昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

皆様にとって、今年がよい年でありますよう

2010年12月31日 | 日記

2012年元旦

皆様にとって、今年がよい年でありますよう

 

 大晦日と新年の境とは何なのだろう。時計は連続した時間を刻んでいるようにみえる。昨日と今日、そして明日、その流れと違う深い断層が大晦日と元旦の間にあるのだろうか。

 近代文明が機械仕掛けの時計を発明する以前、東洋も西洋も時間にはそれぞれの顔があった。2010年が寅年なら2011年は卯年ではないか。虎から兎へ、一瞬にして豹変してしまうのだ。

 おそらく、2011年から2012年に変わるときも、時間の顔が一瞬にして変わってしまうだろう。

 そのように、僕たちは過ぎ去った時間を思い出すことができない。今振り返る過去は、決してその時の現在ではない。ふと思い出した歌詞に「青春時代が夢なんて、それは後からおもうもの、青春時代の真ん中は・・」忘れてしまったがそんな歌詞だった。

 今も作詞作曲家として活躍するマツトウヤユミさん(荒井由美だったこともあるが)の歌。僕は歌舞音曲に音痴な無粋者なのでほとんどしらない歌ばかりだが、ひとつだけ覚えている歌詞の部分がある。それはこんな歌詞だ。

「青春の後姿を、人はみな忘れてしまう・・」

そのとおりだと思う。時間っていったい何なのだろう。

 僕のかつての指導教授、筧泰彦先生は生前、正月にお宅に挨拶に伺うとき、いつも手作りのお飾りを見せてくださった。藁を打って橙をくくりつけ、円と放射に形作られた。橙それはお正月に昇る新たな命である太陽をあらわすのだ。そして、その輪飾りの下の放射は旭の末広がりなのだ。元旦、それは過ぎ去った昨年とはまったく別の新たな誕生なのだ。

 神はおろがむ時に坐します、と口癖のように語っておられた。人が神をおろがむ心を持たずに神前に立っても、神は坐しまさない。

 「時」それは連続した時間、機械時計が測る等質的無機質の時間ではない。それは一瞬一瞬に神が生み坐します「産霊(むすび)」の業のこと、そう教えられた。その後、宇宙のメッセージを伝える人たちに出会って、彼らも同じようなことをいっている。ある方はこう言われた。「今、そこにありなさい」と。

 その方によれば、シリウスの智慧とは、一呼吸一呼吸に「ある」ことだという。そのとき、あなたは、過去の痛手も未来の不安も手放せ、と。

 ハヤブサが地球に帰還した瞬間、大気圏に突入した瞬間の写真をご覧になっただろうか。一条の炎の航跡が、永遠に輝く天の川を横切っているのだ。その寿命は燃え尽きて終わったけれど、感動は永劫に響いていく。

 


雑感:仏教と星

2010年12月26日 | 日記

2010年12月27日

雑感:仏教と星

85歳の母親が今月急に認知症になった。骨粗しょう症と頚椎圧迫で風邪を引いたのが重なった。突然、20台前半以降の記憶が現在の記憶の中に押し込まれ、押しつぶされ、まだら呆けとなっていた。30年前のことを、一昨日のように鮮明に覚えている、でもそれが30年も昔であることがわからない。

 認知症の概念的知識ではカバーすることができない衝撃を受けた。自分の中の何かを圧迫する胸苦しさを実感した。他の家族の方々もきっとそうだったのだろう。幻覚を伴い、抑肝散を処方された。アリセプトは手遅れだったし、また実際受け付けなかったのだ。

 深夜零時、南の空を見上げると、皓々と輝く星を見るだろう。今のこの時間、南中するのはオリオン座に随伴する大犬座の主星シリウスだ。冷気が流れる中、癒されるためにこの星をみつめる。時間を超えた光が届いている、そう感じられる。人が死ぬと星になるという。昔聞いた話だが、子供が母親をなくし、「お母さんはどこ?」と聞くので、「あの星がお母さんだよ」と返事するのだ。

 仏教で星とつながる存在といえば、虚空蔵菩薩ではなかろうか。寅年生まれの人の守護仏と書いてあった。そのせいか、なぜか親しみがある。虚空蔵菩薩は正式には、アカシャ・ガルバーヤという。虚空とは梵語ではアカシャで、アカシック・レコードと通じる。虚空蔵菩薩は無量の富をもたらすそうだ。富をこの世的な財貨と解釈するか、もっと精妙な純粋な力とみていくか、それぞれの選択だろう。無尽蔵の智慧と富をもつという虚空蔵菩薩とは、星空そのもののことなのだろう。

 虚空蔵菩薩の真言は、ノーモーアカシャガルバーヤ オンアリカーマリムリスバハー というのだそうだ。発音は真言宗では多少違うだろう。では、発音が違えば効力はないか?

