昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

2011年02月25日 | 日記

2011年2月28日

 

 今日28日は2月のつごもり。明日からは春だ。雪の季節は今日をもって終わりを告げる。3月にも雪は降るだろうか。

 雪を可憐とか美ととらえることができるし、それは一番たのしい。子供のころは冬は雪が東京近郊の街中でもよく降ってつもった。こごえる手をおおう手袋に雪片が輝いて、虫眼鏡でみると、実に均整のとれた美がそこにある。だから、雪子さんとか、伝説や童話の雪ん子とか、それを聞くと白雪姫のような北国の美女が連想される。でも、雪の美には妖しさもあるのだ。小泉八雲や小川未明の童話などにでてくる雪の精は、人の命を奪う。ゲルダからカイを奪い去ったアンデルセンの「雪の女王」を思い出さないわけにはいかない。自然を愛し、雪山にあこがれる登山家たち。雪山は彼らを必ずしも生還させるとは限らない。どんなに用心しても、雪庇が突然崩れてなだれとなり、あっという間に亡くなってしまう。

 私は北国、雪国の生活を知らない、だから山田耕作の曲「雪の降る町を」などを耳にして、なんと心にしみる歌だろうと思った。そこで生活している人々にとっては難儀なことだろうが。それでも、地理に興味があったので、雪にまつわる風土や文化には関心がある。大学生になったばかりのころ、英語の授業で “Wandering  Through Winter” by Edwin Way Teale を読まされた。ほかの教科書はとっくに処分してしまったが、これだけはずっと手元においておいた。ティールというひとは、今風にいえばアウトドアライフの魅力を伝えた人で、文学上のジャンルは nature writing というふうになっている。北アメリカの四季を、ずっと奥さんと一緒に旅しながら、自然の写真を撮り、それにエッセイを書き加えて、かなり著名な作家だった。彼が活躍したのは1945年だから、もう65年も前のことだが、そのころのアメリカは多分もっとも輝いていたのだろう。

 この本の7章は、雪片の国というタイトルがついている。場所はニューヨーク州から雪原広がるヴァーモント州にかかる地域。そこで雪の博物学者というべきベントレイという人の記念館を訪れるのだが、そこでティールはこんな引用をしている。”Hast thou entered into the treasures of the snow?”

 これは、ユダヤの聖書(旧約聖書とキリスト教徒はいうが)の、ヨブ記の一節である。神が義人ヨブにつむじ風のなかから呼びかけられたのだ、「そなたは雪の倉に入ったことがあるか?」

Treasure はもともとは「倉」だそうだ。倉に納めるようなものは何であれ宝物だろう。このヨブ記というのは、ユダヤの聖書の中でも難解なことで有名なものだ。おびただしいくらいの宗教家、神学者、哲学者、心理学者、文筆家、たちの本がある。皆、このヨブ記から大変感銘を受け、それぞれの視点からコメントをしているので、自分もそうしてみよう。しかし、ヨブ記なるものを読んだことも、いや聞いたのも初めてという方もあろう。これをわかりやすく簡単に説明せよ、といわれてもそれはできない。だから、ただ感じ取ってみてほしい、以下に書く言葉の向こう側にあるひとつの光景を。

 このヨブ記は作者も成立年代もまったく不明である。ただ、内村鑑三の系譜、無教会派の旧約学者で関根正雄はこう言っている。「救済史の外に立つヨブという個人の苦難が主題であることからも(イスラエル・ユダの)王国以後の作であり、より具体的には前五~三世紀をその成立時期として考えさせる。「序曲」の敵対者(サーターン)もいわゆるゼカリア書に出てくるものに応じ(中略)成立の場所については・・パレスチナだろう」

