1962年9月に開業した若戸大橋が、今年で50周年です。
私もおぼろげながら、開通直後に渡ったのを憶えています。
上の写真は、七色の煙と言われていた頃の洞海湾。
まだまだ若戸渡船も現役です。
橋の詳細。
開通時を伝える新聞の記事です。
あの時も、また今でも、我が街の誇りです。
1962年9月に開業した若戸大橋が、今年で50周年です。
私もおぼろげながら、開通直後に渡ったのを憶えています。
上の写真は、七色の煙と言われていた頃の洞海湾。
まだまだ若戸渡船も現役です。
橋の詳細。
開通時を伝える新聞の記事です。
あの時も、また今でも、我が街の誇りです。
環境ミュージアムで見せてもらった、1960年当時の観光絵葉書。
洞海湾の活気ある風景と工場の煙が「七色の煙」と言われた時代の絵。
旧八幡市時代の市歌にも歌われた風景。
八幡市歌
(一)天の時を得 地の利を占めつ
人の心の 和さえ加わり
たちまち開けし 文化の都
八幡八幡われらの八幡市
市の発展は われらの任務
(二)焔延々 波涛を焦がし
煙もうもう 天に漲る
天下の壮観 我が製鉄所
八幡八幡われらの八幡市
市の進展は われらの責務
(三)高き理想を 帆柱山に
深き希望を 洞海湾に
愛市の真心 神こそ知るらめ
八幡八幡われらの八幡市
市の隆昌は われらの歓喜
向山(むこうやま)、現在の皇后崎公園の一角にコンクリートの基礎だけが残っている。
戦時中、高射砲陣地だったところ。
北側には探照灯(サーチライト)の部隊もあったという。
工場地帯を守るために設置されていたとのこと。高空を飛んでくるB29には、なかなか命中しなかったらしいが。
艦載機対策の気球が浮き、サーチライトが闇を裂き、高射砲が轟音とともに撃たれる。
そう遠くない昔のことながら、なかなか想像できない光景です。
(残念ながら南北皇后崎公園を結ぶ橋の架け替えにより、この遺跡は通路になりました)
第一回関門及北九州防空演習参加時に大谷会館前で撮られた集合写真。北九州平和のまちミュージアムによると以下のような演習との事。「この防空演習は、昭和6年7月16日から18日までの3日間実施されたもので、大阪、名古屋、水戸に続く日本で4番目に行われた大規模防空演習でした。演習実施地域は、現在の北九州市域や福岡市域を含む福岡県の北部および山口県下関市周辺などで、広い地域で灯火管制や射撃演習などが行われました。
本演習で画期的であったと言われているのは、灯火管制の方法です。それまでの演習では変電所で送電をストップする中央管制が行われていましたが、関門及北九州防空演習では市民や電力会社が自主的に制限を行う自由管制の方式がとられました。そのため、軍や警察、在郷軍人や青年団の指導のもとに、一般の市民も主体的に演習に参加することが求められたのです。こうした防空演習は、昭和戦前期を通して何度も行われ、市民は戦争への備えに動員されていくことになります。」北九州市平和のまちミュージアム
石川捷治「第一回北九州防空演習(一九三一年七月)+―地域における戦争準備体制形成史ノートー」(『法政研究』55-2~4、1989年)KJ00000742997-00001.pdf
この時期に第12師団参謀長だった平松英雄(歩兵大佐:1929年(昭和4年)3月16日 - 1931年8月1日 第12師団 (日本軍) - Wikipedia)
による「防空一般の要領に就て」