 そうともいえるし、そうでないともいえる。古代のバラモン教は煩雑な祭儀の体系をもっていた。結界をつくり呪法をして、神々のエネルギー、例えば火の神アグニや、雷神インドラの真言を唱えるなどがある。そのエネルギーを呼び出すため、間違った発音はしてはならない。だが、伝言ゲームのように、古代インドの発音は長い年月を経て、チベット、中国、日本と伝わるうちに、インド人が聞いたらわからない発音だろう。それでも真言を唱えるのは何故か?

 言葉のエネルギーそのものは、単なる音声ではなくて、そこにこめられた集合意識の思いと不可分割なのだ。真摯に願う心というものは絶対的な力なのだ。したがって、乗り物としての音声に多少難があっても、真言を受ける存在は意識体なので、意味を読み取ってくれるのだろう。

 それでは、一番大切な真言とは何か。それは、「オーム」である。「オン」とも発音する。それはともかく、私は、朝一番、深呼吸して朝日に向かって「オーム」とゆっくりと長く発音する。「ウパニシャッド」という、インドの奥義書をみると、文頭から、まず「オーム」で始まる。アルファからオメガへ、という意味である。「オーム」という音から森羅万象は生まれた、これがウパニシャッドの主張である。

 最近学んだことなのだが、真言(マントラ)の真の発祥地は、はるか天空の琴座の主星ベガである。オームという真言もベガからこの地球にはるかな昔伝えられたのだ。ベガの智慧はシリウスに伝わり、シリウスの意識体は非常に高次元の存在で、地球の進化に深く関与しているそうである。アフリカにドゴンという種族があるそうで、人類学者たちにとって大変興味があるのだそうだが、この種族はある伝説をもっている。それは、かれらの祖先は両生類のような、水中にすむ存在で、またかれらの故郷はシリウスだという。シリウスは実際は連星といって、光り輝く主星と矮星とが一対になっている二重星で、矮星というのは非常に重く小さくて目には見えない星であるがこれを伴っているという。シリウスが連星であるかどうか、これが実際にそうであると確認されたのはたかだか100年くらい前のことで、天文学者がシリウスを観測していて、そのふらつき運動から計算で確認した。詳しいことはしらないが、多分今日では望遠鏡でも確認できているのだろう。

 シリウスの生命体が両生類ということと、鯨、イルカもその仲間であることに人類は気づき始めている。鯨、イルカの存在することが人類の精神的な支えとなってきたことに気づく時代がもうまもなくやって来るようである。

 先日、江ノ島の水族館に仕事の帰りに寄り道して行ってきた。母親の認知症発症がこたえたからだ。イルカのショウタイムに偶然!?間に合って、またまた偶然!?イルカと握手する時間が続いていた。それで500円払ってイルカと握手してきた。イルカはじっとひれを握らせてくれた。私のガイドがシンクロニシティを起こしてこんな機会をくれたのだ。


仏教とキリスト教-2:クリスマス・カロルのつづき

2010年12月18日 | 日記

(前回からのつづき)

2010年12月20日

仏教とキリスト教-2:クリスマス・カロルのつづき

 

ことしもクリスマスが近づいた。ディケンズが『クリスマス・カロル』でいみじくも描いたように爆発するような光と喜びが人々を包む。キリスト教徒にとっても、そうでない人々にとってもこの時期は、格別な時間の相貌をあらわすように思える。なぜだろう。今日も雪の気配を感じる凍える夜空に、皓々と木星が光っている。その夜空の奥には、無限の星の海が広がるはずである。

そこで、毎年のように思うのだが、かの「ベツレヘムの星」とはいったいなんだったのだろうか、と。幼子(おさなご)イエスの休む厩を目指して東方から三人の博士が訪ねてきた。彼らは星のメッセージを受けていた、すなわちベツレヘムに行き、救世主に祝いの品を届けよ、と。それゆえに、彼らは、乳香、黄金、没薬、の三つの宝をたずさえた。彼らの行く手を導いたのが「ベツレヘムの星」だった。そして、幼子イエスを礼拝して彼らは立ち去った。

