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東京夢工房

今までに前例がない,市場もない,概念もないものへチャレンジする夢追い社長のブログ。

三方よし

2007-06-18 12:32:29 | 夢追草

売り手と買い手,双方が満足できる商い,つまりWin-Winの成立が商売の常道の様に言われるが,それだけでは足りない。

最近,拳銃や薬物が絡む事件が目立っているが,入手過程で売り手と買い手双方に納得があったとしても,取引そのものが許される所業ではない。 また,未だ頻発する政治献金問題や官製談合事件などでも,当事者同士はお互いに利益を享受している。その意味では,Win-Winが成立している。
だが,ある視点が欠如しているのは明らかである。 それは,その行為が,同時に,社会に恩恵を与えるものなのかの尺度である。 少なくともそれらの事例は,公序良俗に反しないことが担保されていない。
自分たちの行動に,世間という判断視点を追加することが如何に重要かが知れる。 そうすると自ずと,Win-Winでは足らず,Win-Win-Winとなってくる。

そしてその実行は難しいことではない。
古来よりの良いお手本がある。 近江商人は,代々家訓として,「売り手よし,買い手よし,世間よし」を実践してきた。 儲けは確かでも,世間のためにならないことはしてはならないとの商売の掟,自らへの戒めである。

欧米型社会,過当競争型社会の今日,他人の迷惑や痛みをなおざりに,自分本位な行動に走りがちだが,今この時だからこそ,近江商人の心意気が求められているように思う。 否,商売上だけの指針ではあるまい。 これはまさしく生き様の問題で,人との係わり合いの規範でもある。

とすれば,この「三方よし」の精神は,近江発のグローバル規範と言って過言ではなかろう。


虹のバク



事務方の品質

2007-02-07 11:01:18 | 夢追草

製造業の品質は,扱う製品にもよるが,安全であることと壊れないことは外せないところである。 一方,サービス業では,安心と満足感が担保されなくてはならないはずだ。 一次産業から4次産業まで形態は異なっても,求める品質に大差はないだろう。 そして,品質を外すとどうなるかは,繰り返し歴史が教えている。

品質は自然に,また,無償で出来るものではなく,製造業に代表されるように,製造に直接係わる部門によって,意識的につくり込まねば,達成できない。 だから,品質は直接部門の専売特許のように扱われるが,実は,庶務部や経理部などの間接部門にも,品質問題はある。
これら部門の品質問題は,顧客に直接迷惑を掛けることはないので,意識されないことが盲点だ。

例えば,会議である。 メンバーが定刻に集まらず暫く待つ,いつも会議が長引く,或いは,議長はいても会議をコントロールしていない,通達に終始するなどでその会議すら必要ないなど,いくらもある。 だらしない時間の使い方をする部門は,品質が悪い部門である。
無駄な時間は,必ずどこかで挽回されて,それは余計な費用を発生させる。 残業代に化けるかもしれない。 光熱費にも化けよう。 そのように商品の原価外費用として,そのつけはしっかりと原価高に貢献している。

品質は,直接部門たけの掛け言葉でなく,自らの部門にも当てはまる目標だと,まず部門長が認識することから始まる。
当社の部門長は,理解しているだろうか?


虹のバク


社訓の教え

2007-01-17 11:43:00 | 夢追草

36,500日余りの信頼が1日で崩壊。
100年の老舗不二家には雪印乳業の教訓は生かされていなかった。

洋菓子を撤去した全国の販売店に一週間で1億円規模の補償を招いた。 消費期限が一日過ぎた食材でお菓子を作った行為は,原価を抑えるどころか,結果として余りに大きな代償を強いた。 担当者はそのことに気付かなかった。
賞味期日を一日過ぎたもので食中毒になることはないだろう。 では二日過ぎたものは,・・,多分まだ大丈夫であろう。 では3日過ぎたものは,・・。 この様に考えると限がない。 だから,そのための賞味期限である。
賞味期限を過ぎたものを食べることはある。 それは消費者個人の問題で,企業では,食材の消費期限で個人の判断を許してはならないのは明らか。

