2010年12月13日
仏教とキリスト教-2:クリスマス・カロル
『クリスマス・カロル』という短い小説をご存知だろうか。映画にもなったし、アニメにもなったけれど是非、一生にたった一度だけ本で読んでみてほしいと思う。
「スクルージの手が鍵にかかったとたん、聞きなれない声が彼の名を呼び、お入りといった。彼はそれにしたがった。それは彼の部屋だった。疑う余地はなかった。しかしびっくりするような変わり方をしていた。壁や天井には青々とした緑の葉がかけつらねてあり、さながら森のようだった。そのあらゆる部分にはつやつやした木の実が輝いている。ひいらぎやヤドリギやツタなどのパリパリした葉が光を反射して無数の細かい鏡をちりばめたようだった。そして、勢いよく燃えている火が煙突をごうごうと言わせていた。このようなことは、化石にたような陰気な炉にとって、スクルージの時代、いやマーレイや、そのずっと以前に過ぎ去った幾冬このかた、絶えて久しいことだった。(中略) この長いすの上に見るも気持ちよい陽気な巨人がゆったりと坐っていた。手には形が豊饒の角(cornucopia)に似た燃えさかる松明を持ち、スクルージが戸の向こうからのぞきこみながら入ってくると、それを高くかざして彼にその光を注いでくれた。
「お入り!」と幽霊は叫んだ。「お入り!そして私をもっとよく見るがいい」」
チャールズ・ディケンズの『クリスマス・カロル』(新潮文庫、村岡花子訳)のこの「現在のクリスマスの霊」との出会いの光景を角川文庫本ではじめて読んだのはまだ中学生のころだった。この幽霊、この訳はあまり適切ではない。英語での(Ghost of Christmas Present) のGhostは幽霊と訳すべきでなく、聖なる精霊なのだから単に「霊」とのみにしたほうがよい。
それはともかくとして、この現在のクリスマスの霊が見せた幸せの姿とはなにか、今に至るまで私はこの部分から最初に受けた感動を忘れない。この現在のクリスマスの霊は真の家族の愛を表してくれる。真の家族とはなんだろう。それは魂の永遠のふるさと、人種や宗教を超えた、血縁の家族ともすこし違う、ソウルメイトたちの明るく楽しい家族の愛を暗示しているように思えるのである。このような幸せをこの世の中で見つけるために、私たちは苦労をかえりみずにがんばっているのかもしれない。
続いて主人公スクルージ爺さんの使用人、ボブ・クラチット、薄給をさらに削り取る、成功した金持ちで因業じじいであるスクルージの下で働く運命にある善良なお父さんである。その生活を見ていこう。
「・・・幽霊の非難にあってスクルージはうなだれるばかり、ふるえながら地面に眼を落としていた。しかしたちまち、眼をあげた。自分の名前が聞こえたからである。「スクルージさん!今日のご馳走を寄付してくださったスクルージさんのご健康を祝します。」と、ボブが言った。「ご馳走を寄付してくださったんですって?」とクラチット夫人は真っ赤になって怒った。「まったくあの人がここにいればいいと思いますわ。そうしたら思う存分、私の不服を並べ立ててやりますからね。そんなご馳走でもあの人は喜んで食べるでしょうよ」「これ、お前、子供たちの前だよ、クリスマスじゃないか」「スクルージさんのようなあんないやな、冷酷な、薄情な人の健康を祝ってやるんですから、たしかにクリスマスにはちがいありませんわね。あなたはあの人がどんな人間か知ってなさるのですもの、ロバート。あなたこそ、だれよりもよくあの人を知っているわけですね、かわいそうに!」「お前、今日はクリスマスだよ」ボブはやさしくたしなめた。「あなたとクリスマスに免じてあの人の健康を祝しましょうよ。あの人のためではありませんよ。どうか長生きをなさるように!クリスマスおめでとう!新年おめでとう!あの人もそれでさぞや楽しく幸福になるでしょうよ」
子供たちも母親のあとから乾杯した。この一家が真心のこもらないことをしたのはこれが初めてだった。(中略)ここには特にとりたてて言うことはなかった。
たいして器量のよい一家ではないし、身なりもよくなく、靴には水がしみこむし、着る物にも乏しく、しかもピーターは質屋へのつかいをしたこともあるらしかった。しかし、彼らは幸福で感謝しており、互いに愛し合い、今日の暮らしに満足していた。やがて一同の影がうすれていった。別れぎわに幽霊が松明からきらめくしずくを振りかけたため、いっそうみんなが幸福そうになったとき、スクルージは・・・」