 同じことをもう少しふくらませていうなら、今パレスチナ、古代ユダヤ人はカナンの地と呼んだ地域は、紀元前8世紀アッシリアがイスラエル王国を滅ぼし、さらに前5世紀、新バビロニアがユダ王国を滅ぼした。王国の滅亡は、ユダヤ預言者たちによれば神の怒りによるものであった。すなわち、神ヤハウェはアブラハムの子孫を特に選び出して神の民とされ、ヤハウェのみを唯一の真の神として民がつき従うなら末代までパレスチナで繁栄させよう、そういう契約を神はイスラエルの先祖と結ばれた。これがイスラエルという民族の起源である。ところが、ユダヤ民族は王国を求め、異文化と交わってヤハウェ神をないがしろにする生活習慣を築いた。これをさまざまないわゆる預言者といわれる徹底した原理主義者が、このままではイスラエルは滅びると予言した。マックス・ウェーバーというドイツの社会学者が『古代ユダヤ教』という大著を残している。彼の分析では、預言者は社会学的には、政治的扇動者とみなされる。預言者のなかでもイザヤ(イザヤ書には第二イザヤという別人格も混じっている)は王の助言者であった。エレミアも同様である。王たちは預言を半ば信じ、しかし半ばこの世的な外交や戦術での打開に頼ろうとし、この神に全託しない姿勢こそが預言者たちがさらに厳しく糾弾する原因となった。王はそう簡単に、理性では判断できないような神の指示にすぐに全面的に従うことができなかったのだ。結局、イスラエルもユダも滅び去った。

 その後、ユダヤ人の支配階層は「バビロンの捕囚」といってイラク方面に連れ去られ、その後帰還して神殿再建の道を歩んだのだが、ヨブ記はこの期間にできたのだろう、と関根はいう。

 ユダヤ人の問題意識には、神の真意がわからない、神の義は不条理すぎる、という思いがあるのかもしれない。私はヨブ記の作者は特にそういう問題意識をもっていたのではないかと思う。たとえば、関根は「「序曲」の敵対者(サーターン)もいわゆるゼカリア書に出てくるものに応じ」という。序曲を読んでみればわかるが、サーターンは天界にいて、神の特命を帯びてヨブを試みるのである。ヨブ記とは、神の不条理へのヨブの悲痛な抗議の書なのだ。しかしヨブはあくまで神への忠誠心を失わなかった。ただ、ヨブが何故試みられなければならなかったのか、それは神へのヨブの期待、神は義であり義以外のものであるはずがない、という期待の根がどれほど確かなものか、これを試みられたのだ。問題は、神は不条理だ、と感ずることは、われわれからみればむしろあたりまえで、それでもまだ信じるというほうがよっぽどおかしい、と思える点にある。本当に、神は義なのだろうか、それとも悪魔をも使いにする邪なのだろうか。ここが問題なのだ。

 ヨブの友人たちは、ヨブは義人であるというのはごまかしだ、といったり、ヨブには隠された不幸の原因になるものがあって、それに気づかない愚か者なのだ、という、厳しい批判を投げつけてきた。ヨブはそれにも抗弁する。そして、最後に、神ご自身がつむじ風の中から、直接ヨブに答えられる、というのがヨブ記の結末である。さきほどの、「そなたは雪の倉に入ったことがあるか?」は神ご自身が初めて直接ヨブという被造物に憐れみをかけられ、問いに応えられるという異例中の異例の事態なのだ。

 わたしの理解をいおう。ヨブ記は、神の摂理は、因縁因果という仏教の教えをも超え、絶対からみれば善も悪もない、そこに気づいていわばきわめて高い天使のように、無尽蔵で無条件の愛の中に入れ、とヨブに促されたように思われる。

 ヨブ記には、イエスの福音にあるような愛の神について説くところはない。しかし、神はヨブに直接お答えになるために、つむじ風という物質的次元にまで神が自らを限定され、いわば低い次元に降下されたのである。そのこと自体が「愛」ではなかろうか。インドのヴェーダーンタ哲学にも、神の愛を説く思想がある。絶対が自己限定される、という理解なのだが、いってみれば絶対者が混迷する魂の救済のために絶対の自己を死んで、相対の中に限定的に多神的に現れ給う、ということで、それは神が愛のために自らを死なれたようなものである。ただ、それを神の痛みとするか、神の遊戯とするか、そこはよくわからない。