今回の不祥事。 もう一つの重大過失は,国の基準を遥かに超える細菌数の洋菓子を,それと知りつつ出荷したことである。 これは一種の確信犯。 子供や老人などから,致命的な食中毒が出なかったことは幸運であったとしか言いようがない。 管理者はそのことに気付かなかった。

また,生菓子製造工場にしては衛生管理がずさんだったと伝えられる。 食品業界に限らず,製造業の品質管理は整理整頓に始まり,塵やごみにまで気を配る。 ごみが床にある工場の品質管理は推して知れよう。 とすれば,いずれこの種の事故を生むであろうことは,単に時間の問題であった。 物づくりには,ごみ一つに気を配る感性がなくてはならない。 それがプロである。 工場はそのことに気付かなかった。

今やニュースは一日で万里を走るご時世である。 ローカルで事は収まらない。 特に全国規模の企業には,誠に恐ろしい世の中である。 その100年前に,創業者は,「お客様は味にうるさい人である。悪いものを出しては会社は一日で潰れる」旨を社訓として残している。 だから実直な経営者がいれば,不幸な不祥事は防げたはずだ。 経営者はそのことに気付かなかった。

日本で初めてシュークリームを創るなど,老舗不二家が好きな人も多いはずである。 不二家はこの度の高い代償を次の100年の元肥にしなければなるまい。 社員一人一人が気づくことから始めねばならない。

さて,不二家のお菓子,久しぶりに食べてみるか。


虹のバク

 


それは難しい!出来ない!

2006-11-02 15:13:25 | 夢追草

何かを頼まれて,「それはできない・・・」が如きの返事をしないだろうか?

私は,相手の方がその様な回答をするときは,「それはやりたくない」との断りの意思表示だと思うことにしている。
頼まれた方はそれなりの知識,洞察力から,難しい事情/理由が判って,難しい/出来ないと判断するのだろうが,頼む方はそこまで判らない。 理由を説明されてもその手の知識がない分,何故駄目なのか?の疑問が解消できない。 面倒で引き受けたくないからと勘ぐってもしまう。

頼まれた方も,「やりたくないから断っている」と誤解されるのは本意ではなかろう。 明白な理由が判るから尚更である。

「出来ません。」と言う技術者に,達成には新技術が必要で,時間も金もかかる。 0%達成なら全くの現有技術で十分だ。 とすれば,0%から100%の間のどこかに,実現できる落としどころがあるはず。 そして,その着地点を見出せるのはあなたしかいない,と言ったことがある。
答えは,達成か,全く実現出来ないかの,二者択一ではない。 頼む方も,結果として,100%完遂でなく70%程度の達成でも満足できる場合が多い。 何が何でも100%完璧と言うことは稀だ。

要は,相手の希望にどれだけ応えられるかを,アナログ的に模索する努力が必要と思う。 この視点があれば,「出来ない」の言葉は出てこない。「できない」と言えば,相手はもう,取り付く島もないと察してあげよう。

「この程度,これならできる」と少し背伸びした目標を示すことが,相手に対する真摯な対応となる。 本当に実力があれば色々な対応策が考えられるはずだ。 選択肢を提案できるのはすばらしい。 頼られるのはすばらしいことである。 そして,今日60%の地点であれば,自分のために80%への挑戦をすればよい。

「出来ない」,「難しい」と言わないでいるのは,それ程難しいことではない。


虹のバク


役不足

2006-07-06 14:04:08 | 夢追草

役不足とは,与えられた役目に対して自分の力量が不足して十分な結果を出せない状況を卑下する表現ではなく,与えられた役目が自分の実力では軽すぎる程に自己の能力が卓越している場合を指すのだが,もし自分で役処を決めるのであれば不満はないのは道理である。

