かりん”というものを実際に見た人は少ないかもしれない。僕は昔、山形の特産とかの、かりんのシロップづけをもらったことがあるので、「はーん、あれか」とわかる。シロップづけにするくらいだから、そのまま食べたら結構すっぱいのだろう。咳止めになるらしい。

かりん、て こんなもの。(wikiから拝借)

 

 

賢治はこの台風についてはとても苦い(すっぱいではなくて)思いがあるのだ。次回、そのあたりを紹介しよう。


宮沢賢治の世界 シリーズ:1

2011年05月19日 | 日記

2011年5月19日

宮沢賢治の世界 シリーズ: 当分、これを続けます。特に、世の中の重大事件のときは号外で出すこともありますが、通常は7日か10日に一回です。

シリーズ(1)

メモ1 賢治の世界に入る前に、震災復興を祈願します

 

津波ニモマケズ 全壊の島越駅、賢治の歌碑だけ残る               2011417asahicom 岩手 

水平線のま上では  乱積雲の一むらが 水の向ふのかなしみを わづかに甘く 咀嚼(そしゃく)する

――宮沢賢治「発動機船」

 

 海岸沿いの施設が壊滅的な被害を受けた三陸鉄道。線路は各地で寸断され、全線復旧のめどは立たない。全壊した島越駅(田野畑村)では、宮沢賢治の歌碑だけがほぼ無傷で残った。

 「コンクリートと鉄の固まりの高架橋まで流されたなんて」。1984年の開業からずっとこの駅で働いてきた早野くみ子さん(55)は11日、震災後初めて駅を見てぼうぜんとした。

 賢治の童話から駅は「カルボナード島越」の愛称で親しまれた。2階建ての駅舎には童話から抜け出たようなドーム形の屋根があった。

 津波は、駅舎はおろか高架橋や線路を数百メートルに渡って流し去った。駅舎からホームへと続くはずの階段も途切れて、虚空へ向かっている。「駅前で毎年この時期に花を咲かせた八重桜もなくなった」

 がれきの中に、賢治生誕百年の翌1997年に建てた「発動機船」の歌碑だけが残っていた。賢治が大正時代に村を訪れ、旅立ちを詠じた詩だ。

 島越に止まる列車は1時間に1本ほどで1日の乗降客は約100人だった。車中心の地域でも、鉄道が通ると高校進学率が上がるなど役割は大きかった。全面復旧には180億円を見込むが、資金の当てはない。

 赤字に苦しむ鉄道を応援してきた「カンパネルラ友の会」の宮森秀幸会長(66)は「通学や老人の病院通いに必要な足だった。なくなってしまうと非常に困る」と話す。駅の様子を見に来た盛岡市の佐々木由美子さん(58)は「夏休みに遊びに来ると、目の前が海水浴場で、おしゃれな駅舎にシャワーがあった」とありし日の姿を惜しむ。

 三陸鉄道の望月正彦社長は「震災前、賢治にちなんだツアーの企画を考えていた。いつかそれが実現できれば」。早野さんは「雨にも負けず、津波にも負けず。喪失感は大きいけど、賢治のおかげで前を向かなきゃという気持ちになります」(加藤勇介)

メモ2 賢治の世界に入る前に、岩手軽便鉄道についての予備知識

 

東北の廃線 花巻―仙人峠 

『銀河鉄道の夜』のイメージモデル

 宮沢賢治(岩手県花巻市出身、一八九六~一九三三)の代表作の一つ『銀河鉄道の夜』 ――。そこに登場する鉄道のイメージモデルだったといわれるのが、岩手県花巻市から遠野を経て仙人峠(沓掛)方面に通じていた実在の鉄道路線「岩手軽便鉄道」である。

 開業当時の一九一二年(大正元)はまだ大船渡線(一ノ関―盛)も、山田線(盛岡―宮古―釜石)も開通していなかったので、内陸と沿岸を結ぶ唯一の鉄道路線として重要な位置にあった。

 難所と言われた「仙人峠」の手前で終点になっており、その先、人間は徒歩か駕籠に揺られて移動。荷物は索道(ロープウエーのようなもの)で運ばれて、釜石側の日鉄釜石鉱山鉄道(大橋―釜石)と接続していた。  

 その後、岩手軽便鉄道は索道とともに国鉄が買収。上有住(かみありす)を経由し、ヘアピンカーブで大橋にたどり着くという難工事を行い、一九五〇年(昭和二十五)に今のJR釜石線(花巻―釜石)を開通させた。

