典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

父との確執

2009年11月04日 | 〈雑記〉孫や子ども達、若い人と
 仕事で使っている戸籍上の「姓」は、別れた夫の姓なんですね。
離婚したとき、旧姓に戻さなかったのは・・・。
 やはり、旧姓に戻すと、そこから親父に繋がってしまうと感じ
たからやと思います。

 親父が死んだとき、わたしは大学を卒業したばかりでした。
ちょうど、教育実習中で、病院で看病しながら、母校へ通って
いました。
 ああ、教員免許は在学中には取りませんでした。これも少し
事情ありますわ。

 高校時代、私が目指していた大学は大阪大学の史学科、国立
大学に行きたかった。当時の国立大学は授業料は今とは違い、
安かったですから、家を出て一人でやっていく?いけるだろう、
行こうと思っていました。
 父とは<思想>が違ってしまっていた私です。

 <普通の家に生まれたかった>とどんなに思ったことか!
父は昭和初期から、政治活動にかかわってきた<右翼>でした。
四十過ぎた戦後、十五年下の女と結婚して、生まれたのが私。
 「家庭」をもったのですね。正確にいえば、一度結婚しており、
その子が死んだので離婚したという事実もあります。
 さて、戦後の父、定職はありませんでした。戦前もなかった。

 どうやって、お金を稼いでいたのでしょう。とにかく、世間で
いう定職というものはなかったのです、亡くなるときも・・・。

 しかし、お金に不自由した生活はしてないのです。住まいは
古い長屋だったけれど、食べるもの、着るもの、日々の生活は
贅沢な方でした。

 どうしてお金が入ってきたのか?
 会社に行くとお金がもらえるのです。総務部に行って、領収書
と交換に・・・です。
 パチッとした背広を着て、朝出勤? 中学高校生のときは
時々、親父と一緒に出かけ、途中で右手を出すと、千円、二千円
と小遣いがもらえましたね。
 午後は家にもう帰っていた?
 暇さえあれば、テレビの株式市場の番組をみていました。

 親父がいた頃、生野区で個人の郵便物がいちばん多いのは我が
家でした。企業はロート製薬。

 我が家がいちばん賑やか、騒がしくなるときは、選挙のときで
ジャンジャン、電話がなり続くつづくのです。
 選挙ねぇ・・・。

 たま~に、テレビのニュースで父の顔が映ることがありました。
大阪にきた総理大臣の顔、右後ろの側に親父の姿が出ていますの
です。

 さて、中学生になって苦痛だったのは、学校に出す書類、家庭
調査書でしょうか、その職業欄に何て書いてよいか分からないこ
とでした。
 「自由業」とか「団体役員」って書いていましたっけ。
 確かに、自由民主党の役員には違いありません。でも、その
名前は、戸籍上の本名ではない・・・。

 父に連れられていった場では、子どもの私もふだん使っている
実際の名前で呼ばれたことはありません。
 「○○のお嬢」ですわ。

 わたしが自分の身上を呪ったのは、父が逮捕されて、本名ばか
りか、顔写真まで、新聞の夕刊一面に載ったとき・・・。
 わぁ、もう外歩かれへんわ。学校に行かれないわと、縮こまり
ましたね。
 しかし、近所の人たちの態度は変わったとは感じられなくて
これには、えっ!と少し驚きました。
 日本人よりも在日朝鮮人の方が多い横丁でして、実はわたしは
今も同じ横丁の、済州出身の金○○さんが建てたマンションに
住んでいます。(今はオーナー、変わっていますが)

 後年、近所の知人から、当然在日ですが、「選挙屋」と父は
言われていたと教えられました。


 さてさて、父が死んだとき、わたしはほっとしました。
 浮かんできた言葉が、EMANCIPITION。
解放という意味ですね。

 しかし、父の存在、その名前の怖さに打ちのめされたのは
父が他界して、数年後でした。
 それからまた数年、私は子どもが出来たので、結婚しまして
籍をいれて、相手の姓□□で暮らしてきました。
 ごくごくありふれた姓ですから、目立たないと・・・。
 
 けれども、息子も独り立ちして結婚。このとき、息子には
彼女の姓を選ぶようにすすめましたが、慣れ親しんだ「姓」
を選びました。

 最後に今の私。教員としての□□の姓は、目立たないですし、
目立ちたくないのでこれでいいと思ってはいますが、本来的な
自分といったところに立ち返ると、違和感が立ち込めてくるん
ですね。
 齢を重ねる中で、父が自分の中で生きているような気が強まっ
てきたとでも、申しましょうか。

 なぜ父が戦前、戦後と政治にかかわったのか。田中角栄が政権と
勝ち取った後、豹変したのか。
 さまざまな「謎」を父に対して抱いています。

 おそらくは、いくら調べても父の歩みは確かめられないでしょ
うね。
 晩年、書かせてくれとやって来た、週刊誌の記者に対して、
「どこで、ワシのことを嗅ぎ付けてきたんじゃ」と低い、怒りの
声で呻くように語った親父の、その目を私は覚えています。

 「父との確執」は、今わたしの周りにいる友人・知人、その方た
ちが胸の中に抱いておられる想い・・・のような気がして、ちょっ
と自分語りをしてみました。
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