徒然なるともりん

あたちの徒然なるお話

「日々是好日」

2014-05-05 20:40:03 | あたち2014
 

中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の語で知られる。

雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって「十五日以前のことはさておき、

これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねた。だが誰もすぐに

返答が出来ずにいると雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えた。


この語を文字通りに解釈すれば「毎日が平安で無事の日である」

と云う意味であるが、単に毎日がよい日であるのでは禅的解釈にはならない。

雲門はなぜ「日々是好日」と云ったのかに疑問を抱き、その心を解くところにこの語の教えがあり真意があるのだ。

 「十五日以後の心境を」を問われた弟子たちは皆、十五日後に答えることを考えたことだろう。

しかし、雲門は自ら十五日と云う期間を示しながら、実は即今、即座の答えを求めていたのだ。

無常迅速 時人を待たずである。親鸞聖人は「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな」

と歌われているように、


「今ここで自分の境地が述べられなくて、一体いつ言うときがあるのか。

無常迅速、時人を待たずであり、はたして明日と云う時があるとは限らないではないか?

この一瞬のところを大事にせよ」と云うこと教え示した言葉が「日々是好日」なのである。

平々凡々、何事のさわりの無い穏やかな日々だけが「日々是好日」ではない。

 多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。

しかし現実はその願いの通りにはいかないで、雨の日、風の日があるように様々な問題が起き、

悩ませられることばかりかもしれない。

しかし、どんな雨風があろうとも、日々に起きる好悪の出来事があっても、この一日は二度とない一日であり、

かかけがえの無い一時であり、一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、

まさに日々是れ好日となるのである。



 好日は願ってえられるものではなく、待ってかなえられるものではない。

自らの生き方に日々に好日を見出しえなければならないのだ。

時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところに

この語の真意がある。


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