部長や課長の役職を自己申告で取得できるとしたらどうだろう。 条件は,課長以上の職位毎に決められた数量の自社株を購入すること。 金で買う形の役職の任期は,例えば1年間。
自分で志願した役職は,社内では上司,部下の両面から評価され,社外からもその実力が試される。 こんな過酷な試練にめげず成果を出せれば,その時は,役目相当の実力と認定して,更に任期を延長する。
中途,あるいは期限満了後の評価で,荷が重いと自己/上司判断となれば,もとの職位に戻す。 一切の汚点を付けない。

暫定的な役職者に人事関係を司らせるのは問題がある。 その他,できない理由はいくらでもある。 だが,ラインの部課長などへの適用が難しければ,プロジェクトチームのヘッドを自己申告で募るなど,実質的な応用は考えられよう。

それに,部課長の職位を自分で取りに行く行為は,公認の資格や技能を取得すると同じと捉えて,免許皆伝後にその職を任せるのも道理であると,突飛な考えが浮かんだ。
しかしヘッドハンティングや中途採用,飛び級も,手法は違えど同じ効果を狙ったものであるから,この考え,それ程異様でないかも知れない。
一度試してみるか。


虹のバク


オンライントレード

2006-06-30 14:10:05 | 夢追草

高齢者などのパソコンが苦手な方にも,インターネットを使ったオンライントレードが簡単に行える手立てを紹介している手前,実情を知るためにネット証券会社に口座を開き,オンライントレードを体験した。

口座開設は,名前や住所,決済銀行情報などをキーボードを使って入力するのでパソコンを知らなければ難しい。 しかし,この段階では個人情報を扱うとしても,パスワードなどは後日ネット証券会社から書類で知らされるので,登録作業自体は証券会社や身内の方に頼める。
実際のオンライントレードは,操作一切は数字入力のみである。 これならば誰でも株取引ができると確信した。

今まで,株取引は無縁なものと思っていたが,これ程,簡単にあっさりとできてしまうのかと驚きである。 ただ残念ながら,株の知識がないので証券会社から提供される値上がり率ランキング表を参考に,手ごろな価格のものを買う。 その会社がどこに在し,どんな経営方針,事業規模なのか,果てはどの分野に属する企業かも知らない株主となる。 そして,値が上がれば突然姿を消す株主であるから,これで良いのかと自責の念も募る。

この経験で判った。 オンライントレードは,欲を掻かかねば,そこそこ儲けられる。 昨今,銀行に預けても利息はほぼゼロだが,1割以下の儲けならすぐに出せそうだ。 鉄則は,上がれば即売り逃げること,短期勝負に徹して,大儲けを信じて持ち続けないことである。 そのためには株価の動きを,時には分単位でチェックして売り時を外さない,所謂,デイトレードごとく集中すればの話である。

株を買う理由が,その会社の運営方針や将来性に掛ける・・・は正しくて,目先の儲けに走るデイトレードは亜流というものではない。 株が公開である以上,どの様な買い方,売り方も顧客の自由である。 企業がとやかくいう筋合いではない。それより,企業は,その様な付和雷同な株主が存在すること,今後その比率が増加するであろうことを知ることが肝要だろう。

儲け第一主義のデイトレードは,腹をくくって取り組まねばならないから会社勤めでは難しい。 一握りの特別な人を除いて,オンライントレードは,株取引の便利な手段と考える方が良い。
証券会社の店頭に足を運び,または電話で注文する人には,インターネットの利用は,自宅でできる,一日24時間可能である,手数料が割安など,なかなり魅力的なはずだ。

オンライントレードは緒に就いたばかりで,企業もユーザも学んでいる時期である。 ただ,オンライントレードは株取引を身近なもにして,ストックホルダーの25%程度を占める個人投資家の更なる増加に確実に貢献する。 今後,長期的安定株主も育ってくるだろう。
だからこそ,高齢者などのパソコンが苦手な人の参加を図らねばならない。

それにしても,オンライントレードを育むインターネットとは,何とすばらしいネットワークではないか。 生まれた当初,大学などの限られた利用者向けの特殊な情報ネットワークであったのに。


