昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

大型連休を迎えて

2016年04月30日 | 日記

いよいよ、今年の大型連休が始まりました。これから、いよいよご家族で海外へお出かけ!という人も

いらっしゃるでしょうね。国内に、とくに熊本にボランティアしに行く、という方も中にはおられるかもしれませんよ。

何か、ワクワクしてくるような貴重な時間がやって参りましたね!

「けっ、遊んでなんかいられねーよ、いい気なもんだ、明日の夜は夜勤だよぉ」と吠えておられる方もありそうですね。

人それぞれです。

でも、今日は本当に気分良い朝です、四月最後の日がとてもいとおしく感じられますね。

前回のブログには、きっと頭かかえた方多かったかと思います、とても恐縮し、かつ同感しています。

かって、自分がそうだったからです、くそっ、なんでこんなややっこしいんだぁ!

そう吠えてしまったものです。「いっきに、落ち込んだ、燃え尽きた」、という苦情を耳にしそうです。

気分なおしに、今回は気楽な話をしたいと思います。

ビオトープ、って聞いたことありますか?

たぶん、小中学のとき、校庭の隅に、小さな池があって、自然な植物があって、トンボがいて、こおろぎがいて、バッタがいて、おたまじゃくしが泳いでて・・・

思い出されましたか?

小さな自然環境の保護から、自然農法の水田や里山を計画的に整備する、という環境保護事業があります。

樹木、それも、外来種でなくて固有な種を沢山そだてることの重要性を説き実行されている日本人学者に宮脇昭という人がおられます。

広葉樹の植樹活動で世界的に有名で、ブナ、タブのき、樫、しい、くぬぎ、けやき、などなどを防災林として全国で、いやアフリカや中国などでも実施されています。

ビオトープというのはその先生の活動ではありませんが、趣旨は同じです、それも、ものすごく簡単で、私みたいなドシロウトが簡単にやっていることなんです!!!

作り方伝授します。

必要なものは、大きな土鍋か、火鉢、手水鉢(皆さんは知らないか、たぶん)、小さな鉢植え用の鉢いくつか、。

水道水、100円ショップで手に入る園芸用の土。軍手。小さなシャベル。 それだけ。締めて、600円まで。

私みたいな、ドケチにぴったりの趣味です、海外旅行したら、一人旅だって、ちかいところでも2泊3日締めて5万はするからね、食事代こみだけど。おみやげもあるし・・。

さて、種子はどうする?

秋に公園か里山にハイキングに行くでしょう、そのときを忘れずにドングリ幾種類も袋にわけて拾ってくる、出費ゼロ、ハイキングのついでだからね。

もちろん、それだけではちょっとさびしいです。

やっぱり、花屋で、水仙、バラ、菜の花(近くにあれば黙ってもってくる)などなど。

土器に水いれて、ホテイアオイを浮かべれば、おたまじゃくしはいつの間にかカエルになって、歌を歌ってくれます。おたまじゃくしとめだかは、近所の池から、あるいは元小学生だったのを理由に、もってくる。一応、学校に断ってください。ビオトープの「研究」をするんだとか言って。

ドングリは、本来は大木になるハズですが、植木鉢が小さいので、最初芽がでたらどうなるか、ひょっとして、ひょっとして、屋根ぶち破るんでは??とおびえてたものですが、

鉢の大きさに見合ったかわいい盆栽になってくれました。あれからもう2年、おんなじ大きさなのです。

バラ!これはすごい。一束390円で紅バラ5本売っていました。2本は日向に、3本は直射日光はまったく当たらないところに花瓶に入れました。

とってもうれしいことに、日向の2本、あの「バーラが咲いた、バーラが咲いた、小さなバーラーが」のマイク真木の歌のようになりました!

で、別の3本は・・・枯れました。バラには絶対日光が必要デス。

芍薬!これが、バラと逆だったんです、日向でないほうが、きれいに花ほころびました!