 軽便鉄道の敷地の大半はJR釜石線として現在も使用されているが、路線を移設した場所も何箇所かあり、当時を物語る痕跡が存在する。  (中略)

 遠野から終点まで

民話のふるさと」として親しまれている遠野。南部曲がり家や、カッパ渕など市内には多くの観光スポットがある。また、ソバの産地としても有名。秋口になると釜石線の車窓からも白いソバの花が見える。

 

 

(児玉 直人) http://www.mumyosha.co.jp/guide/haisen/iwate/keiben.html

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 あまり腹が立つことは書きたくないが、思ったら言った方がいいことはある。今日18日の新聞(朝刊)から引用しよう。

【東京証券取引所グループの斉藤惇社長は17日の定例記者会見で、枝野幸男官房長官が東京電力に融資する金融機関に債券放棄を促したことについて「世界的にも非常に混乱を生む。思っても言わない方がいい。しっかり考えて発言すべきだ」と批判した。斉藤社長は、「まずどういう立場でおっしゃっているのか分からない」と述べ、債権放棄を促した発言に法的根拠はないと指摘。安易に金融機関に債権放棄を求めると「銀行は東電に金を貸さなくなる。そのとき国が貸すのか。そういうことが論理だっていない」と語気を強めた。】

 古いセリフで申し訳ないが「何言ってやんでぇ」である。証券取引所の社長はいってみれば文楽のお人形さんである。本当の声の出し手、動かし手は、黒子の銀行家さんたち、その大株主さんたちであって、彼らが国民を威嚇しているのだ。彼らこそ、近年の株価急落においては、一般株主に対しては、この金融商品が値下がりしても「自己責任ですよ、損失を出してもあなたの責任ですから。」と株価急落してもそ知らぬふり。ごく親しい仲間にはインサイダーで損失補てんしているのに、ずいぶん偉そうな言い草である。銀行には、社会的事件を起こしている会社に融資した貸し手責任がある。ある会社が倒産したら、銀行は真っ先に抵当権を主張してあらいざらいかっさらって行く。東電についても同じことだ。銀行には貸し手責任がある。その東電を活かしたいなら、債権放棄してこれまでの貸付で得た巨額の利益を吐き出すのは当然のことではないか。東電の無駄な電力生産を賛成してきたではないか。今度の事故で東電の取締役たちは最初、「殊勝にも」報酬月額半減と言った。その半減された額が、なんと月1500万円である。では、毎月3000万円だったのか。悲しいことに、今日、18日、茨城漁連は東電に賠償請求をした。とりあえずたったの4億円である。「茨城県沿岸部の漁協でつくる茨城沿海地区漁業共同組合連合会が十八日、東京・内幸町の東京電力本社を訪れ、福島第一原発の事故に伴う三月分の休業補償約4億2500万円を請求した。請求の対象となるのは、同県内の漁業者ら約620人。」

 じゃあ、一人当たりいくらなんだ。あれだけ苦しんで、これからもどうしたらよいのかわからなくて、平均たったの70万円ではないか。もう一遍言いたい。「何言ってやんでぇ。この唐変木。もっぺん言ってみろ。こちとら、江戸っ子でぃ(東京の人でなければ、○○っ子でぃ)」こんな世の中、変わらなくていいのだろうか。

 

 

 

 

 

 


日本のカエルは中南米のカエルと話し合えるか?

2011年05月12日 | 日記

5月12日

日本のカエルは中南米のカエルと話し合えるか?

 

東北の復興はまだ始まってもいない。むしろ、これからが被災者の人たちにとって苦しくつらい。いろいろ東北以外の問題や事件が起きて、これまでのようなわけにはいかないだろうけれども、根気よく見守って行きたいと思う。そこで、再び東北の詩人に目を向けることにした。とはいっても、肩がこるような話はごめんだ。面白いのがいい。そこで思いついたのが「日本のカエルは中南米のカエルと話し合えるか?」というテーマだ。

(ここにはひとつの無視できない昔からの訓戒がある。張りつめ続ける弦は、つまり緊張しっぱなしの糸は、切れやすい。適当に息抜きするゆとりをどうしても見つけておかなければならない。連休が終わったとたん、東北のボランティアは急減したそうだ。地元の人々の負担はむしろこれからがきついだろう。ときどきは、馬鹿馬鹿しい話で気を休めてほしい。お釈迦様でさえ、いきすぎた苦行は悟りを妨げる、と牛乳を飲まれたではないか。財界の内部でも原発問題がからんで足並みに乱れがみられる。株価もヨーロッパの財政危機、アメリカと中国の不都合な統計が出るたびに一喜一憂だ。政局は、たぶん激動の時期にはいる。あまり気にしないことにしたい。どうせなるようになる。)

 

今回のテーマは、日本のカエルは中南米のカエルと話し合えるか?

