寝不足です、確実に。
昨夜は、パソコンの調子が悪くなったので、元に戻すのに深夜までかかり
ました。にもかかわらず、目が覚めた時刻は、午前5時半です。
もう少し早く醒めれば、「子供の情景」という映画放映間に合ったのに、
残念至極っ しかし、観ました・・・。
まあ、録画予約しなかった理由は、11月に2度、放映があるし、出来る
限り、<予約録画しておいて後に観る>は避けたいものですから。
ラベルにメモして、貼りましたわ。
いよいよ、ビデオも、これだけは・・・の200本余りは整理できました。
戦争の映画やドキュメンタリー、現代史、「兵器」、歴史ものの映画などな
どです。
わたしは、アクションやホラー、コメディ映画は今はもう観ませんね。だっ
て、残された私の時間や条件には、<限り>がありますでしょう? 他にも
しておきたいこと、やんなきゃいけないことがあると申しますか・・・。
まっ、いちばんのしごとというか<務め>は、母をきちんと見送ることだ
けれど、病院の主治医も「お母さんより、あんたの方が早く逝くで~!」と
厳しく、にんまり諭してくれはります。
二人の主治医、どちらのせんせいも私にとっては、お坊さまみたいな存在
で・・・。通院は寺詣でですわな。
次のしごとは<身辺整理>。
若いときにゃ、自殺、もちろん未遂だけれども、何回か経験?ありゆえ、
残して、誰かに見られて不味いものは一切<処分主義>です。日記の類や書
いた小説とか詩も焼いた・・・。
しかしながら、卒業論文のコピーや、その後の人生の中で、<公>にした
ものとその資料だけは、整理して残していますね。
商売関係の研究会の発表したヤツは、ほぼ処分? くだらないもん!
ただ、<もの>がやたらと多い・・・。ルーズで、忘れっぽい
から、例えば爪切り一つ挙げても、見つからなくて、つい買ってしまうとい
う次第でしたわ。
片づけをするとあっちからも、こっちからも<出現>が常でしたね。当然、
自己嫌悪っ!
しかし、いつの頃からか、整理棚やケースにラベルを貼る・・・を始めま
した。
≪物を捜さなくてもすむ方法≫です。今では、衣類の箪笥にもラベルで、
その結果として、物を捨てなくなり、ひたすらに溜まるに至ったぁ!
しかし、振り返ってみると、ほんとうに・・・。
メンタル疾患で病欠・休職するまでは、ほんとうに<多忙>でしたよ。
中途半端が出来ない。いつも、もっと、もっと!と、仕事(ほぼ授業)も目一杯、
準備してやりいの、ときには私的な活動や研究、韓国語の学習とかでも、熱
中してしまっていました。
けれども、強いられた<忙しさ>ではない。
自分がしたくないことは、けっこう頑固にサボタージュしましたよ。嫌なこ
とはしない。周りから、よく思われたいとかと同時に<うけねらい>もなくて
自分がしたいことでなければ・・・。
まあ、その犠牲といえば、犠牲が息子ですわ。母親らしいことは、
弁当作りを6年間、ほぼ毎日しただけね。
今でも、わたしは、みんなに育ててもらった・・・と、しみじみ考えていま
す。
ただし、乳児から幼児、小学四、五年生ぐらいまでは、丁寧にきっちりと
子どもに係わっておかないと後がたいへん
己の場合は、のんびりした田舎っぽい小学校も、低学年の今日だったことが
幸いしたと思われます。その後の中学校も伸びやかだった・・・。≪正規採用
2校目・3校目≫
学校の周りには、田圃や畑があり、小学校低学年担任のときは、この間まで
あった<総合>の授業を自分らで考え、親御さんたちに助けを求めて、特別な
ことではなく、ごく普通にやっていました。 <あの時代のことは個人通信に
書いているによって、パスッ!>
何よりも、そういう<時代>でしたね。
わたしが教員という職業とまったく関係のない某研究会などで活動をはじた
めのは、小学校の教師だった時期です。
1982年ごろかな?