というわけで、ビオトープを作るということのメリットは多々あります。

1)地球環境の保全に貢献できます。

2)お宅の中に、四季が活きています。

3)カエルやめだかの友達になれます。

4)カエルに負けたくないので、歌が上手になります。ちなみに、私は今、ボサノヴァというブラジル音楽をしっかりと習って、ついに歌っています。この間、飲み会でノドを聞かせてしまいました、皆、唖然としていました。

ボサノヴァのとても面白い曲があります。日本語で「アハン」というのですが、アマガエルのことです。ヒキはサポといって別の言葉です。

これは、皆さん今月中に、you-tube で、できればポルトガル語のサイトで聞いてみてください。夢みたいな面白い曲です。小野リサのCDにも入っています。

5)ここが肝心なのですが、落ち込みや、燃え尽き、が解消します。

 

 


2016年4月26日 死後の世界-2

2016年04月26日 | 日記

前回、死んだときのその人がもっている確信のあり方によって、次にゆく世界が決まる、といいました。

 結論はそうなのですが、これでは抽象的すぎて、ほとんど何もお分かりにならないでしょう。そこで、今回できるだけ具体的な説明をしようと思います。とはいえ、本格的にやるとなると、ブログ10回でも足りません。いつか、また皆さんに直接お会いできる日に時間をとって説明できたらな、と思います。
ここでは、極端に端折って説明しようと思います。とにかく、わからなくても、A4用紙3ページぐらいにしますので、ざっと見てください。

この問題を取り扱うには、さまざまな方法があります。神話の心理学からのアプローチ、宗教哲学からのアプローチ、社会学的なアプローチ、マルクス主義的なアプローチ、比較宗教学的なアプローチ、などなどです。私は比較宗教学を主に使います。同時に、その前に、「風土論」というものを簡単に説明することにします。

最初に、いくつかの問題を提起しますので、5分でお考えください。そして、もし答えをもっておられるなら、ちょっとメモしておいてください。
1) 死後の世界というものがあるとしたら、それはどういう風に知られるのか?
2)「霊界」という言葉がある。あなたはたぶんご存知だろうが、あなたはどうそれを理解しているのか?端的に、死後の世界のことのみを指すと思うか、単なる幻想だ、と思うか?それとも、そのいずれでもない「ある」ものだと思うか?そう思う根拠はなにか?
3)死後の世界というものは、人類共通に、同じように理解されているか?
4)イスラム過激派が自爆テロを彼らが敢行するとき、どういう死後観をもっていると思うか?