これは、遊び心で楽しんで過ごしたくて試みたことだが、一方とても真面目な疑問でもある。なんでこんなことにつきあうかというと、詩人 草野心平が、この世にカエル語というものがあることを我々に教えたからだ。それで、まず草野がどういっているかを見ておこう。

それは「ごびらっふの独白」という詩に出てくる。長いので、一部省略してしまったが。

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。(中略)

いい びりやん げるせえた。

ぱらあら ぱらあ。

 

というのが「日本の」蛙語であって、その「日本語訳」というのはこうである。

「幸福といふものはたわいなくつていいものだ。

おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。

地上の夏の大歓喜の。(以下、しばらく省略)

美しい虹だ。

ぱらあら ぱらあ。」

 

カエルの原語と日本語訳が対応しているのかどうか、よくわからない。最後の「ぱらあら ぱらあ」というところだけは同じだ。

 

草野によれば、日本の蛙はカタカナを話すようだ。それも紹介しよう。

鰻と蛙

カキクケコ カキクケコ ラリルレロ ラリルレロ 

ガッガッガッ ガギグゲゴ ラリルレロ

心配はいらない!鰻だ!鰻がとほるんだ! カキクケコ カキクケコ ・・・

(蛇足だけれど、ここの「心配はいらない・」云々はカエルの心理状態を草野が推し測って、のことだろう。ヘビに似てるけどヘビじゃないから安心さ、って。)

 

もちろん、こんな擬音で埋めつくされたような詩ばかりではない。

さやうなら一万年

闇の中に ガラスの高い塔がたち 螺旋ガラスの塔がたち その気もとほくなる尖頂に

蛙がひとり 片足でたち 宇宙のむかうを眺めてゐる 

読者諸君もこの尖頂まで登つて下さい

 

草野は、「蛙は“ひとり”立ち」という。決して「いっぴき」とは言ってない。

 

では、今度は中南米にもカエルはいるはずである。確認しておこう。

まず、第一の証拠。マヤ暦というのはもうたいていの人が耳にしていると思う。マヤ暦は2012年で終わる、それはマヤの長期暦というのはそうなっているが、どうもマヤの人たち自身はそうは言っていないようだ。また、コールマンによるとホゼ・アグエイアスによる西洋暦への換算に間違い、というか不正確なところがあるらしくて、長期暦の本当の終わりが2012年プラスマイナス数年、ということらしい。さらにいえば、マヤ暦には何種類もあって、中には2012年どころか、ずっと先のほうのカレンダーもある。長期暦だけとらえるのは少し行き過ぎのようだが、それでも、2012年前後から人類の意識がこれまでとは非連続的に、画期的に自然を尊重しポジティブに変わるということは確実のように思われる。それはアメリカ先住民各種族のデイキーパーたちの一致した見解といえる。あえていえば、プレアデスのメッセージもそうである。

 マヤ暦のひとつ農事暦を「ハアブ」という。その月(ウィナル)のひとつが、ウォ月である。高橋徹著「マヤン・カレンダー2012」voice刊153頁の一部分を引用をしておこう。

「ウォ(uo)とは、マヤ語でカエルのことだとされます。雨や水、また豊穣にも関連するウィナルです。カエルが雨の降ることを前もって感知して鳴くように、目に見えないもの、聞こえないものを察知し、それを外に表現するという意味があるようです。」

ちなみに今年の場合は(来年はちがってくる)ウォ月は4月23日から5月12日までである。

これで、アメリカ大陸にもカエルが昔からいることがわかった。それでは、アメリカのカエル語はどうなっているだろうか。残念ながら僕の知る範囲では、草野のような親切な詩人はいないので、カエル語訳があるかどうかはしらない。しかし、大変すばらしいことに、ブラジルのカエル語は歌詞にもなっている。ボサノバの「The Frog」つまり「カエル」という曲がそれである。とっても生きのいいカエルの大合唱である。