虹のバク 


権限委譲の良い加減

2006-03-13 10:49:24 | 夢追草


政府が進めている「中央から地方へ」は,近代国家樹立のために明治政府が目指した大きな政府,中央集権化とは全く逆方向の動きで,歴史の面白さを見る。
時代とともに行動が正反対になることは企業でも珍しくはない。 例えば,自己完結的に自立すべきとして分社化したものの,時を経て今度は,リソース分散で効率が悪いからと,試行錯誤?臨機応変?に,また元の鞘に戻す例である。

権限委譲も,受け手の都合よりも渡す側の意向によって実行されることが多いが,だから与える権限は,出す側に痛手があるぐらいが丁度良い加減である。 誰しも価値のないものを戴いても有難くはない。 

信用されている,任されていると感じるからこそ, 感謝と頑張ろうという気持ちになる。 それは組織も個人も同じでこと。 だから,小さな権限でも一旦渡したら,以降の口出しは無用にすることである。 これが結構難しく,時には恩着せがましくもなる。 権限を渡しておきながら,実質的に従前と変わらず実権を握るのは最悪である。 悪気はない,老婆心と言っても, これでは相手の面目が立たない。 まさに子離れしない親の様である。

人も組織も育てる
権限委譲は,与える方が痛みを伴い,我慢を強いられるものであろう。 もしそうでないなら,それは単なる自己満足にすぎないのかも知れない。



 

 


有言実行

2006-03-07 11:34:27 | 夢追草


「有言実行」  とは一種の契約である。

こと会社では,自分の意思/主張を表明して約束どおりの結果を出すのは難しい,と大方の人は考えている。 大体,上司の指示に対して,こちらから言うべきことなどない,言っても始まらないと,普通は黙って従ってしまうものだ。 またこれが一番安全でもあると考えている。
しかし本当のところは,言うべきことは多いはずである。 与えられた業務を正しく理解したか,自分の実力で求められる結果が出せるか,あるいは,期待された結果が出せなかったならどうなるか,・・・などを事前に聞いて,確認しておきたいところである。 上司や相手に念を押すこのプロセスが,後日,残念ながら努力の甲斐なく失敗した場合に嫌な思いをせずにすむ担保にもなる。 成功して自他共に認める効果は大きい。

一昔前,二昔前の「無言実行」 はもはや死語に近い。 男は黙って仕事をする・・・は,現在ではスマートではない。 男も女も自分を売り込み,目立って,そして確実に成果を出した方が評価されるし,自分も納得できる。オリンピックのアスリート達が「自分を褒めてあげたい」と公言する時代である。
またそもそも,自分自身すら上手に売り込めない者が,他の人と関わりながら業務を上手に進められか疑問である。 よしんば失言で,周りから叱咤激励を頂戴する日頃の鍛錬は結局は自分のためになる。
左様の如く有言実行は自分を守る処世術でもある。 言い訳や責任逃れの方便としてではなく,自分の行動に責任を持つための手段である。

無言実行は無言&無実行に陥りやすいが,一方の有言実行は周りから注目されている分,無実行に成り難いから,それだけでもマシであろう。


信賞必罰

2006-02-28 17:09:06 | 夢追草


人は,褒美のために行動するものではない。 また失敗や誤りを責められてはやる気をなくす。 だが会社では,職場雰囲気にメリハリをつける意味で,信賞必罰を少し派手に実行してはどうだろう。 

大失敗をして会社に多大な損失を与え,後始末にも大勢を巻き込んで大迷惑を掛けた張本人が,後日,出世することがある。 また,仕事上の失敗で左遷や降格になることも,それ程には日常茶飯事なことではない。
結果として,会社の中に失態の責任を取らない,また叱責されない風土が生まれていないだろうか? これでは,人は育たないし,周囲も,大失敗をしても構いなしでは納得しないだろう。 実力とは無関係に(例えば学歴で)出世が約束されているかのように疑われても仕方ない。 

