「ドリームジャンボ」宝くじの夢は,600円のかけらで消えた。
買わなければ絶対に当たらないから,でも,買わねば絶対に当たることはないからと思案して20枚だけ買った。 バラも連番も当たる確立は同じなら連番に限る。 前後賞も期待できるので,賞金が大きくなるのが魅力。 強欲である。
夢が叶う日,新聞の当選番号速報を見ながら判った。 当たり番号が結構バラけているのだ。 だから,連番が故に外れは一瞬で判り,夢は一瞬で消えてしまった。 その点,バラ組は,一枚一枚に期待がつながり,少しは長く?楽しめるだろう。 バラで買う理由であろうか?
ところで,全国で販売される宝くじである。 だから売れ残りの番号は予想もつかず様々なはずだが,運良く?これらが抽選で当たることがないのだろうか? 年末ジャンボなどの公開抽選で,売れ残り失効番号のためにやり直したなどの珍事はとんと聞いたことがない。 とすれば大賞が宙に浮くはず? 考えれば夜寝れなくなるが,所詮,確立ゼロの争いでは関係ない話ではある。
そもそも我々凡人は,当たる確率は二アリー・イコール・ゼロ( ≒0 )とは知っていても,そう信じないものである。 大賞が出た売り場,大安吉日,占いなどに頼ってゲンを担ぐ。 これで確率が上がり,≒ 0が ≒ 1になると信じて疑わない。
そして,抽選日を指折り数えるぐらい力を入れないのでは,神様もこちらを向いてくれないと思っているから,当たっているのに取りに行かないなど,とても信じられない所業,想定外である。
宝くじに託す夢は人それぞれである。 私はこれに社運をかけているから,これからも迷わず・・・,
”連番20枚”。
虹のバク
ラ・メール。
穏やかな海の潮さえに似たそのゆったりとしたスローテンポのピアノの調べが始まると,それまで車内に満ち溢れていたガタンゴトンという規則的な音がスーと消えた。 無音の中で車窓の景色だけが変わっていく。 話をしている人もいるはずだが,まったく静寂のようにさえ感じる。 まるで映画の1シーンに迷い込んだ気分である。
アリーヌ。
勇気を持てよ!自信を持てよ!と諭すかの如きしっとりとした調べにつられて,無音の中に人々の顔が見えてくる。 夕刻の下り電車であるから車内には学生の姿は少なく,勤め帰りの人で混雑している。 新聞や文庫本を読む人,携帯でメールを打つ人,暫しの睡りを取る人,その誰もが無口であるが,今日もしっかりと仕事をしたよ!って語っている。 静かな調べに誘われそんな風に思いを馳せる。
秋の囁き。
物悲しい調べで始まる。 鍵盤を思いっきり叩く力強いタッチなのに,それでいて悲しい。 そのとおりに,今日一日精一杯戦った企業戦士の疲れた姿が見えてくる。 レールの継ぎ目を通過する音も今は聞こえない。 じっと耐えているその顔は皆,明日への希望など特にないよと訴えている。 夕暮れの1シーンを想像させる暗いトーンで調べは終わる。
そして,ドランの微笑み。
調子は一転する。 次第にアップテンポになる。 気持ちが次第に高ぶる。 さあ,頑張ろう!明日があるさ!君がいるから家族が幸せなんだよ! そんな励ましの言葉に似たピアノのリズムは,「皆様,お疲れ様」と言っているようである。
リチャード・クレイダーマンのピアノの調べは,不思議と余計な音を消す力がある。 映画のシーンに似せて,目前にその人だけの劇場を展開する。
私にはこんな画面が見えてくるのだが。
虹のバク
サイレント マジョリティー。
最近,仕事の忙しさにかまけて,ブログが疎かになっていたところ,思わぬ激励のお言葉を頂戴した。 当方のブログを楽しみにして戴いているとのことで,たいへんに有り難い。 頑張らねばと思う。 友人からは,その様な人が多いのではと間接的な檄も。
「隠れファン」は嬉しい存在である。
一方で,所謂,もの言わぬ消費者,あるいは,沈黙の購買者が存在する。 メーカの不具合に声を荒げることこそないが,黙って買わないだけの本当は一番怖い消費者である。
だから企業は,見えない顧客,サイレント マジョリティーをどう意識するかに腐心する。 昨今,クレームを,もの言わぬ消費者の代弁と捉え,見直す動きがあるが道理である。 そもそも,語彙「クレーム」には不具合を訴える日本的なマイナスの感覚はない。 まさにお客様のクレームに勝る市場調査はない。
事実,企業のお客様相談窓口などにクレームするお客様は,手間を惜しまずに連絡下さる貴重な存在である。 なによりも,隠れではなく,姿を見せて下さるお客様である。 有難いことである。
サイレンと魔女リティ??(どちらもこわ~い存在)。
この言葉を日常生活の中で思い出してみよう。 自ずと背筋が伸びる。 だから,
「サイレント マジョリティー」は,自分を律する呪文となる。
虹のバク
パソコンを使っていると,まあ色々なエラーメッセジに出くわすものである。 しかし,そこに至った原因の大半が自分には責任がないことが多いから,余計腹が立つというものだ。 (が,これは今日の論点ではない。別の機会に譲る。)
パソコンのエラーメッセージであるが,極論を言えば,その殆んどは,機能不能やサービス停止に陥った不具合が如何にして発生したかの原因の説明である。 つまり,一種メーカのエクスキューズ(ごめんなさい)としての意味合いが強い?と見るのは偏見?。