 ヨブ記はもうひとつ、見落とせない謎が書かれていて、それがこれからの地球が宇宙と精神的なコンタクトをもち、天使的宇宙人と交流する上で意味があると思われる箇所がある。それは、神がこうヨブにいわれるところである。「君はプレアデスの鎖を結びオリオンの結びを解きうるか。」

 前に書いたように、プレアデスとオリオンはそれぞれ宇宙文明である。なぜ、こんな古い書に、こともあろうにプレアデスとオリオンがあるのか。ヨブ記の記者とはいったい何者なのだろうか。

 


言霊―4

2011年02月18日 | 日記

2011年2月21日

言霊―4

 

 心理的に厳しい一週間だった。この一週間のことはいつの日か慰められ和らげられて心の痛みが癒されるのかもしれないが、まだ先のことだ。急激な認知症の症状を呈して一刻も猶予なくなって母親を、前々から予定していたとはいえ予定を急遽くりあげて、相談していた介護施設に預けなければならなかった。タイミングがすべてだ、そう確信して連れて行った。なぜか、親のほうも自分が今いる家をでて、どこかへ「帰る」と納得していた。「どこか」がどこかはわからないが、出かけることは承知してくれて、それでタクシーに乗ることができた。一日遅れたら、もう収拾がつかないと確信した。実際、その翌日に雪が降った。

 もちろん、そのあとが大変だったがそれでも介護施設のほうは専門家なので対処してくれて、数日がすぎている。まだまだ予断を許さないが。

 こんなときでも、絶対大丈夫だ、と心の奥は落ち着いている。ひとつには、この2ヶ月、欠かさずやった「あいうえお言霊修行」を実践していたことも大きい。

『あいうえお言霊修行』(ビジネス社 刊)という本がある。佐賀県立病院好生館外科医局長をされていた、矢山俊彦さんの著書だ。矢山先生は真言密教への深い理解がおありだ。それでこのような本を書かれたのだろう。真言密教では「真言」つまり「マントラ」が修行というより、それ自体が仏と自己とを結合させ一体とさせる媒介なのだ。真言を唱えること、その時そこに仏が信仰者自らにおいて顕現される。

 もし、仏教徒でなくても森羅万象を生み育て給う大生命に気づいた人であれば、別に密教教義で定まった真言でなければならない、ということはない。実際、真言そのものはもっとも根源的なものはといえば、前にも書いたように、ただ「オーム」なのだ。ひたすら、「オーム」と唱え続ければ、それで立派に真言を唱えているのだ。

 でも、それではものたらない、という人のために、いろいろな真言はある。

それはともかく、『あいうえお言霊修行』の真言はとても使いやすいし、習得しやすい。あっけないほど簡単なのだ。ただ、やりぬく決意はいる。

唱える真言とは、これだけだ。

「あ」  ありがたい

「い」  いつくしむ

「う」  うれしく

「え」  エンジョイ

「お」  おおらか

 

と、これだけだ。これを、「ありがたい、いつくしむ、うれしく、エンジョイ、おおらか、ついている」とくちずさむ(心の中でもOK)。

それを、まず、千回唱えるのだ。

千回いったら、一万回、唱える。それでめでたく、「達人」だ。

 でも、やってみると、結構始めは気が乗らない。一日、20回、それが数日は続いた。いやいやながら、無理やりやっているのだ。よさそうだ、とは思うけれど、そう簡単には気が乗っていかない。それに、回数のカウントも面倒だ。100円ショップで通行人の数を調べるのに使うカウンターを用意するのがよい、とあったので買った。しかし、こんなものを始終もっているわけにいかない。結局、指折りして数えて、唱えた回数を記録して、翌日に、前日やった回数に加えて、というやりかたで2週間くらい模索した。そのうち、唱える回数が一日100回から200回はいくようになった。道を歩きながら、電車に乗りながらのことで1万回やるのに、2ヶ月かけた。