普通,会社では,頑張って顕著な成果を出してもそれ程褒められることはなく,ましてそれで昇進が待っていることも少ない。 短期的な貢献には賞与で反映するところが多い。
だが社員の方は,ボーナスのような後付で褒められても(因果関係がはっきりせず)有難さの感動は少ない。 だから褒められるのであれば,直ちに,密やかでなくて衆人の前で,の方がより嬉しいものである。 

褒める側も工夫せねばならない。 褒めるときは大げさに褒め,叱るときはしっかり叱る所謂「しつけ」に似ているが,会社では,これを契約の履行という全く異なった形にするのである。
結果としての褒美,或いは懲罰を,公に規定しておくか当事者間でその都度決めるかは別として,要は事前に「信賞必罰」の具体像を合意しておくのである。 事前に約束しておくことが重要で, この点が一般のしつけとは異なる。 当事者間の合意があるから,人事異動が伴わなくとも,日常業務への厳しさが自然と出てくる。
 
活気がなく停滞気味の職場雰囲気を感じたら,処方薬としての信賞必罰が役立つかもしれない。


逆提案をセットにして

2006-02-17 09:39:48 | 夢追草

人様の意見に否定的な考えを述べるときは,理由を説明するだけでは足りない。 同時に,対案,あるいは逆提案を用意しなければ,単に相手を批判することになりかねない。

相手の方も,世の中,同じ考えの人ばかりではないから,当然,反対意見があると承知はしていても,こちらの指摘が批判じみてしまえば,素直には聞いて戴けまい。 納得してもらわねば,結果として,こちらの主旨が伝わらない。 発言が無駄になる。

反対意見を単なる批判としないためには,対案を合わせて示すことである。 そうすることで相手に一緒に検討する当方の姿勢が伝わる。 先方と同じ視線で,考えの違いを明確にすることが,議論としての礼儀でもある。

そして,対案や逆提案は,こちらも同じだけ真剣でなくては言えるものではない。 先様と逆の自分の意見は,立場が入れ替われば,今度は相手から同様の反論を受けることになるからだ。 そこをわきまえていれば,相手も真摯に議論に応じられるというものだ。

往々にして,論点に於ける自己の勉強不足・理解不足の場合に,批判だけの反論に陥りやすい。 また,その状況を自身で認識するのは難しく,気づかずに相手を傷つけてしまうこともあるように思う。
だから,余り自信がないときは,人様への批判意見は慎んだ方が良い。
私は,
異議を唱えるときは,「意見」そのものと,私ならばこうするの「提案」を,ワンセットにするよう心がけている


文章力

2006-02-13 11:41:00 | 夢追草


誰でも文章を書く。 そしてその人なりの文章の形がある。 読みやすいか否かは別として。

10数年ぐらい前まで,まだパソコンやワープロが誕生する以前は,文章を書くのは,それはもう一苦労だった。
上司に書き上げた報告書の承認をお願いすると必ず添削が入る。 書き直すには,消しゴムで消して新たに文を書かねばならない。 たった一語の追加でも数行を書き直す羽目になり,修正箇所が多いと半日仕事になることもある。だから,書く前に時間をかけてメモなどに下書きをする。 頭の中で何回も文章を練り直して満足いくものにしておかないと,その後に地獄が待っていた。

今思えば,この毎日の試練?訓練?が,文章作成力の育成に役立ったようだ。

自分だけが読み手である日記は別として,文章は人様が読むことを前提に書くものだ。
報告書や提案書は情報を伝えるのが目的であるから,なお更,意識して書かねばならない。 しかし残念なことに,読みづらい文章や趣旨が良く伝わらない文章に出くわすことがある。 内容の良し悪しではない。
今は一昔前の紙と鉛筆の時代のような苦労を味わうことがない分,文章を書くのにそれ程集中することもない。 それが,文章力低下の一因だろうか。