 今生、わたしはアロマテラピーというのにめぐり合い、再びいにしえの三博士が持参したものについて思いをめぐらせる。以前、ある人が、私にこういった。「あなたは、イエスの直接の弟子ではないけれども、イエスの弟子のひとりの弟子で、あなた自身もイエスを直接知っていた」と。

わたしにはほんとうにそうだったかどうかまったくわからない。ただ、その人は私にあるアロマをかいでみなさい、といった。それはなんともいえないなつかしいような香りだった。その人は「これはフランキンセンスといいます。乳香ともいいます。いまかいでいただいたのは、わたしがエチオピアまで行って求めたものです。」

その後かなり時が過ぎて、ようやく私はミルラというアロマオイルが没薬であることを知った。話を戻そう。「ベツレヘムの星」は、科学者は、それは惑星か彗星だというのが普通で、恣意的なガイドをする存在とはまったく認めない。一方、あれは端的にUFOだと断言する人もすくなくない。

UFOといえば、大きさは数人乗りの飛行艇のような円盤から、葉巻型の巨大母艦、さらには惑星くらいの大きさまであるという。惑星くらいの大きさの存在なら、「ベツレヘムの星」といっても異論はないかもしれない、断言はできないが。

 さて、スクルージとその甥の人生観は、19世紀の産業資本主義の社会が生み出した対極的な姿でもある。スクルージの甥以上に、社会正義に心を燃やしたひとりの傑出した詩人であり工芸美術家であり実践的社会主義者であり家庭の主人であり工房の富裕な経営者であり建築芸術運動に多大な影響を与え、印刷所をもつくり、ハマースミス社会主義協会を設立し、ある冬の日、前代未聞の不思議な体験をした後、これを『ユートピアだより』というレポートにまとめて一年間自分が発行する社会主義雑誌に寄稿し、さらに本にして出版してまもなくこの世を去った典型的な19世紀のイギリス人を紹介しよう。

ディケンズの時代から少し遅れて19世紀後半、イギリスの著名な社会主義者であり装飾工芸家であるウィリアム・モリスという人が活躍した。彼は天才的な美学評論家でもあったジョン・ラスキンに啓発され、イギリス人の社会主義の伝統にめざめた。と同時に、前ラファエロ派という絵画デザイン流派で中心的な役割を果たした。かれは、最晩年に『ユートピアだより』という本を出した。私はそれに深い関心がある。それはともかくとして、モリスのもうひとつの著作『ジョン・ボールの夢』も彼の超常的な夢の体験に基づく作品なのであるが、それは14世紀のイギリス農民戦争の時代に、現在の彼の魂が戦場の村を来訪したことを述べているのである。

一瞬何のことかわからないと思われるだろう。とにかく、ここでモリスはこの反乱の主導者ジョン・ボールとこれからのちの数百年先の時代の、つまり未来である19世紀の産業資本主義という奴隷制、すなわち産業資本主義になったイギリスにおけるはなはだしい格差、巧妙につくろわれる労働価値と剰余価値の搾取について語り合うのである。その会話の中に「同志的連帯」という言葉が何度もくりかえされる。ディケンズもまたそうした、搾取される者への同志的連帯感をもった作家だった。広くいえば、イギリスの政治経済の世界的支配力が強まると同時に、それにたいする社会主義的反撃も強まっていった。ドイツからロンドンに亡命したカール・マルクスたち共産主義者もその一部を構成していた。これとは別に無名の多くの社会福祉活動家、キリスト教の慈善運動家もそうであった。エンゲルスのようなイギリス人でない共産主義者と異なり、イギリスの共産主義者たちはイエスの教えを活かそうとしたようにみえる。すなわち、「隣人愛」の実現である。『クリスマス・カロル』の基本的モチーフは隣人愛なのである。そういう理念のもとに集まった男女がソウルメイトの集まりであり、聖なる家族なのである。だから、スクルージの甥はしょうこりもなく、上機嫌でスクルージを自宅でのクリスマスの食事会に招こうとするのである。