ボブ・クラチットはイエスの教えを真に受け止めているのだが、福音書ルカ伝6章にはこのように書かれている。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎むものに善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱するもののために祈りなさい・・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高きかたの子どもになれます。なぜなら、いと高い方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。・・」
いと高い方の子どもになる、ということが、私たちの生きる真の目的である、これがイエスの教えであろう。永遠の故郷はこの子どもたち、自らのソウルメイトになる魂たちと共に生きるときにあるのであろう。
これは、しかし実行することは至難である。以下の話は多分部分的には実話なのだろうが、というのはこの話のほかの部分は実話なのでそう考えるのだが、日露戦争以前にロシア文学を愛していた女性教員がいた。御茶ノ水のニコライ堂に通ってロシア語を学び、聖書の勉強会にも参加した。彼女の許婚は軍人で、出征して戦死した、そして、彼女はそれでもロシアを愛する、とはいえなかったのだ。不憫であり、とがめるようなことではない。どうこの現実を受け止めたらよいのか、と思う。答えはないが、私は次のイエスの教えを思うことにしている。ルカ伝6章「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。ゆるしなさい。そうすれば、自分もゆるされます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」
また、イエスはこうも説かれた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣くものは幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」
さて、現在のクリスマスの霊によりスクルージは、スクルージのもっとも身近な人、たった一人の身内で能天気な奴と軽くみなしていた甥(おい)が、実はもっとも祝福された人であることを知るにいたる。灯台もと暗し、とはこのことかもしれない。
「朗らかな笑い声が聞こえてきたので、ひどく驚いた。もっと驚いたことにはそれは彼自身の甥の声であり、自分はせいせいした、かわいた明るい部屋にいるのだった。そばには幽霊がにこにこしながら立っており、甥のほうをいかにも気に入ったというように上機嫌で眺めていた。「は、は、は、は、は、は!」と、スクルージの甥は笑った。とてもありそうもないことだが、みなさんが、このスクルージの甥以上に心からの笑いにめぐまれた人をご存知なら、私もその人と知り合いになりたいと思う。私に紹介していただきたい。お近づきになりますから。
物事は公平に公明正大に立派に調整されている。病気や悲しみが伝染する一方、笑いと上機嫌もまた世の中でこの上なしの伝染力を振うものである。スクルージの甥がこのように腹をかかえて頭を揺すりながら途方もなく顔をくしゃくしゃにゆがめて笑うと、スクルージの姪、つまり甥の妻もこれまた負けずに笑い出した。集まっている友人たちもおくれをとらない連中なのでどっと笑い出した。「は、は! は、は、は、は!」「あの人はね、クリスマスなんて下らないと言うんですよ。自分でもそう思い込んでいるんですね」と甥が叫んだ。「なら、なおさらよくないことよ、フレッド」と、スクルージの姪が憤然として言った。こういう婦人たちは愛すべきかな!決して物事を中途半端にしておかないのである。いつも真剣なのである。彼女はたいそう愛らしかった。実に愛らしかった。・・・」
どうやら、ここには真の家族、ソウルメイトの集いができているようだ。「あんな人にはあたし、とても我慢がならないわ」と姪が言うと、姪の姉妹たちをはじめ、ほかの婦人たちもみな、同感だと言った。「いや、僕はそんなことはないな。僕はあの人が気の毒なんだよ。たとえ怒ろうとしても僕は怒る気にはなれないね。あの人の感じの悪いむら気でだれが迷惑するというのだい?あの人自身じゃないか、いつでも。いいかい、あの人は僕たちをどうしても嫌いだときめこんでしまって、ここへ来て僕らと食事をしようとしない。その結果はどうだい?たいしたごちそうを食べそこなったわけでもないじゃないか?」「あら、あの人はとてもすばらしいご馳走を食べそこなったと思いますわ」」(つづく)