 さて、死後の世界については、日本人の大半は、死んだらお寺でお葬式を考えますね。キリスト教の方は教会でされるでしょう。神道の葬儀は葬礼の祭事です。
 世界の三大宗教ということがよく言われます。仏教、キリスト教、イスラム教です。じつは、これらは創唱宗教といい、佛教なら、仏陀、キリスト教ならイエス・キリスト、イスラム教なら預言者ムハンマド、が最初に教えを説いたので、創唱宗教といいます。
 「風土論」というのがあります。昭和期の日本の倫理思想史学者であった和辻哲郎の風土論が特に著名です。和辻は、三大宗教の特質はそれぞれが発生した土地の風土と深い関係がある、と指摘しています。
 どういうことかというと、森林の宗教であるインドのバラモン教とヨーガ行の土台から、魂の輪廻転生をあたりまえの自然なこととして、仏教の教えは説かれた。アラビア砂漠の、水のない作物の育たない土地で生まれたイスラム教は、輪廻転生をまったく説かず、砂漠は死の世界であるが満天の星空のかなたに宇宙を創造し完全に意図的に動かされる創造神アラーがおられて、信徒は死後は天国に生まれるが、信仰なきものはすべて地獄に落ちる。
 イエスはヨルダン川で聖霊により、天の神は「父」である、と悟った。ガリラヤ湖やその近くのレバノンには、森林や畑があるけれども砂漠の荒地と接していて、羊や豚の放牧がされているので、森林の宗教と砂漠の宗教の合わさった部分がある、といわれていたと記憶しています。
 和辻の理解を敷衍すると、それぞれの宗教における死後の世界観は、その教えが説かれた風土と、そこに住む民衆の風土に密着した信念体系に「合わせて」説かれたという意味です。
 つまり、風土によって、死後の世界は全然違ってくる、ということになります。
 私は、この説に同意していますが、条件付で、です。
それは、死後の世界についての、仏陀とイエスとムハンマドの教えの違いと共通点は、教えを説くという場面では風土論が有効ですが、それぞれの神秘体験は風土とは関係ない、ということなのです。ですから、その教えのすべてを風土に還元できないのです。
 では、それぞれの創始者の体験はどういう特質があって、何が共通し、何が異なるのか、という問題になります。これは大変難しい問題なのです。
どう難しいのかというと、それぞれの教えは、「宇宙から」啓示されて開始しているからで、決して地上的なものではないからです。
 言い方を変えば、星の世界から降りてきた、といえます。その点は、3つの宗教の共通点です。仏陀は誕生する前には、トソツ天にて待機されて、それからインドの釈迦族に生まれました。トソツ天はほかにも、大乗仏教の唯識派をたてたアサンガが、ここにおられるマイトレーヤすなわち弥勒菩薩から教えを啓示されて唯識論を始めた、とのことです。天というのは、インドの宇宙論では、宇宙の中心にシュメールという山があって、その頂より積みあがっています。いくつも、より高い天があって、より非物質的な形のない世界となり、それは存在の階梯を上にあがるということを神話的に表すものです。
 インドは古代において、メソポタミアのシュメール文明やエジプトの古代文明と交流があって、インド占星術も重要な知識でした。つまり、星の世界からの啓示があって、その導きで仏陀は悟りの機縁を実現され、アサンガもそうやって悟りを得たわけです。
 仏教とキリスト教をつなぐ体験のひとつが、阿弥陀仏への信仰です。西方浄土という言葉を聞いたことがあると思います。インドからみて、西方とは、中東です。阿弥陀仏は研究によると、古代イラン、つまりペルシャの光の神に比定できるといわれ、古代キリスト教以前のローマの中で信仰されていたミトラス教とも通ずるといわれます。また、人によってはエジプトの王アメンホテップのような「アメン」という神格とも通じるといわれます。阿弥陀仏は、夕日が沈む山間に描かれるという図象学的な理由で、アフガニスタンで成立したもの、という説もあります。
 阿弥陀仏は、とりわけ死後の魂の行方と深い関係があり、禅でも密教でももちろん、インドやチベットなどの昔から信仰されてきました。
 つまり、風土では説明できない共通点があるのです。
 ムハンマドは、イスラエルにある、エルサレムの丘から夜、馬で天界に昇天したことがある、という言い伝えがあって、それで今ユダヤ教徒と聖地の管理についてもめているのです。
 
 ちがいについて。日本人が「霊界」というと、地上的な、あの世、という、あまりこの世と違わないものをほぼ共通にもっています。よく地縛霊だとか、お化けだとか、幽霊の話がでます、特に「霊安室で見た」などということも実際あるようです。例えばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「怪談」はとてもよく日本人の昔のあの世についての信念と解釈を伝えていますので、「日本の心」とか「日本の面影」とか一度お読みになってください。特に怪談「牡丹灯籠」は傑作だと思います。明治時代までの日本人の死後観と輪廻転生への確信が描かれています。
 ですが、これは日本人の信念体系が、中東のそれといかに違うか、を感じさせてもいるのです。