 それが終わったとたん、母親の症状が急激にきつくなった。目に見えない力が、私が1万回唱え終わるまで母親の症状を抑えてくれたのかもしれない。


言霊―3

2011年02月11日 | 日記

2011年2月14日

言霊―3

 

 紫式部の『源氏物語』を高校の古文の授業で勉強した(させられた?)かもしれない。古典語の勉強は苦手だ。内容は面白い、でも現代語に訳すと、なにか物足りない。やっぱり、古語で読めたほうがいい、そう思ってもその暇がない。

 とにかく、面白かったところは、「方違え」(かたたがえ)という一種の技だ。これについてはご存じなければ専門的な本で調べてほしい。ともかく、「方違え」は陰陽道(おんみょうどう)で使われるなんと説明したらよいのかわからないが、方術という技法である。遁甲という技法もその中のひとつである。三国志の諸葛孔明が使った兵法だとかいわれるが、実際どれほどの効果があるのかわからない。興味のあるひとは、京都の清明神社を参拝してみると、五芒星の紋の絵馬を売っている。五行(木、火、土、金、水)の五つの色で塗り分けられている。安倍清明という人物は、一時、陰陽道ブームのときテレビドラマになってSMAPの俳優が演じていたからご存知の方もあろう。

 一種の中国魔術である陰陽道で、いろいろな技術があるが古くから宮廷で踏襲されてきて、明治維新まで、土御門家がいろいろな式事を執り行っていた。土御門家は天文観測も行って、彗星の動きなどの吉凶を帝に奏上していた。巷でも清明に名を借りた占いが江戸時代にはおおはやりで、なんでもかんでも「清明」云々といえば庶民に人気があったらしい。辻占いというのも安倍清明に由来するというが、ほんとうはもっと全然古い昔からあるのだろう。辻占いというのは、何か占いたいことがあると、一人四辻にそっと立って、行き交う人の話に耳を傾ける。最初に耳に入った言葉で、占いの成否や吉凶を判断するそうである。

 ところで、このようなことで、どうして吉凶を占えるのだろうか。辻占いにも、辻立ちする時間帯があったかもしれない。それは「逢う魔が時」という、いわゆる黄昏時である。あるいは、時間に関係なく行えたかもしれない。よくはわからないが、多分時間帯があるのだろう。というのは、いわゆる名人である鍼灸師の説では、ある経絡の治療にはある時間にする、という記述があるからである。中国の、といっても人民中国の1980年代の中国医学の本でそう書いてあるので間違いないのだろう。

 つまり、人体や人間行動と、天体の動きや宇宙の気の流れとは切り離せない、シンクロナイズしているというのが基本的前提なのだ。そうだとすると、一晩中煌々と人工的光にあふれる現代都市中心部には「タソガレ」という時間帯がなくなってしまっている、だからもしこの説によるなら、残念ながら都会では辻占いはできない。とはいっても、月の運行と、精神状態とか都会の交通事故の頻度とかの奇妙な相関関係がアメリカの統計学者の間で論議されるくらいだから、案外まだ有効かもしれない。

 話を戻すと、人間存在は個人として自我と肉体をもつが、自分で自覚している以上に、周辺からの影響を受け、それは意識されずにしかも重大な影響を周囲から絶えず受けている、これに気づくことが重要だ。しかし、自覚なくして周辺に重大な影響を与えていることに気づくことがもっと重要だ。

 そうだとすると、「袖摺りあうも他生の縁」という諺の意味がみえてくる。通勤電車で隣り合わせになるのは偶然ではない。目に見えない因縁が作用して、あるいはガイドの導きによって、隣り合わせになる。思いがけない出会いから結婚したという話も聞いたことがあるし、またトラブルになって一生を台無しにすることもある。異業種勉強会などで、グループになった人との出会いと会話は決して安易に見過ごせない。聞くべきものは聞き、捨てるべきものは捨てる。辻占いはそれを極端に強調したものなのだろう。