「「僕は毎年あの人に同じチャンスを与えるつもりだね。気の毒でならないんだもの。あの人は死ぬまでクリスマスのことをののしるかもしれないが、しかし少しは良いほうに考えなおさずにはいられまいよーー僕はあの人に挑戦するんだーー僕が来る年も来る年も上機嫌であの人の事務所に行き、『スクルージ伯父さん、ご機嫌いかがですか?』と言うんだよ。もし、そのおかげであの人があの哀れな書記<ボブ・クラチットのことです>に50ポンドものこしてやろうという気持ちにでもなればそれで有意義なことだ。それにきのう、僕はあの人の気持ちをゆすぶってやったと思うんだ」

彼がスクルージの気持ちをゆすぶったなどと聞いて今度は一同のほうが笑い出した。だが甥はまったく好人物であり、一同が何を笑っているのか一向、気にせず、ただなんであれ、わらいさえすればいいと、自分からいっそう笑いに拍車をかけ、たのしそうに酒をまわした。」

 今、私は手元の聖書を開いたとたん、ルカ福音書12章の言葉が目にとびこんできた。「持ち物を売って、施しなさい。自分のために、古くならない財布をつくり、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」

 もちろん、持ち物を売るというのは、言葉どおりに受けてもよいし、たとえとして受け止めてもよい。ポイントは、見返りを期待しないで、自分がもてる力を分け与えよ、ということだろう。福音書には、たのしい宴会のたとえ話が多い。同じくルカ、ルカは使徒パウロの弟子で医者だったといわれるが、14章にこうある。「イエスは、自分を招いてくれた人にもこう話された。・・・祝宴を催す場合には、むしろ貧しい者、からだの不自由なもの、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」

 『クリスマス・カロル』の結末は、ご自分で読んでみてください。私は全体の学びとして、次の言葉があてはまるように思う。ルカ17章「さて、神の国はいつ来るのかとパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」


2010年12月13日仏教とキリスト教-2:クリスマス・カロル

2010年12月10日 | 日記

2010年12月13日

仏教とキリスト教-2:クリスマス・カロル

 『クリスマス・カロル』という短い小説をご存知だろうか。映画にもなったし、アニメにもなったけれど是非、一生にたった一度だけ本で読んでみてほしいと思う。

「スクルージの手が鍵にかかったとたん、聞きなれない声が彼の名を呼び、お入りといった。彼はそれにしたがった。それは彼の部屋だった。疑う余地はなかった。しかしびっくりするような変わり方をしていた。壁や天井には青々とした緑の葉がかけつらねてあり、さながら森のようだった。そのあらゆる部分にはつやつやした木の実が輝いている。ひいらぎやヤドリギやツタなどのパリパリした葉が光を反射して無数の細かい鏡をちりばめたようだった。そして、勢いよく燃えている火が煙突をごうごうと言わせていた。このようなことは、化石にたような陰気な炉にとって、スクルージの時代、いやマーレイや、そのずっと以前に過ぎ去った幾冬このかた、絶えて久しいことだった。(中略) この長いすの上に見るも気持ちよい陽気な巨人がゆったりと坐っていた。手には形が豊饒の角(cornucopia)に似た燃えさかる松明を持ち、スクルージが戸の向こうからのぞきこみながら入ってくると、それを高くかざして彼にその光を注いでくれた。

「お入り!」と幽霊は叫んだ。「お入り!そして私をもっとよく見るがいい」」

 チャールズ・ディケンズの『クリスマス・カロル』(新潮文庫、村岡花子訳)のこの「現在のクリスマスの霊」との出会いの光景を角川文庫本ではじめて読んだのはまだ中学生のころだった。この幽霊、この訳はあまり適切ではない。英語での(Ghost of Christmas Present) のGhostは幽霊と訳すべきでなく、聖なる精霊なのだから単に「霊」とのみにしたほうがよい。

 それはともかくとして、この現在のクリスマスの霊が見せた幸せの姿とはなにか、今に至るまで私はこの部分から最初に受けた感動を忘れない。この現在のクリスマスの霊は真の家族の愛を表してくれる。真の家族とはなんだろう。それは魂の永遠のふるさと、人種や宗教を超えた、血縁の家族ともすこし違う、ソウルメイトたちの明るく楽しい家族の愛を暗示しているように思えるのである。このような幸せをこの世の中で見つけるために、私たちは苦労をかえりみずにがんばっているのかもしれない。

 続いて主人公スクルージ爺さんの使用人、ボブ・クラチット、薄給をさらに削り取る、成功した金持ちで因業じじいであるスクルージの下で働く運命にある善良なお父さんである。その生活を見ていこう。