子どもたちには当然として、同僚や親御さんたちとも、ごくふつうに、心を
開くことが出来た・・・。
いい授業がしたいという気持ちで、学年・パートで話し合い、協力し合っ
て、公開授業やクラスを交換しての授業も定期的に、しんどいけれども愉しみ
ながら・・・。
子どもの病気で学校を休まなければならないときも、「私もしんどい時期が
あった。」と労わってくれた先輩・同僚! 今でも顔と名前を覚えています。
自分のプライベートな活動をするようになっても、そんな話も出来て、校長
さんの中には、数日の休暇のはずを≪職免≫扱いといったとことも・・・。
その代わり、自発的に自分からすすんで、難しい仕事も引き受けました。
あの2つの学校のせんせいたちの顔は、笑顔のままで私の記憶に残って
いますが、しかし・・・。
私はうっかり、大阪市の異動希望を! 希望もしていないのに、試しに出した
ら、受かってしまった。
さて、今日の話題は、<忙しい>ですね。
いろいろとしなければならないことがあったとしても、気持ちにゆとりが生ま
れます。
強いられてのしごとは辛いが、みずから進んでやれて、やったことは、失敗し
たとしても、そこからの<学び>があります。
同じ目線で、心を開いてかかわりあっている場合、よい意味での<競い合い>
はあっても、相手より優位にたとうという<競い争い>にはならない。
私が<仲間>という感覚を実感して、「人間独りでないこともいいものだ」を
覚えたのはこの時期かなぁ!
「個」と「個」の信頼関係の友人はいても・・・。群れて、わいわいがやがや
・・・は、私にとっておぞましいこと?
一緒に<しごと>をするっていうのは、いいんですよ。それは肩を並べること
であり、目を見つめあい、心を開けっ放しにせずとも済ませられる・・・。
そうそう、忙しいの「忙」は、心を亡くすということやと語って下さったのは
東京の建築家のKさんです。
あの本はどこにあるのでしょう? 頂戴した本は捨てたりはしていません
から・・・。まっ、そのうち見つかるでしょう。
今日したこと。
①ビデオ整理 寝室から牛乳ケース4箱、リビングへ。30本ほど、
チェック、ラベル貼り。
②食事は2度で、きちんと作り、実家へも4品ほど持参。
③買い物2回、洗濯1回。掃除は掃除機だけ。椅子の修理。ちょっとだけ
裁縫?
④映画『ベンゴ』93分。思わず、踊ったぁ!
⑤ ひすちゃん 1時間40分。ドイツ、第一次大戦後から、
ナチス崩壊まで・・・。
⑥ 朝日ニュースター「学問のすすめⅡ」 めっちゃ、
面白っ! 声を出して、あっはっは!
A・ネグり&M・ハート『帝国』。もちろん読んで
はいませんよ。ただ、あの時期、周りに読んでいる人たちがいて、議論
を聞いてはいたけれど。わたしゃ、難しいすぎるし、ちょっと阿呆くさ
かった・・・。
⑦ 新書をちょっとだけ。読んだうちに入らないね。
ありました、ありました。1980年代の雑誌、「教育」特集を少しばかり物置?に出したので、戻しに行ったら、整理の未踏の本棚にありました。
内藤浩一さん。『流れのほとりで ー日付のない日記からー』。
頂戴したのは、〈’81-12-28〉
建築家にとって一番大切なのは、自分の仕事に対する誠実さ、情熱、それを育てる「責任」・「勇気」であり、大切にしたいのは「価値」ではないか、とわたしは考える。自分にとって「生きる」とは、書き、創り、考えるよりない。図面と文字と、そして旅と、この生活は一生涯続くだろう。「時」とは、わたし、刻まれた一つ一つの印象の中に映え、生きている。
本の背表紙の、最後の文章です。 今始めて、この方のキャリアを知った・・・。
この「会」は、自分の名刺を配るなんて、はしたないことする人は、初代会長の時代は紛れこんでこなかった。連絡が必要な場合とか、新聞記者とか、人との<コンタクト>を職業上、キープしたい人だけでしたね。
あの会も、著名人・有名人なお近づきない連中が集る、社交場のようだと感じてからは、嫌気がさし、飛び出したといいますかね。
昨夜は、パソコンの調子が悪くなったので、元に戻すのに深夜までかかり
ました。にもかかわらず、目が覚めた時刻は、午前5時半です。
もう少し早く醒めれば、「子供の情景」という映画放映間に合ったのに、
残念至極っ しかし、観ました・・・。
まあ、録画予約しなかった理由は、11月に2度、放映があるし、出来る
限り、<予約録画しておいて後に観る>は避けたいものですから。
ラベルにメモして、貼りましたわ。
いよいよ、ビデオも、これだけは・・・の200本余りは整理できました。
戦争の映画やドキュメンタリー、現代史、「兵器」、歴史ものの映画などな
どです。
わたしは、アクションやホラー、コメディ映画は今はもう観ませんね。だっ
て、残された私の時間や条件には、<限り>がありますでしょう? 他にも
しておきたいこと、やんなきゃいけないことがあると申しますか・・・。
まっ、いちばんのしごとというか<務め>は、母をきちんと見送ることだ
けれど、病院の主治医も「お母さんより、あんたの方が早く逝くで~!」と
厳しく、にんまり諭してくれはります。
二人の主治医、どちらのせんせいも私にとっては、お坊さまみたいな存在
で・・・。通院は寺詣でですわな。
次のしごとは<身辺整理>。
若いときにゃ、自殺、もちろん未遂だけれども、何回か経験?ありゆえ、
残して、誰かに見られて不味いものは一切<処分主義>です。日記の類や書
いた小説とか詩も焼いた・・・。
しかしながら、卒業論文のコピーや、その後の人生の中で、<公>にした
ものとその資料だけは、整理して残していますね。
商売関係の研究会の発表したヤツは、ほぼ処分? くだらないもん!
ただ、<もの>がやたらと多い・・・。ルーズで、忘れっぽい
から、例えば爪切り一つ挙げても、見つからなくて、つい買ってしまうとい
う次第でしたわ。
片づけをするとあっちからも、こっちからも<出現>が常でしたね。当然、
自己嫌悪っ!
しかし、いつの頃からか、整理棚やケースにラベルを貼る・・・を始めま
した。
≪物を捜さなくてもすむ方法≫です。今では、衣類の箪笥にもラベルで、
その結果として、物を捨てなくなり、ひたすらに溜まるに至ったぁ!
しかし、振り返ってみると、ほんとうに・・・。
メンタル疾患で病欠・休職するまでは、ほんとうに<多忙>でしたよ。
中途半端が出来ない。いつも、もっと、もっと!と、仕事(ほぼ授業)も目一杯、
準備してやりいの、ときには私的な活動や研究、韓国語の学習とかでも、熱
中してしまっていました。
けれども、強いられた<忙しさ>ではない。
自分がしたくないことは、けっこう頑固にサボタージュしましたよ。嫌なこ
とはしない。周りから、よく思われたいとかと同時に<うけねらい>もなくて
自分がしたいことでなければ・・・。
まあ、その犠牲といえば、犠牲が息子ですわ。母親らしいことは、
弁当作りを6年間、ほぼ毎日しただけね。
今でも、わたしは、みんなに育ててもらった・・・と、しみじみ考えていま
す。
ただし、乳児から幼児、小学四、五年生ぐらいまでは、丁寧にきっちりと
子どもに係わっておかないと後がたいへん
己の場合は、のんびりした田舎っぽい小学校も、低学年の今日だったことが
幸いしたと思われます。その後の中学校も伸びやかだった・・・。≪正規採用
2校目・3校目≫
学校の周りには、田圃や畑があり、小学校低学年担任のときは、この間まで
あった<総合>の授業を自分らで考え、親御さんたちに助けを求めて、特別な
ことではなく、ごく普通にやっていました。 <あの時代のことは個人通信に
書いているによって、パスッ!>
何よりも、そういう<時代>でしたね。
わたしが教員という職業とまったく関係のない某研究会などで活動をはじた
めのは、小学校の教師だった時期です。
1982年ごろかな?