 定期的に、環境を変えてみる、小旅行もしたりして気分を一新し、内省の時間をとりたい。そうすれば、気づかないうちに心のなかに袋小路をつくっていたのが、それを打開したり離脱することができるかもしれない。そのためにも、自分に対しても、人に対しても、明るい言葉がけをする、言霊法が大切である。具体的なやりかたを教えてくれる本を先日見つけて、実行してみた。よさそうなので、次回から紹介しようと思う。

 


言霊―2

2011年02月04日 | 日記

平成23年2月7日

言霊―2 

2月1日午前7時45分、九州の霧島連山の新燃岳が起こした爆発的噴火の映像は自然のすごさを感じさせた。そのとき「空振」が起きたというテロップが流れた。恥ずかしながら「からぶり ??」と読んでしまった。別に宮崎の野球キャンプに関心があるわけではないが、正しくは「くうしん」というらしい。7キロ先の老人ホームの厚さ1センチのガラス窓が割れて、お年寄りが怪我されたという。振動はそれ自体エネルギーをもっていることがよくわかる。音の振動にせよ、水中の振動にせよ、地中の振動にせよ、エネルギーが振動して想像を絶する作用をする。

 振動は自然界にあるだけではない。むしろそれ以上に、広範囲に生活経済や政治社会における「空気」の振動の影響は大きい。思想や言論という「空気」が読めない政治家の末路が哀しい。

インターネット上の情報交換が初めて本格的に主権国家による情報操作や統制を踏み越える世の中になってきた。ツイッターとかフェイスブック、携帯電話のメールなどの方法で、民衆の自然発生的なしかも政治的な意思を明確にしたデモや集会が今世界を動かしている。つい最近のチュニジアとエジプトでの反政府運動の発生とその急激な広がりについて、今後どのような動きになるのか予見は難しい。今回のチュニジア、エジプトのインターネットのつぶやきは国家によるやらせとは全く性格がことなる。

 うわさとか、落書き、流言はしばしば古代国家の命運を分けた。過去の場合、名もなき民衆の声は、流言蜚語(りゅうげんひご)とさげすまれ、信頼性に欠けるという風に言われ続けてきた。たしかに、関東大震災のときにはあったように、しばしば根も葉もないデマであることが多い。しかし、砂金と同様に、砂に混じって金塊が光っている場合がある。だからこそ、為政者たちは決してちまたに流れるうわさや落書きを見落とさなかった。日本の場合の実例は、古くは崇神天皇記にある。崇神天皇という方は、それまで皇室に留められていた御神鏡を伊勢にお移しになられた。そして伊勢神宮が建立されたのであるが、この天皇にも政敵はいた。崇神天皇は真の意味で、太平の世をもたらすために「マツリ」による「ヤワラギ ムツビ」を実現された「スメラミコト」であったのかもしれない。それにもかかわらず暗殺がもくろまれた。民衆はそれを憂い、なにかうわさをしあったらしい。それが天皇の耳に届き、事前に陰謀が察知されたという記事が古事記にある。

 中世、平安京の治安を担当していたのが検非違使(けびいし)といわれる警察組織だった。検非違使は落書きや流言を綿密に調査して収集し、治安対策につかっていた。

 幕末の「ええじゃないか」踊りも民衆の中から噴出した政治的意思表明であった。「ええやないか、ええやないか、ええやないか。ええやないか、ええやないか、ええやないか。世の中かわってええやないか」