「・・・幽霊の非難にあってスクルージはうなだれるばかり、ふるえながら地面に眼を落としていた。しかしたちまち、眼をあげた。自分の名前が聞こえたからである。「スクルージさん!今日のご馳走を寄付してくださったスクルージさんのご健康を祝します。」と、ボブが言った。「ご馳走を寄付してくださったんですって?」とクラチット夫人は真っ赤になって怒った。「まったくあの人がここにいればいいと思いますわ。そうしたら思う存分、私の不服を並べ立ててやりますからね。そんなご馳走でもあの人は喜んで食べるでしょうよ」「これ、お前、子供たちの前だよ、クリスマスじゃないか」「スクルージさんのようなあんないやな、冷酷な、薄情な人の健康を祝ってやるんですから、たしかにクリスマスにはちがいありませんわね。あなたはあの人がどんな人間か知ってなさるのですもの、ロバート。あなたこそ、だれよりもよくあの人を知っているわけですね、かわいそうに!」「お前、今日はクリスマスだよ」ボブはやさしくたしなめた。「あなたとクリスマスに免じてあの人の健康を祝しましょうよ。あの人のためではありませんよ。どうか長生きをなさるように!クリスマスおめでとう!新年おめでとう!あの人もそれでさぞや楽しく幸福になるでしょうよ」

 子供たちも母親のあとから乾杯した。この一家が真心のこもらないことをしたのはこれが初めてだった。(中略)ここには特にとりたてて言うことはなかった。

たいして器量のよい一家ではないし、身なりもよくなく、靴には水がしみこむし、着る物にも乏しく、しかもピーターは質屋へのつかいをしたこともあるらしかった。しかし、彼らは幸福で感謝しており、互いに愛し合い、今日の暮らしに満足していた。やがて一同の影がうすれていった。別れぎわに幽霊が松明からきらめくしずくを振りかけたため、いっそうみんなが幸福そうになったとき、スクルージは・・・」

 ボブ・クラチットはイエスの教えを真に受け止めているのだが、福音書ルカ伝6章にはこのように書かれている。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎むものに善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱するもののために祈りなさい・・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高きかたの子どもになれます。なぜなら、いと高い方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。・・」

 いと高い方の子どもになる、ということが、私たちの生きる真の目的である、これがイエスの教えであろう。永遠の故郷はこの子どもたち、自らのソウルメイトになる魂たちと共に生きるときにあるのであろう。

 これは、しかし実行することは至難である。以下の話は多分部分的には実話なのだろうが、というのはこの話のほかの部分は実話なのでそう考えるのだが、日露戦争以前にロシア文学を愛していた女性教員がいた。御茶ノ水のニコライ堂に通ってロシア語を学び、聖書の勉強会にも参加した。彼女の許婚は軍人で、出征して戦死した、そして、彼女はそれでもロシアを愛する、とはいえなかったのだ。不憫であり、とがめるようなことではない。どうこの現実を受け止めたらよいのか、と思う。答えはないが、私は次のイエスの教えを思うことにしている。ルカ伝6章「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。ゆるしなさい。そうすれば、自分もゆるされます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」

また、イエスはこうも説かれた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣くものは幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」

 さて、現在のクリスマスの霊によりスクルージは、スクルージのもっとも身近な人、たった一人の身内で能天気な奴と軽くみなしていた甥(おい)が、実はもっとも祝福された人であることを知るにいたる。灯台もと暗し、とはこのことかもしれない。

「朗らかな笑い声が聞こえてきたので、ひどく驚いた。もっと驚いたことにはそれは彼自身の甥の声であり、自分はせいせいした、かわいた明るい部屋にいるのだった。そばには幽霊がにこにこしながら立っており、甥のほうをいかにも気に入ったというように上機嫌で眺めていた。「は、は、は、は、は、は!」と、スクルージの甥は笑った。とてもありそうもないことだが、みなさんが、このスクルージの甥以上に心からの笑いにめぐまれた人をご存知なら、私もその人と知り合いになりたいと思う。私に紹介していただきたい。お近づきになりますから。