子どもたちには当然として、同僚や親御さんたちとも、ごくふつうに、心を
開くことが出来た・・・。
いい授業がしたいという気持ちで、学年・パートで話し合い、協力し合っ
て、公開授業やクラスを交換しての授業も定期的に、しんどいけれども愉しみ
ながら・・・。
子どもの病気で学校を休まなければならないときも、「私もしんどい時期が
あった。」と労わってくれた先輩・同僚! 今でも顔と名前を覚えています。
自分のプライベートな活動をするようになっても、そんな話も出来て、校長
さんの中には、数日の休暇のはずを≪職免≫扱いといったとことも・・・。
その代わり、自発的に自分からすすんで、難しい仕事も引き受けました。
あの2つの学校のせんせいたちの顔は、笑顔のままで私の記憶に残って
いますが、しかし・・・。
私はうっかり、大阪市の異動希望を! 希望もしていないのに、試しに出した
ら、受かってしまった。
さて、今日の話題は、<忙しい>ですね。
いろいろとしなければならないことがあったとしても、気持ちにゆとりが生ま
れます。
強いられてのしごとは辛いが、みずから進んでやれて、やったことは、失敗し
たとしても、そこからの<学び>があります。
同じ目線で、心を開いてかかわりあっている場合、よい意味での<競い合い>
はあっても、相手より優位にたとうという<競い争い>にはならない。
私が<仲間>という感覚を実感して、「人間独りでないこともいいものだ」を
覚えたのはこの時期かなぁ!
「個」と「個」の信頼関係の友人はいても・・・。群れて、わいわいがやがや
・・・は、私にとっておぞましいこと?
一緒に<しごと>をするっていうのは、いいんですよ。それは肩を並べること
であり、目を見つめあい、心を開けっ放しにせずとも済ませられる・・・。
そうそう、忙しいの「忙」は、心を亡くすということやと語って下さったのは
東京の建築家のKさんです。
あの本はどこにあるのでしょう? 頂戴した本は捨てたりはしていません
から・・・。まっ、そのうち見つかるでしょう。
今日したこと。
①ビデオ整理 寝室から牛乳ケース4箱、リビングへ。30本ほど、
チェック、ラベル貼り。
②食事は2度で、きちんと作り、実家へも4品ほど持参。
③買い物2回、洗濯1回。掃除は掃除機だけ。椅子の修理。ちょっとだけ
裁縫?
④映画『ベンゴ』93分。思わず、踊ったぁ!
⑤ ひすちゃん 1時間40分。ドイツ、第一次大戦後から、
ナチス崩壊まで・・・。
⑥ 朝日ニュースター「学問のすすめⅡ」 めっちゃ、
面白っ! 声を出して、あっはっは!
A・ネグり&M・ハート『帝国』。もちろん読んで
はいませんよ。ただ、あの時期、周りに読んでいる人たちがいて、議論
を聞いてはいたけれど。わたしゃ、難しいすぎるし、ちょっと阿呆くさ
かった・・・。
⑦ 新書をちょっとだけ。読んだうちに入らないね。
ありました、ありました。1980年代の雑誌、「教育」特集を少しばかり物置?に出したので、戻しに行ったら、整理の未踏の本棚にありました。
内藤浩一さん。『流れのほとりで ー日付のない日記からー』。
頂戴したのは、〈’81-12-28〉
建築家にとって一番大切なのは、自分の仕事に対する誠実さ、情熱、それを育てる「責任」・「勇気」であり、大切にしたいのは「価値」ではないか、とわたしは考える。自分にとって「生きる」とは、書き、創り、考えるよりない。図面と文字と、そして旅と、この生活は一生涯続くだろう。「時」とは、わたし、刻まれた一つ一つの印象の中に映え、生きている。
本の背表紙の、最後の文章です。 今始めて、この方のキャリアを知った・・・。
この「会」は、自分の名刺を配るなんて、はしたないことする人は、初代会長の時代は紛れこんでこなかった。連絡が必要な場合とか、新聞記者とか、人との<コンタクト>を職業上、キープしたい人だけでしたね。
あの会も、著名人・有名人なお近づきない連中が集る、社交場のようだと感じてからは、嫌気がさし、飛び出したといいますかね。
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