小生は,小説家や評論家のような文章の専門家ではない。 しかし,時代の中で否応なく [
実筆]の時代を長く体験して学んだ文章の書き様がある。 小生なりの極意は以下の三つである。
 ・一つの文の中に,極力,同じ言葉や表現は二度使わない。
   → 同意語を用い,言い回しを変えて,繰り返しの印象を与えない。
 ・リズミカルに読めるよう,表現を工夫する。
   → 明白な主語や述語を割愛する,句読点の位置を最適化する,などで読み易く。 
 ・起承転結の形には拘らないが,要点は分散させない。
   →言いたいことは一箇所に置き,全体をストーリ仕立てに。
そして,書いた文章を何度も読み返す。そのときに, 「て」「に」「を」「は」を変えながら,文章全体を整えていく。
自分の意思を伝える文章である。 だからこそ,人様に心地よくスムースに読んで戴ける文章にしなければいけない

貧弱な訴求内容を誤魔化すかのような
,カラフル,且つ,アニメーションを駆使した最近のプレゼンテーションを苦々しく思っても,人をひきつける技として,文章も表現が上手であるに越したことはない。


人を育てる

2006-02-09 10:09:58 | 夢追草


植物は2年も同じ鉢で育てていると,鉢全体に根が廻わって栄養や空気が十分行き渡らず,大きく育たない。 その場合,「放っておく」という選択肢は別として,
太い根や古い根を取り除いて新しい元気な若い根を残し,新しい用土を使って植え替えをする。
少し大きめの鉢に移し替えると,植物は鉢の大きさなりに成長するので,暫くは新しい鉢で,更に育つ。
あるいは,同じ鉢に植えると,今よりは大きくはなれないものの,また元気を回復して暫く楽しませてくれる。

社員は5年も同じ職位で仕事をさせていると,業務のやり方を熟知して,挑戦や勉強意欲が減退するのか,大きく育たない。 その場合,「放っておく」という選択肢は別として,
担当なら主任,課長なら部長という一つ上のポジションを与えると,人は概ねその新しい器に見合うように成長する。 力量があるからその職位を与えるのではない。 会社はその意味で多少の賭け,リスクを覚悟しながら人を育てている。 また自分もそのように育てられたきた。
あるいは,同じ職位のままで元気に頑張ってもらうのであれば,大きなチャンスを与えることを考えねばならない。 例えば,プロジェクトのリーダーを頼むのも良い。 大きな商談を任せるのも手である。 多少の不安はあるが,覚悟して見守るのである。

少し大き目の器を与える形の人事の昇進も,同じ器を使い続ける形の人材起用も,どちらも人を育てる手段であるが,定期の昇進は組織的に実施していても,人材活用の方は疎かになっていないだろうか? 直属の上司に一任することが多いが,上司は人を評価する意識はあっても人を育てる意識に欠ける,つまりは,禁断の「放っておく」の選択肢を選び易い。ここが怖い。
だから,人の起用,活用を実行する仕組みを整えるのが好ましい

昨今,社員は,働き甲斐のある会社や仕事を求める傾向が強い。そのためには転職も視野に入れている。 それ故に昇進をそれ程魅力的と考えていない。だからこそ思い切った登用などで働き甲斐を与える努力が求められる。
突然,社員に去られて打撃を被るのは,上司ではなく会社である。
人を育てるには,最初に管理職の考えを変えなくてはならない。
 

 


システムの安全も金次第

2006-01-16 09:21:02 | 夢追草


パチンコ玉が限りなくまん丸な球体,いわゆる真球に近いとNASAの技術陣が驚いたという。 巷の遊戯道具ですらこの精度のものを使っていると日本の製造業の品質の高さに舌を巻いた。 アポロ計画で慣性ジャイロ用のボールベアリングを探していたときのことと聞いている。
また,ある家電メーカは,製造の各段階の検査は一切行わずとも,組上げたテレビは殆んど問題なく動作,そのまま出荷できるという。 思い切った製造法であるが,部品レベルでの品質管理を徹底しているからできるという。

これらに共通するのは,部品一つ一つの品質を徹底的に追求することで,その集合体である製品の品質を担保する考え方である。

一方,最近のものづくりは,ソフトウエアが規模も機能も格段に大規模化している。
そして ソフトウエアは,機能毎に切り出して単体で品質を高める手法はとりにくい。 いわゆる標準化,共通化が難しいのである。 だからハードウエアのように積み上げ方式でシステム全体の信頼性,安全性を確保する手法は採用できない。