 長くなりますので、これからは端折っていきます。
つまり、どの国の場合も、伝統的に受け入れられてきた死後の世界観があり、無意識にそれを受け入れ、そういうものだと確信しています。それゆえに、そのような場に魂は落ち着くのです。ただし、人により、生前の行き方や何を価値ありとし、何を無視したかは全部ことなります。それで、行く先は、全部違うように見えますが、実はそうではない、ようです。所属することになるグループはいくつかあるのです。自分がこれからどのグループに所属するかは、死後に光の存在たちが向こうからやってこられて、選別されるのです。各自、どう生きたか、によって相応のグループに配置されるようです。
 では、それはどうしてわかるのか。
例えば、柳田国男の「遠野物語」を読んでください。こういう箇所があります。
臨死体験で、魂が体を離れた息子は、まもなくすでに死んだ親父に会いお寺に行きます、でもまだ死期が来てない、といわれ(誰に、どう言われたのか、は書かれてなかったと思うのですが)戻ってきた、というわけです。
 こういう臨死体験は30年くらい前は、キュブラー・ロスなどのアメリカやヨーロッパの精神科医が大掛かりに研究していて、いくつも読んだ記憶があります。
 ところが、その内容が、あまり整理できていないのです。現代のアメリカやヨーロッパの人たちは、信仰はあっても昔のようにくっきりとしたものではないようです。それでかもしれませんが、死んだとき、道を行くと、川もしくは門に行き当たり、そこで、「白く光る存在が」(昔なら、天使というべきなのに、現代ではそうは表現していません)戻るように、というので、向こうはお花畑がきれいで是非行きたかったけれど戻ってきた、という体験報告をいくつも報告しています。
 よくにていますが、もっと宗教色の強い臨死体験の報告として、「往生要集」を書いた源信の臨死体験は阿弥陀信仰と深く関わります。一方、ロシア正教の19世紀末期の神父が書いた、ある信徒が経験した臨死体験によると、これはきわめてキリスト教の教えの伝統と一致していて、死後「2人の」天使が迎えにきたこと、空中を登っていくと、パウロのエフェソ書に描かれている、空中の悪魔が関所を作っていて、そこで犯した罪の一番目、たとえば、窃盗とか、殺人とか、を問われ、もし犯していたとすると、地獄に突き落とされていくのが見えた、という報告です。
 つまり、人間は培ってきた信念体系からあまり自由になれないのです。自由になるためには、瞑想などの修行をして目覚めることしかないようです。目覚めない場合は、光の存在に導かれてもっと上に昇天せず、たとえば「煉獄」のような、あるいは、祖先たちのグループのようなところに落ち着くようです。地獄からの臨死体験は、私はしりません。新興宗教の中にはそういうこともあるというかもしれませんが、信用できるものかどうかは分かりません。
 
 
イスラム過激派の自爆テロについては、私の理解では、その淵源は13世紀にモンゴル軍によって滅ぼされるまで猛威をふるった、イランのイスマイール派の暗殺にあり、ハッシーシという阿片を与えて「天国」を味あわせ、暗殺を決行したら「天国」を保証されると言ったこの暗殺教団が始まりだと思いますが、これで終わりにいたします。
 


死後について その1

2016年04月24日 | 日記

2016年4月24日 死んだらどうなるのか

皆さんは「終活」について、患者さんとかご家族から聞かれたことありませんか。
最近、またどうして「終活」なんてことに世の中の高齢者の意識が向かうのか、よくわからないところがあります。いくらか、ビジネストークに乗せられて、早くお墓の準備しなくちゃ、こんなお葬式に誰それが来てくれて、こんなセレモニーでこんなお料理で、着付けとお花はこれこれで・・・
うーん、これって馬鹿馬鹿しいと思いませんか。とはいえ、お考えになっている方にとってはとても真剣な話でしょう。お布施がいくらかかるかもしれないから、家族のために予め負担がないようにしておこう、という親心かもしれません。
 そう、それはやはり真剣に問うべき問題ではあります。ですが、その前に、「あなた自身は死んだらどうなると思っていらっしゃるの?」
 それがはっきりしないうちに、終活をかんがえるということは、大体において、「自分は家のお寺か教会のしきたりにはなんの不満もございません、ご先祖様のお墓にはいるだけです」、という方か、「いや、死んだらなにも残らないから、自然葬にして海にでも流して欲しい」、という方か、このいずれかではないでしょうか。まさか、自分のミエを張りたいばっかりに、ということはないと思うのですが。
 