 物事は公平に公明正大に立派に調整されている。病気や悲しみが伝染する一方、笑いと上機嫌もまた世の中でこの上なしの伝染力を振うものである。スクルージの甥がこのように腹をかかえて頭を揺すりながら途方もなく顔をくしゃくしゃにゆがめて笑うと、スクルージの姪、つまり甥の妻もこれまた負けずに笑い出した。集まっている友人たちもおくれをとらない連中なのでどっと笑い出した。「は、は! は、は、は、は!」「あの人はね、クリスマスなんて下らないと言うんですよ。自分でもそう思い込んでいるんですね」と甥が叫んだ。「なら、なおさらよくないことよ、フレッド」と、スクルージの姪が憤然として言った。こういう婦人たちは愛すべきかな!決して物事を中途半端にしておかないのである。いつも真剣なのである。彼女はたいそう愛らしかった。実に愛らしかった。・・・」

どうやら、ここには真の家族、ソウルメイトの集いができているようだ。「あんな人にはあたし、とても我慢がならないわ」と姪が言うと、姪の姉妹たちをはじめ、ほかの婦人たちもみな、同感だと言った。「いや、僕はそんなことはないな。僕はあの人が気の毒なんだよ。たとえ怒ろうとしても僕は怒る気にはなれないね。あの人の感じの悪いむら気でだれが迷惑するというのだい?あの人自身じゃないか、いつでも。いいかい、あの人は僕たちをどうしても嫌いだときめこんでしまって、ここへ来て僕らと食事をしようとしない。その結果はどうだい?たいしたごちそうを食べそこなったわけでもないじゃないか?」「あら、あの人はとてもすばらしいご馳走を食べそこなったと思いますわ」」(つづく)


仏教とキリスト教-1:原始キリスト教の背景

2010年12月04日 | 日記

2010年12月6日

仏教とキリスト教-1:原始キリスト教の背景

 先に、もろもろの如来について記した。もろもろの如来のひとりがイエスである。今日のキリスト教徒は、イエスは神の御子である、被造物であるわれわれとは違うと説く。こういう教えになったのは、今から1600年位前の、ローマ皇帝であったコンスタンチヌスの頃からであって、決してイエス存命の時期ではない。それどころか、皇帝がある意味で強引に進めたニケーア宗教会議という会議で今日のカトリックが成立するまでは、さまざまな立場のイエスの教え、すなわち福音書があった。たとえば、「トマス福音書」とか、「マリア福音書」とかいくつかある。これらは後にグノーシス主義として正統派キリスト教徒(と今日ではいわれるが)つまりグノーシス主義に反対の勢力から弾圧された。これらのさまざまなキリスト教の立場は、原始キリスト教団それ自体の中に起源をもっているものもあれば、教団の使徒たちとは別系統の、しかしながらキリスト教的であると同時に反ユダヤ教的な立場もあった(これを、キリスト教的グノーシス主義という)。

アリウス派のキリスト教というのが別にある。はじめは正統派とされたが、やがてキリスト教の信条である三位一体説を唱えたアタナシウスという古代エジプトのアレキサンドリア出身のキリスト教神学者が出てからは、ニケーア会議以降、異端として排除されるようになったのが神学者アリウスのキリスト教である。イエスの死後2世紀くらいの間は、アリウスのキリスト教の方が優勢であった。

 アリウスの教えは、中東世界ではむしろ普通の立場であって、イエスは人間であって、イエスは「神のひとり子」(キリスト教の熱心な信者の一部に人気があった説)というのは正しくはない、という立場であった。アリウスにとっては、イエスは人間であって、神話的な「神の子」という考え方はとらなかったのである。アリウスの教えはバルカン半島を北上して、北方ゲルマン族に広まった。ドイツでは古代のゲルマン人は北欧神話の神々を崇敬していた。冬至には樅の木の精霊を祀り、新しい年の再生を祈った。これをキリスト教の信仰に組み入れたのがアリウス派キリスト教の聖職者だった。クリスマスのお祝いの起源とされる。

 キリスト教と仏教には明らかに相互の影響がある。ある言い伝えでは、イエス自身もチベットで修行した時代があるということだし、イエスの使徒のひとりトマスのインドでの布教という言い伝えもある。そういうインドとヨーロッパの交流は、西暦前3世紀ごろからアレキサンダー大王によるギリシャ文明のインド世界への流入以後顕著になったとされる。でも、もっと古くからあったのだろう。正統派がいわないイエスの教えのうち、近年発掘されたグノーシスの教説の中では輪廻転生の教えがある。輪廻転生のことは、古代や中世のユダヤ人も受け入れたもので、たとえばアメリカで活躍したユダヤ神学者マルチン・ブーバーの本を読めば明らかである。仏教の「菩薩」というあり方がイエスの説教の土台にあるという指摘も学者の中にはある。しかし、イエスは菩薩というよりは真如の世界から降りてこられた如来であろう。