 

ゴロゴド・ゴロゴロゴドゴロ・ゲレゲレ・ゲレゲデゲレ・ヤザンゲ・ヤザンゲンゲ・ゲレギギ・ギンギギンギ・ゴロゴド・ゴロゴロゴドゴロ・ゲレゲレ・ゲレゲデゲレ・ヤザンゲ・ヤザンゲンゲ・ゲレギギ・ギンギギンギ・ゴロゴド・ゴロゴロゴドゴロ・ゲレゲレ・ゲレゲデゲレ・ヤザンゲ・ヤザンゲンゲ・ゲレギギ・ギンギギンギ・・・・

試聴をお勧めしたい。以下

http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=UICY-3703

ボサノバの中でも異色の音楽で、ジョアン・ドナートの作である。

 

桜が散って、いつのまにか新緑、五月雨の季節となった。小雨降る小道をお歩きになったら、道端の青々とした草の上をよく見てみてください。ちっちゃな雨蛙がゲコゲコ鳴いてあなたを歓迎しているかもしれない。そうしたら、あなたもちょっと片手をあげて手をふってあげてください。ひょっとしたら雨蛙もちっちゃな片手をあげて「ハァーイ」と返事してくれるかもしれない。

 

(この子の名前だって?好きにつけてやってください。あえて言えば、ブラジル南部出身だから、ポルトガル風の、ポンタとかポンテなんかどうだろう。ポンサなんてのもありか)


よみがえり

2011年05月06日 | 日記

2011年5月6日

よみがえり

   

 歴史的な事件で翻弄される人々の中から、美しい音楽が生まれることがある。せめてもの救いだ。これについて、思い出したことを話してみよう。

 しばらく前、マクドナルドでコーヒーを飲んでいた時、あのボサノバの曲が流れていた。ブラジル音楽の主流はサンバ、あのリオのカーニバルはサンバで踊るが、一方ボサノバは言ってみれば、アルゼンチンタンゴとコンチネンタルタンゴとを比べてみれば、コンチネンタルタンゴのような感じだ。とくに、ジョアン・ジルベルトやアストラッド・ジルベルトの歌は有名だがほかにも沢山の名曲がある。ボサノバを聞いていると、行ったことのないブラジルがとても近く感じる。

 ブラジルとは何か、もしそう聞かれたら、僕は一も二もなくこういうだろう。「ぜひ、映画の名作“黒いオルフェ”を観てください」と。1959年のもうクラシックな映画だが、DVDになっている。多分そこに描かれているものは今も変わらないはずだ。ここで私たちはボサノバの名曲に出会う。ルイス・ボンファの「カーニバルの朝」という曲だ。この映画、ギリシャ悲劇からとったテーマだ。オルフェウスはギリシャ神話の琴の名手で、英雄イアソンがコルキスの金の羊の毛皮をとりに、アルゴ号に乗って出かけたとき、乗組員の一人だった。オルフェウスの妻はユリディス(エウリディケ)といった。最愛の妻だったが死んでしまったので、オルフェウスは冥府まで追っていった。そして冥界の王プルートーが、妻をつれて帰るのを許したのでつれて戻ろうとした。プルートーはひとつ条件を出した。決して振り返ってはならない、と。冥府から地上に出るところまできて、オルフェウスは不安から振り向いてしまった。その瞬間、妻は冥府にひきもどされた。オルフェウスの最期は、トラキアの狂信的巫女に引き裂かれたという。神々はオルフェウスの才能を惜しんで、彼の琴(リラ)を天空に置いた。それが、琴座だ。織姫星はベガだが、ベガは琴座の主星だ。そして、リサ・ロイヤルの本「プリズム・オブ・リラ」には宇宙の歴史からいえば、琴座こそが、私たちの天の川銀河における、人間型宇宙人が最初にでてきたところだと書かれている。

オルフェウスが音楽家として有名であるとともに、神秘教団のオルフェウス教としても知られているのは、このよみがえりの神話と関係があるのだろう。

 オルフェウスの琴は天界に上げられたが、オルフェウスにも後継者があった。彼らは、始祖のオルフェウスの楽器を次の世代のオルフェウスに伝えた。実際、こういう秘儀伝授はあるのだろう。禅宗でも、師匠が後継者と認めた弟子に衣鉢を授ける。オルフェウスの場合、いつのころか琴がギターになったようだ。“黒いオルフェ”の主人公もギターの名手で人気者で、子供たちはいつも彼に、毎朝、ギターを弾いて太陽を昇らせるように頼んだ。ルイス・ボンファの曲はこの時弾かれる曲だ。