 今回のような大きな災害で急死されたような場合を含めて、死んだらどうなるか、については考えることもおありかと思います。
 残念ながら、私は皆様にご披露できるような確固とした理解をもってはいません。ですが、たぶん、私はこの分野、つまり死生学(タナトロギー)については一応の研究者ではあります。
 結論をここでいうのは荒っぽすぎます。それを重々承知の上で、先に言っておきます。
私が今もっている理解は、死んだら、死ぬ前に確信したようになる世界に行く、というものです。
自由意思の問題なのです。自分以外の外にある原理によって、定まった死後の世界がある、というのは人間の意識がまだ未熟で個我が今のように育っていない古代や中世の時代には、現世の外に来世が独立にあって、この世の行いを審判官が測って、その後の行き先を決める、と固く信じられてきました。
 近代になって、公に唯物論が科学的と考えられてからは、それまでのような死後のありかたは「ない」と、これまた正反対の見解が優勢となり、現在もだいたいは唯物論的といえます。
 ですが、「ない」というのは、この世界には精神的なものなどなくて、感覚的なものと、科学が推定できるもののみである、というこれもひとつの宗教的といえる確信にすぎません。
 しかし、これも「確信」でありますから、そのような意見の方は、そのようになる世界に行かれる、というのが私の見解です。
 ある意味で、死んだら感覚器官が働かないので、なにも見ず聞かず眠るということもなく、ただ消えうせる、ということなのでしょうか。
 しかし、ここだけはどうもそういうことにはならないようです。心が消え失せるということだけはありえないのです。
 それは、エネルギーの法則ともいえるかもしれません。その方は、そういう見解をもつ持たないにかかわらず、生きていたときには、飲食して、論議して、動き回りました。いっぱい心を働かせました。それはその結果を周りに生み出しました。その反射がそのご本人にすべて集まっています。他人を殴ったら、自分のこぶしが痛いです。ロボットに殺人をさせたら、それを企画した、準備した、実行した関係者すべてがその結果の責めを負います。それはほとんど静めることなどできない激しい波動を生み出していて、それが、自分が死んだらもう「ない」ということができないのです。
都合よく、因果を逃れたいと思ったって、そうは問屋がおろしません。
 つまり、死ぬ前に確信していたように死後に残るもの、影響、があるのです。
それは、自分以外のものに肩代わりさせられるものではありません、自分が生み出したものなのです、大切にそれを思うのが誠意というものです。
それを「天国」とよんでもいいし「地獄」とよんでもいいし「煉獄」とよんでもいいのですが、なくなりはしません。 
 こういうことをもっとも文学的に真摯に描いたのがイタリアのダンテという人です。『神曲』というのを耳にされたことはあるでしょう、ただ私はどちらかといえば仏教徒に近いので、神曲の通りだ、とは思いませんが。
 ただ、それではあまりに救いがなさすぎる。地獄に落ちたらおちっきり、とはならないのです。
 そこをいろいろな教えの中には、脅して悪用した過去もあったのですが、今はもうそんなことを言ったら、かえって社会的糾弾を受けるでしょうし、実際のところ、死後の世界は、もし確信的に「救いなどない」とか「なにもない」とか確信しなければ、愛と光と救いでいっぱいなようです。安心してください。○×教徒でなければ、救われない、と信じられたのは、もう過去のことです。
 その救い手はだれなのか、どういう存在たちなのか、については、また別の機会にいたしましょう。


深呼吸

2016年04月22日 | 日記

今夜は満月です。
見上げてください、月の光はあなたに不思議をもたらします。よいことがきっと起きる、と楽しんでいる自分であってください。

私は皆さんよりは長く生きていると思うので(あたりまえじゃないか、「あたしのほうが断然年下よ!という反発の声が聞こえてきそうですが)、私の「長く生きている」ということの定義を聞いてください。
 私が思うのは、「生きている」というのは、「(今の年齢)マイナス(眠っている時間)マイナス(ぼんやりと訳もわからぬまま漂っている時間)」の意味です。
だとすると、ひょっとしたら、皆さんと私の「生きている時間」は、うんと離れているかもしれないし、逆に私のほうが若かったりして。

 そういう意味で「生きている」ということで何が気づくかについて考えてみたいと思います。絶対に押さえておかなければならないことは何か。
それは、眠っている間も呼吸していたということです。
心配でたまらなくて、何をどうしたらいいのかわからないときでさえ、呼吸していた、ということです。
 あなたが自分の意思でそうできたのでしょうか?
できるひとを私はかって見たことがあります。映画とかではなくて、実際にその方の傍をすりぬけたことがあります。その方は、インドのグルのグルと呼ばれた当時94歳!で、かくしゃくとして階段を降りてこられましたが、瞑想して自分の呼吸と心臓の心拍を完全に止める実験に参加され、数秒間心電図、血脈計、等がレベルがゼロであったり振幅などの動きをなくしました。2回もされました。
 こういう特別な方なら、自分の意思で呼吸を続けられます。しかし私たちは「息」をさせられているのです、それを「生かされている」といいます。
 
