「サンデー・モーニング」の前半ラストでうった画像です。パソコンに入力して修整中、ついうっかりと「デスク・トップ・・・」の操作をしてしまい、とんでもないと慌てて、孫の写真にしたばかりです。
<絶望と諦めの果て、覚悟をしての飢餓死>という言葉が浮かんできました。埼玉県の事件では、寝床の横に水の入ったペットボトルが置いてあった・・・・。
痩せて、体力が落ち、緩慢な飢えに慣れていくと、生きようという力そのものが萎えます。
体を動かすことがおっくうになり、考えるということ自体がすぼんでゆく・・・。やがて、ときとぎ意識が朦朧となり・・・。
年齢は、関係ありません。
今回の埼玉の件では、「お金 貸してください」と頼まれた近所の人、なぜ、千円札の一枚も差し上げなかったのでしょうか。責めているのではありません。
最初にこのことを聞いたとき、私は父なら、「どうぞ」と言って、黙ってお金をだすなと思いました。わたしも父にならって、回数は少ないですが、見知らぬ人から(情けなそうに)乞われたときは、にっこり、お金を出して渡しております。「いえ、返さなくてもいい。あげる、差し上げます」と言って・・・。そういう父を見て育ちました、わたし。
「電車賃を貸してください」とか、いろいろ。もちろん、相手の身なり、風貌、表情を察しみてです。(なお、息子をはじめ、家族でもお金を貸すときは、証文を書いてもらっていますよ。)
この方の最後のコメントに、「行政まかせ」になっている世の中だからがありましたね。
わたくしは、近所や地域だけの問題ではないと考えます。
今の時代を生きるひとの心の持ちようと生き様の問題です。お賽銭や災害の寄付は出しても・・・ですね。
なお、殺人、人を死にいたらしめる事件がまたまた、異常に増えていますが、「飢餓死」の問題と根っこは、同じ・・・。
歴史を振り返ると、古今東西も変わらず、いつの時代も、人々の「生」が不安定な社会に起こる<相>は同じような気がしますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます