この曲はインディーズのミニアルバム、「first kaleidscope~君の家に着くまでずっと走ってゆく~」に初登場、メジャー移籍後のマキシで再登場、そしてファーストアルバム、「first soundscope~水のない晴れた海へ~」にも収録、しかも、しかもですよ、Bestにも再びインディーズ版が収録されるなど、自他共に薦める名曲中の名曲といっていいでしょう。
管理人、「first kaleidscope~君の家に着くまでずっと走ってゆく~」を買ったのは、3rdアルバム、「Crystallize~君という光~」購入後、どうせなら全部そろえようと買ったわけですが、インディーズ版の「君の家に着くまでずっと走ってゆく」に出会えて、本当によかったと心の底から思っています。
どちらが好きかというのは、個人の好みによりますが、管理人はデジタルっぽいメジャー版よりアコースティックっぽいインディーズ版の方が好み。シンプルなアレンジ、岡もっちのアコギ、中村由利の素人っぽい、感情を抑えた、中性的なボーカル。コード進行だけのピアノ。シンプル イズ ベスト。この中性的なボーカルに深みが加わり、後の唯一無二のゆりっぺの世界が作られてゆきます。
新しいコートに着替えて
気分を変えて飛び出した
離れて過ごしている時間はすぐに
blueな気分に襲われてゆく
何気ない日常を細やかに表現するAZUKI七のリリックも凄い、の一言です。
生きてゆくことさえ意味もなくて
価値あるものなんて何にもない様な気がして
野に咲く花にやけに感心したりして
無難に過ごしてゆくだけだった
誰だってふと、感じる、虚しさ。無常観。誰だってふと気がつく、野の花の美しさ。でもそれらの感情は長続きすることなく、日常に紛れ込んでいく。だからかえってAZUKI七の手によって、その瞬間を切り取られ、言葉となった場合、新鮮で、かつ衝撃が大きいのです。
君の家につくまでずっと走ってゆくつもり
そのまま転がって犬みたいにじゃれていようよ
今日と明日はずっと私だけ見つめていて
おなかが空いたらtelしてピザたべよう wow~
歯切れのいいCメロに乗って、ほんわかとした世界が拡がる。私だけかもしれませんが、どうも「君の家につくまでずっと走ってゆくつもり」と「今日と明日はずっと私だけ見つめていて」とは別人のような気が。そういう視点から見れば、詩のこの部分はダイアログ。もし同一人物なら話し手は女となり、別人なら話し手は男。中村由利さんの声は中性的ですので、まったくどちらとも取れます。「家」と書いて「うち」と読ませたり、telを「でんわ」と読ませる。読む場合の視覚と聞く場合の聴覚、どちらにも妥協を許さない七さんのこだわり。これ以降あちこちで見られます。
時には迷宮みたいなmind
やけにバカげた気分になる 投げやりな感じ
それでも孤独じゃあ淋しい生き物で
すぐに君にあいたくなる
この詩には、後のAZUKI七の一番の特徴である、時間的や空間的な深遠さ、拡がりは、あまり感じられません。しかしながら、ともすれば周りの状況の中に埋もれがちな、自分でも意識していないかもしれない心の襞。その襞を七さんは恐ろしいまでの描写力でビビッドに描いて見せています。
おそらく詩集「80,0」と前後して書かれた歌詞。AZUKI七さんは(推定)30歳前後。すでに歌人、詩人として孤高のレベルに近付かんとしています。初々しさと恐ろしいまでの完成度が同居する、歴史的名曲だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/80/1507639b0ff12c5462175bf13b3748d4.jpg)
どちらが好きかというのは、個人の好みによりますが、管理人はデジタルっぽいメジャー版よりアコースティックっぽいインディーズ版の方が好み。シンプルなアレンジ、岡もっちのアコギ、中村由利の素人っぽい、感情を抑えた、中性的なボーカル。コード進行だけのピアノ。シンプル イズ ベスト。この中性的なボーカルに深みが加わり、後の唯一無二のゆりっぺの世界が作られてゆきます。