私たちは、生きていることに感謝しましょう。また、家族が、友人が、地域の人が、職場の同僚が、そして患者さん、利用者さん、そのご家族が、あなたのペットが、生きていることに感謝しましょう。(ペットを先頭にもってきたい方はご自由に。)
 すると、そこに「義務」があることに気づきます。感謝なくての義務、というのは強制にすぎません。その場合、残るのは「権利」の意識だけです。
ですが、「権利」と「義務」のバランスが著しく崩れたとき、燃え尽きた気がしてくるのです。
これを是正するには、一人静かに座って、意識的に深呼吸を3回することです。
へそのところ、丹田(たんでん)で呼吸するといいます。気持ちが落ち着いたら普通に呼吸すればいいです。そうしたら、いい知恵が浮かんでくるでしょう。


簡単なご挨拶 2016年4月18日

2016年04月18日 | 日記

ブログを再開する理由は、皆様とシェアしたいことがいくつか重なったからです。

今回の熊本地震は大きな出来事ですが、地球的な変動が最近加速してきています。

それらは、あまり気付かれないかもしれません。ですが、表面的、日常的な意識、つまり普段の感情とか気付きとか、

葛藤とか、その他もろもろの、あまり変化のないように見える意識のすべての奥で、とても大きな転換が始まってすでに

相当経っているようです。

その証拠に、これまで固く秘密にされてきたような、金融の秘密情報、とくにタックスヘブンと呼ばれる租税回避地パナマから

情報が大量に明るみにでてきたこともそのひとつ。

アメリカ大統領選挙が今年11月にありますが、候補者それぞれの特徴あるキャラクターもさることながら、

これまでほとんど表面に出てこなかった、アメリカ一般市民の本音と感情を如実に知る機会となり、日本のこれからの

生活にもきっと大きな影響となるでしょう。

中国経済の落ち込みがあんまり穏やかではないだろう、という認識は中国以外の主だった経済学、金融スペシャリストにとってもう共通認識です。

朝鮮半島の混乱はひきつづき、日本にあれこれと影響するでしょう。

昨年は、気候の変動といいますか、エル・ニーニョ現象による世界中の異常気象、そしてシリアから欧州への膨大な

難民、フランスでのテロ事件、そしてことしはベルギーで起こり、たぶん、まだ起こりうるでしょう。

ブラジルはオリンピックを目前に、大変な苦労をしています、昨年から始まったジカ熱。ことしから、日本でデング熱と並んでこわい存在となるでしょう。

女性大統領のジウマ氏が窮地にたたされています、国民の不満が、とくに汚職とそのもみ消しへの怒りが激しいからです。

それらの強烈なエネルギーの変化を、日本でも感じるはずです、なぜなら、世界は一つだからです。

感じようとしなくてもいいのです、というのはもうそれは私たちをすでに巻き込んでいるからです。

 ですが、今一番大切なことは、「普通のまま」「普段どおり」でいるということです。耳をふさいで、知らないふりをすればいい、というわけにはいきません。いずれ、どこかで話題になり、急に不安に襲われることでしょう、とくに、愛するご家族がそれにすこしでも

関わるようになったならば。

そこで、こんな激動の時代でも「平静」でありたい皆さんへの、思いつくままの情報提供をしようと思います。

直接の動機は、川崎の有料老人ホームで起きた3人の方々の変死事件です。犯人の救命士は「介護に疲れた」という趣旨の供述をしたそうです。燃え尽き症候群の可能性も一部にあります。

燃え尽きの可能性、これはだれにでも、多少はあるものです。大きくならないうちに、なんとかしましょう。

徒然草のように、あまり方向性もなく、まとまらないかもしれませんが、できるだけ面白くなるように心がけてみますのでどうぞよろしく。

 

 

 

 


帰ってきた天狼星児

2016年04月17日 | 日記

長い間、ブログから遠ざかっていました。

長い遍歴が終わって、再開することにいたします。

とくに、ことしになって、介護福祉の分野でのいくつかの事件や問題が浮かび上がってきました。

その共通するところを考えながら、よりよい状況が生み出されますよう。

熊本の大地震で被災された方々、救助や救護に今当たられている皆さんへ

思いを寄せながら。

2016年4月17日