こう踊りながら伊勢参りに熱狂した人々の群れが、維新の原動力になった。このような自然発生的な群集心理を研究する分野の学者の中には、無意識的に集まる群衆の集合意識に核ができるという。たとえば、フランス革命における一般大衆の群集心理と行動についての、アンリ・ルフェーブルなどの研究にそれがみられる。このようなエネルギーがひとたび方向付けがなされると、歴史に残るような変動となる。「ええじゃないか」踊りにも、天狗の面をかぶった工作班がご神札や小銭をばらまいて人々の熱狂を煽ったという。どこまで確かなことかはわからないが。倒幕への方向付けがあったことは間違いないのだろうが、ただ民衆の集合意識がそれを受け入れ、発展させたということが重要なことである。NHKなどのマスメディアは歴史大河ドラマでこういう民衆のエネルギーの部分にほとんど決して触れようとしない。マスメディアは意図的にごく少数の幕末のエリートたち、それも勝ち組の薩長や土佐の動きにのみ話題や注目を絞る。新撰組についても、やはり一部のエリート集団である。昨年大きくとりあげられた坂本竜馬も、日本の巨大総合商社にとっては星であるが格好よく描きすぎのようにも思える。むしろ草莽の臣というものは、下級士族を含めて郷士、庄屋レベルの農民、そして江戸や大阪で商う行商人、職人、井戸端の主婦達、かわら版屋、町医者や戯作作家、俳諧師、浮世絵師、大店の召使たち、貧乏浪人など、そういうひとびとの政治的意思表明が「ええじゃないか」踊りとなったのだが、そういう流れのことを広く知る機会を得ることは少ない。この大きな思想的うねりの背景にあったのは、決して水戸学などの漢学的な教養ではなく、むしろ国学の流れに求めなければならない。すなわち、本居宣長、平田篤胤、平田派神道家、あるいは本居家の「すずのや」派の神道家たちである。もちろんかれらには功績も失敗もあった。廃仏毀釈など、きわめて乱暴なものもあるが、そういうことを含めて現代のわれわれがNHKなどのドラマの範囲以上のものは「知らされない」ことは危険である。明治維新そのものが、薩長勢力の主導による急激な日本近代化、産業資本主義化、富国強兵一色に猛進することによって本来の「五箇条のご誓文」の趣旨からおおきくはずれ、「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」の「公論」を封じ込めて、自由な言論を弾圧してきた。宗教政策では神道を含めて国家による思想統制を進めていった。そして昭和の初めに金融恐慌が起きた。

今の情勢と似ていて、1929年のニューヨークの株式大暴落を基点に世界恐慌が起きた。列強はそれぞれ経済圏、つまり市場をブロックにわけ、イギリスならイギリスの連邦だけ優遇する政策で乗り切ろうとした。イギリスは自ら金本位制をやめてインフレによって景気回復を図った。しかし、日本の当時の大蔵大臣井上準之助は金本位に固執した結果、深刻なデフレを脱却できなかった。

当時、特に窮乏した東北、それは官軍と戦って薩長政権から疎外され冷遇された地域だったが、そこの貧農の多くはやむなく娘を遊女に売りに出した。公然と町の通りに広告がでたほどである。大資本、銀行、政権中枢の国家主義的利益のためには民衆の嘆きを省みない姿勢に、民間人が反撃した。左翼は非合法の共産党であり、右翼は血盟団を率いた井上日昭のような日蓮宗の人が多かった。とくに右翼暗殺団は、自らは破壊に徹する、と言った。その後の理想社会の建設は他に任せると。よほど展望がもてなかったのだ。血盟団は政党総裁でもあった井上準之助、三井財閥の要人団琢磨を射殺した。また国際協調を優先してロンドン海軍条約を締結したのは亡国的だと憤激する国粋主義化した刺客が、浜口雄幸首相を東京駅で至近距離から狙撃し重症を負わせた。血盟団のような暗殺活動を警察が黙認していたわけではない。特別高等警察は共産党弾圧で今日非難されているが、実は右翼の暗殺団の摘発にも力を注いで一部は未然に防いだ。しかし、軍部の青年将校たちの怒りは激しかった。たとえば妹や姉が売られたような家庭の兄や弟も徴兵されて兵隊となったり将校になった。将校たちは身売りせざるをえなかった家族を嘆く兵隊に共感した。そして軍備予算を削り、大資本におもねる政党政治に見切りをつけ、宇垣救国内閣を興そうと計ったりしたが、ついに犬養毅暗殺となる五一五事件を引き起こした。このような事態をどう評価すべきかは非常に難しい。ただ暴力的解決策は、さらなる混迷と不正と憎しみを生むだけである、それだけは確かだ。しばしば外国のマスメディアにみられるような復仇を唱える強硬な主張によってどんなに煽られるようなことがあろうとも、決して選択してはならないことだと思う。こういう事態を、古事記はオオマガツヒの神、ヤソマガツヒの神の荒び、という。

なぜ日本が昭和のはじめに満州事件を起こしたのか不明な点が多いが、あまりに明治維新以降の政権が外国との戦争に勝つために国家主義的組織的統制を強めすぎたことも原因のひとつではなかろうか。それが日本人の視野を極度に狭めてしまい、人権を尊ばず、資本主義の論理を楯に弱肉強食は真理だと思い込み、他を制圧することに価値をおいて和を捨てたことが、日本が第二次世界大戦に突入していった原因ではなかろうか。

 今、ほかの国々も同じ過ちに陥らないことを祈りたい。

さて、日本の場合、第二次世界大戦によってかっての体制は崩壊したが、私たち自身が「公論」をまじめに実行しないなら、つまりマスメディアが本来もっている情報操作の影を見過ごしたりして鵜呑みにして、本当の動きを読めないなら、為政者に都合のよい政策にのせられたままであろう。税制や産業政策、防衛政策、すべてが国民の目覚めがあるか否かで変わってくる。今、日米そして欧州の政府と中央銀行は、なりふりかまわずに会計原則を曲げるような禁じ手を顧みず、空売り規制を含めて平均株価をあげようと躍起になっている。だが、もし懸念されるようなドルの暴落に至れば、急激な円相場の変動に見舞われ、原油や大豆などの暴騰になり、物価は急騰し、インフレを抑えるために金利が急激に上がればローンを組んでいる家計や借り入れに依存している中小企業はいきづまる。社会保障にも重大な影響がでる。対米依存のこれまでの政治経済は終わりをつげざるをえないだろう。そうなったとき、今、自分がすべきことにしっかりと心を落ち着かせていられるかどうかが、各人の運命を分けるだろう。小さなことにみえるかもしれないが、やさしい言葉遣い、感謝と思いやりの行動と言葉は、その場を和ませるきわめて良い影響をもたらす。そういう気力を保てば、天が必ず味方する。

 エジプトの怒りは、そもそもアメリカ型市場経済に反対するムスリム同胞団をムバラク政権が押さえつけ、社会的不正の是正を求める公論を抑えつけ、失業と格差を解決できなかったことにある。過去を尋ねれば、ムバラクが副大統領だったころ、スエズ運河を国有化した英雄ナセル大統領の後継者サダト大統領がイスラム系暗殺団によって暗殺された。30年前のことである。それが原因のひとつとなって、強権的治安対策がとられた。しかも、この事件の背景には中東の複雑な情勢があるのでムバラクだけを責めるわけにいかないと思うが、ことここに至ってはなるようにしかならないだろう。ところで、イスラム社会の連帯意識と共済活動はイスラム圏に強くて、たとえばグラミン銀行の発案はバングラデシュから生まれている。こういう発想や意識への理解がわれわれ日本人にはすくなすぎる。エジプトの混乱が石油価格の高騰につながれば、やがては石油をめぐる死に物狂いの争いになりかねない。とはいっても原子力発電推進には核兵器をもとうという隠された意図があるようだから、石油がないから原子力にという誘導にも気をつけなければならない。こういう時代にあっては、日本人は自覚をもって眼を世界に向け、イスラムからも学ぶ心をもち、和を願う真心で世界に語りかけていくことが必要と思われるのです。