  ユダヤの聖書(キリスト教はこれを旧約というけれど、ユダヤ人は決して旧約などとはいわない。)の起源について、すこし述べておかなければならない。中東世界は、基本的にはチグリス・ユーフラテス川の周りで発生したシュメール文明に起源をもつ。西暦前5千年前ごろから、シュメール文明が起こったとみられるが、バビロンのマルドゥク神話にある、マルドゥクとティアマートと戦いは、ノアの箱舟の洪水神話や、「ヨブ記」にある神の答えの中で言及されるが、原初の巨竜レヴィアタン(英語でリヴァイアサンというが、17世紀イギリスの政治学者トマス・ホッブズの著書にも『リヴァイアサン』という名前がついている)や、ベヘモートもしくはビヒモスなどの原初の竜は、のちのキリスト教でいう悪魔の原型である。シュメールの神話はアヌンナキという神々が支配者であるが、これは神話というよりは実話であると、シュメール学者ゼカリア・シッチンが唱えている。彼によれば、古代シュメールの真の支配者であるアヌンナキは、その時代に地球の近傍にあったニビルという惑星の住民で、本来はほかの宇宙領域からきた宇宙人である、というのである。彼らは地球人類を労働力として使うために類人猿を遺伝子工学を使って人間として創作したという。荒唐無稽な話と思われるかもしれないし、私もそういうふうに思った時期もあったが、ニビルが今現在も実在するかはともかくとして、古代文明に宇宙からの影響がないというのはありえないと考えるようになった。たとえば、UFOというのは、公式にはアメリカ空軍のパイロットたちによって1947年ごろから目撃されるようになったのが始まりとみなされるが、その記録ははるかに古くからある。中世ドイツの女性神秘家で修道院長であり、ドイツ薬草学の草分けである、ビンゲンのヒルデガルトは、彼女が幻視した宇宙の姿を描いている。キリスト教的な修飾が著しいが、いずれにせよ当時、彼女は未知の球体の飛行を目撃したとみられる。

 また、ペルーのナスカにある地上絵は大気圏外から俯瞰した絵であるとしか考えられない。さらにいえば、中世ヨーロッパの医学に大きな影響を与えたパラケルススという人物がいる。彼はゲーテの『ファウスト博士』のモデルといわれているが、パラケルススは占星術と医学の対応を論じたり、いくつかのタリズマンすなわち護符を書き残している。パラケルススの作品かどうかいまひとつ不明だが、そういう護符のひとつに明らかにUFOの形がある。そういう知識を得てからあらためて、ユダヤ聖書の「創世記」を読むと、たとえばヤコブの梯子の部分とか、「エゼキエル書」の「メルカバ」(ヘブライ語で戦車のことで、英語でマカバという言葉でなら知っているかもしれない)もみなUFOの存在を暗示しているといえる。

 これは科学的一点張りとみなされるヨーロッパ文明の隠された部分の秘教として伝わるもので、学問的にヨーロッパ精神史を論じる場合、深層心理学とのかかわりで無視してはならない側面である。

 要するに、キリスト教の信条とか信仰を考えるとき、天使的存在の理解を欠かせないということである。天使とは、いうまでもなく天、すなわち地球外宇宙からの導き手であり、そういう宇宙が永遠の英知と愛をもって、この世界に光を与えようという意図をもつことをあらわしている。この点で、天使は如来でもある。それは、アヌンナキとは意見を異にする宇宙の存在なのかもしれない。キリスト教徒はイエスのみを天使より上の存在とするのは彼らの宗教的想像であるが、いくつかの比較宗教学的議論からすれば、現れた存在より奥の隠れた存在がいくらでもあるので、けっしてイエスが究極ではないし、ゴータマもまたしかりである。ただ、誤解のないようにしておきたいのは、イエスもゴータマも、如来、もしくは覚者としてのブッダであることは疑いをいれない。二人の本質はまったくひとつ、神の愛(アガペー)そのものである。この世で生き、教えを説く前に人間としての苦節があったことも共通である。(つづく)