 オルフェたちが住んでいるのは、リオの街中でもなければ高級住宅街でもない。貧民、黒人や混血の貧しい人たちが生活する丘のほうのスラム街(ファベーラ)地区で、彼らは年に一度のカーニバルで、仮装してサンバの踊りで優勝することを目的に生きている。今も変わらないのだ。ファベーラで生きるのは厳しく、黒人たちは昔、奴隷としてアフリカから連れてこられポルトガル人に支配されていたが、奴隷主に対抗するためにひそかに、舞踊のようにみせかけた武術であるカポエイラを編み出していた。連綿と続くカポエイラの達人たちによって、今、カポエイラは世界に広まっている。

 オルフェには積極的で情熱的な婚約者がいる。明日にも結婚と、婚約者のほうは大喜びだ。それに比べて、オルフェは何となくさめた感じだ。その日、オルフェにおもわぬ縁ができた。遠くの村からユリディスという名の若い美女がオルフェたちの住む丘のいとこを頼ってやってきた。村の男に追われていて、捕まると殺されるとおびえている。その夜、彼女は死神に仮装した男に襲われ、オルフェが助けた。二人は結ばれ、翌日、カーニバルに出演するため皆ででかけた。そのオルフェの婚約者はオルフェがほかに気をとられていることに気づき、女がいることに気づいて半狂乱となった。ユリディスは逃げ出したが、追ってきた死神男に電車の操車場に追い詰められ、そこで死んだ。オルフェは彼女を見失い、ブラジルの霊媒のところに行った。東北の恐山のイタコと同じように、霊媒の口から、オルフェは彼女の死を知った。

 翌朝、オルフェはユリディスの遺体を抱いて丘の家に戻った。半狂乱の婚約者が彼に石を投げつけ、オルフェはユリディスともども崖を落ちて死んだ。ギターは残った。子供たちは、そのうちで一番上手な子にギターを渡し、ここにあたらしいオルフェが生まれ、太陽を昇らせたのであった。

 

 さて、僕はボサノバの名曲を、セルジオ・メンデスのブラジル66という楽団の演奏で聞いたことがあった。女性ボーカルのジャズ風の快適な調子で「ビリンバウ」という曲を聴いたので、この楽器は瞑想の誘導につかわれる宗教的な楽器だとばかり思っていた。最近もう一度ブラジル66で歌を聞いていたとき、「カポエイラ/キ/エ/ボン/ナウン/カイ・・」という歌詞を聴いたとき、「おや、なんでカポエイラがこの曲にでてくるのだろう?」と思った。少し調べると、ビリンバウというひょうたんでできた琴のような楽器は、カポエイラに欠かせない楽器なのだそうだ。この歌詞の翻訳はむずかしい。こんな意訳をみつけたので、引用しよう。

「ビリンバウが聞こえる カポエイラが始まる 上手いカポエイラは転ばない 愛をかけた戦いだ」

名曲「ビリンバウ」を聞いてみたい人は、試聴してみるとよい。

http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=UCCU-80001

ビリンバウとはこんな楽器

 

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 衝撃的なニュースがまたひとつ来た。オサマ・ビン・ラディン殺害のニュースだが、震災から四十九日たって、この連休はブログも休もうと思った矢先のことで、とりあえず次は気を取り直す話題を提供したいと考え直した。それにしても、このビン・ラディン殺害は出来の悪いサスペンス小説みたいだ。同盟国の面子も踏みにじって作戦を行った。問答無用で本人の顔が吹き飛ばされ、死体はアラビア海の海の底だという。作戦名も「ジェロニモ」とつけて、沖縄に対して侮辱的だった前の国務省日本部長のメア氏のあの感覚、というより無神経そのものだ。「トモダチ」作戦も割り引いて考えなくてはならないだろう。推理小説にもありそうな、顔のない被害者は別人だった、なんてことでなければよいが。これで戦費が膨らみすぎたアメリカはアフガニスタンから足早に立ち去るだろう。その後に何が残るのだろう。そしてオサマ・ビン・ラディンは死んでも、彼の後継者は続くのだろう。