従って,ソフトウエアでは初めから信頼性,安全性などのシステム品質を設計しなければならない。 部品の品質が悪いこと,ソフトウエアのバグや不具合の発生は避けられないこと,更に,人間は操作を誤る,・・・などなど,残念ながらこれらを前提にすることが必須である。

安定した信頼できるシステムは,複数CPUの多数決判定や,現用/予備などの機能の冗長化などで実現できることは,ハードウエア,ソフトウエア,そしてシステム開発者の誰もが知っている。
なのに実現できないのは,これら危険回避の手段を設けるか否かはシステムの設計仕様であり,発注者を含めた開発の最上位の判断に委ねられているからだ。 個々の開発担当者が勝手に判断,開発できないのである。 それは言うまでもなく,開発費と時間増に直結する為だ。

今や防犯上の安全は金で買う時代と誰もが認めざるを得ない。 
同様に,システムの信頼や安全を得るのはタダではなくて金がかかるから,トップダウンで道筋をつけてやらねばなるまい。


提言と提案

2006-01-10 09:56:10 | 夢追草


広辞苑によれば,「提案」は文字通り案を提出すこと,「提言」は考え・意見を出すこととある。 続けて「案」を引くと「考え」と出ている。 結局,広辞苑では提案と提言は全く同じ意味である。

しかし一般的にこの言葉の使い方には歴然と差があるようだ。
実際,自分が当事者として関与するか,あるいは実行する前提で意見や考えを述べるときには「提案」を,逆に第三者的な立場にあって直接実行には関与しない場合に意見を出すときは「提言」と,はっきり区別して使っているようだ。
例えば,調査機関が政府にある種の意見を答申する場合は「提言書」であり,
「提案書」の形は取らない。 また,自分が自ら何かを実行するときには「提案書」として意見を纏めるのが普通である。 このような使い方,あるいは慣用に注意を払わねばならない。

それは提案の形を取るか提言の形であるかで,受け取る側の印象が大きく変わってしまうからである。提言と提案を同じ意味として使っていて
は,主体者が本人と他人が逆転する提案と提言が入り混じってしまい,聞く者が発言者の本位を見極められずに混乱を呈する危険性がある。

提案は自案を出す自力本願,提言は他言を申す他力本願とでも言おうか。 提案と提言は意識して区別してこそ,それで普通に自己の意図が正しく相手に伝わる
役職に「長」がつくもの発言は影響力がある。 だからこそ注意したい事項の一つである。


迷いからの脱出

2005-12-26 09:48:33 | 夢追草

悩んだときはどうするか? 私は最初の考えに戻すことにしている。

重要な決断をしなければならないときがある。
それだけに,一つの条件を重視すれば他方が疎かになり,項目が多ければ多いほど良い按配にならずに結論を出すのが難しくなってしまう。 そして思考の堂々巡りとなって訳けが判らなくなる。 無限ループに陥るのである。 
そんな時には信頼できる人に相談するのが一番だが,それでも結局は,最後は自分で決めなくてはならぬことに変わりない。

では結論をどう付ける? 私の場合は迷い始める前に戻る,つまり最初の考えを選択するのである。 最初に思い立ったことが,本当に自分が望んでいることに一番近いことや,インスピレーションや第六感が示す方向であるように思えるからだ。 またその選択が結構,的を得ていることが多い。 よく言う初心に戻ることである。
悩みが,意識はしなくても最初の考えを中心に他の条件を併せ考えることで思考の迷路に入っている状態と捉えれば,その道理が納得できる。

それにもう一つ。 一度決めたら結果がどうであっても決して後悔しないことにしている。 悩む程の難題であるならば,どのような選択・結論をしても,そのどれもが正しい判断といえるはずだからだ。 
 そう思えば,試していない他の選択肢への諦めがつく
迷ったら最初に戻る」。 
だから,今回の転職も後悔はない。