新しいコートに着替えて
気分を変えて飛び出した
離れて過ごしている時間はすぐに
blueな気分に襲われてゆく
何気ない日常を細やかに表現するAZUKI七のリリックも凄い、の一言です。
生きてゆくことさえ意味もなくて
価値あるものなんて何にもない様な気がして
野に咲く花にやけに感心したりして
無難に過ごしてゆくだけだった
誰だってふと、感じる、虚しさ。無常観。誰だってふと気がつく、野の花の美しさ。でもそれらの感情は長続きすることなく、日常に紛れ込んでいく。だからかえってAZUKI七の手によって、その瞬間を切り取られ、言葉となった場合、新鮮で、かつ衝撃が大きいのです。
君の家につくまでずっと走ってゆくつもり
そのまま転がって犬みたいにじゃれていようよ
今日と明日はずっと私だけ見つめていて
おなかが空いたらtelしてピザたべよう wow~
歯切れのいいCメロに乗って、ほんわかとした世界が拡がる。私だけかもしれませんが、どうも「君の家につくまでずっと走ってゆくつもり」と「今日と明日はずっと私だけ見つめていて」とは別人のような気が。そういう視点から見れば、詩のこの部分はダイアログ。もし同一人物なら話し手は女となり、別人なら話し手は男。中村由利さんの声は中性的ですので、まったくどちらとも取れます。「家」と書いて「うち」と読ませたり、telを「でんわ」と読ませる。読む場合の視覚と聞く場合の聴覚、どちらにも妥協を許さない七さんのこだわり。これ以降あちこちで見られます。
時には迷宮みたいなmind
やけにバカげた気分になる 投げやりな感じ
それでも孤独じゃあ淋しい生き物で
すぐに君にあいたくなる
この詩には、後のAZUKI七の一番の特徴である、時間的や空間的な深遠さ、拡がりは、あまり感じられません。しかしながら、ともすれば周りの状況の中に埋もれがちな、自分でも意識していないかもしれない心の襞。その襞を七さんは恐ろしいまでの描写力でビビッドに描いて見せています。
おそらく詩集「80,0」と前後して書かれた歌詞。AZUKI七さんは(推定)30歳前後。すでに歌人、詩人として孤高のレベルに近付かんとしています。初々しさと恐ろしいまでの完成度が同居する、歴史的名曲だと思います。
インディーズ版は手触り感がすばらしいですね。「新しいコートに着替えて」から入った詞、「感情を抑えた」ボーカル(ほんとうにおっしゃる通り)、イントロのギター、それらが皮膚感覚のように感じさせる、冬の寒さの中の2人の若さ、・・・4人がとりあえず自分の持っているものを持ち寄って1つの音楽を作ったら名曲になってしまった、とでも言うのでしょうか。
七さんの詞は、後の曲の詞と比べるとデッサンみたいなところがありますが、冒頭の
「新しいコートに着替えて
気分を変えて飛び出した」
と、真ん中の
「今日と明日はずっと私だけ見つめていて
おなかが空いたら tel してピザを食べよう」
がしっかりと小さな世界をつくっているのが凄いと思います。
--- いつもは ROM で拝見していますが、今回は管理人さんに共感して、語ってしまいました。駄言お許し下さい。
ちなみに後半でおっしゃっている、ダイアローグかモノローグか、私もかつてそう感じたのですが、今はモノローグ派です。
「デッサン」ですか、いやあ、いい表現ですね。もともと淡い色彩のガーネットクロウの世界ですが、ここはモノトーンの世界。ササッと鉛筆でデッサンし、気に入ったものだから、そのまま作品にした。そういう感じでしょうか。
「小さな世界」、これも共感であります。一幅の絵ですね。
インディーズ版は文字通り、毎日聞いております。
これからも、よろしくお願いします。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。