そう考えれば,エラーメッセージはなにもパソコンだけの話ではないようだ。 電車が突然止まる,荷物が行方不明になる,・・・。 そしてそんなときに知らされる情報は状況説明に終始していることが多い。 しかし
エラーメッセージは,利用者の 「次の行動」を示唆するものである方がずっと価値があるはずだ。 日常,多種多様なエラーメッセージに遭遇するが,その何割が,本当に利用者のために出されているのであろう? 利用者にしてみれば,何が原因でその不具合や故障が発生したかの説明よりは,むしろ,どうすればその不幸な状況からいち早く無事脱出できるかのアドバイスの方が嬉しい。
勿論,不具合発生が利用者の責に帰するものであれば,同じ失敗を繰り返さないためにも,その原因を伝えるのは意味がある。 しかし殆んどの場合,原因を言われても対処しようのないことの方が多い。 これでは利用者は不安になるだけである。 いっそ,そんな説明は無い方が安心 ・・・である。
利用者は事故を責めるつもりはない。 だからエラーメッセージでのエクスキュースは不要である。 状況説明3割,対策説明7割ぐらいが,エラーメッセージの本来の姿ではなかろうか? 真に利用者に親切なエラーメッセージを心がけよう。
虹のバク
Windows98やWindowsMEなどのオペレーションシステムを搭載した中古パソコンが,今,隠れた人気商品になっている。 そこには懐古趣味ではない理由がある。
それは,最新のパソコンは高性能CPUに大容量メモリを搭載して価格が20万円前後もする一方で,パソコンの利用はメールやインターネットが大半であり,これならば5~6年前のパソコンで事足りると,利用者が気づいたからだ。(中古パソコン店主の言)
5~6年前の中古パソコンなら,2~6万円で容易に手に入る。 だが,Windows98のままでは使い勝手が悪いから,WindowsXPに乗せ替えるのである。 これが結構使えるのだ。 但し,メモリの増設は不可避。 当然,この種のメモリーは生産していないから中古品を探すことになり,特にPC100タイプのメモリが品薄になっている。
私もNECのPC-LB500というノートパソコン(64MBメモリ搭載)を5千円で購入,秋葉原を歩きまわって,128MBのメモリを探した。(2000円也)。 メーカが薦める256MBを下回るが,支障なくWindowsXPが動いている。 これでメールとインターネットを楽しんでいるが全く問題はない。 二台目パソコンとしては上出来である。
これだけパソコンが普及してくると,利用者も賢くなる。 メーカの中には機能限定の廉価版や使い勝手を向上させた機種を投入するなど,利用者の便を図る動きはあるが,私の中古パソコンを求める気持ちにはマッチしない。
どこのメーカが,二台目,三台目にふさわしいパソコンを最初に出すだろう?
いつだったか,将来の時計はアナログ式かデジタル式かを議論したことがあった。
こと腕時計に関しては従来の針式の方が優勢のようだが,見回せば,一般にはアナログもデジタルもその持ち味を生かして共存している。
同様に,レコードかCDかの議論もあったが,こちらは,一部のレコードマニア向けを除いて,ほぼCDの圧勝となった。
しかしいずれも,趣味/嗜好品に於ける議論であれば,技術の優劣は二の次で良い。
デジタル技術は新しくてアナログ技術は古いとは,その技術が登場した時期で定義しただけのことであり,アナログ技術は現在も不可欠な重要な技術であることに変わりはない。 それ以上に,昨今のデジタル技術を支えているのは実はアナログ技術である,と言える。
スーパーコンピューターでも太刀打ちできない人間の脳の働き。 見,聞き,触れ,嗅ぎ,味わいのアナログ情報を元に,脳はデジタル情報処理を実行する。 工業製品もアナログである自然界の情報を正確に取り込んでこそ,狙った結果を出せる。
人の五感もそうだが,自然界のアナログ情報を処理に適したデジタル情報に変える変換技術,所謂,各種センサーやアナログ/デジタル変換機能はアナログ技術の最たるものである。
その重要なアナログ技術を持った技術者が減少している。
論理思考が中心のデジタル処理技術やソフトウエア開発とは異なって,電源変動,温度や湿度の変化,材質とその強度,電磁力や雑音なども考慮しなくてはならないアナログ開発は,実績と経験がものを言う一種巧みの世界に近い。 だから優秀な技術者を育てるのに時間がかかり,おまけにノウハウの明文化も簡単ではなく伝承も難しい。
日本から今や「ラジオ少年」は姿を消した。 そして,物づくりの面白さを実感,体験することが少なくなって,理工系に進む学生が減った。 事実,日本は先進国の中で,理工系に携わる女性の比率が最も低いとのデータがある。
最近,ある学校で,女生徒に理工系に進むよう指導していることが報じられたが,嬉しい試みである。
アナログ技術もデジタル技術も,物づくりがあってこその技術である。 元気な製造業が増えれば,より多くの技術者が必要になる。 その中で,特に意識して,アナログ技術者を現場で育てていくことが必要であろう。
政府が進めている「中央から地方へ」は,近代国家樹立のために明治政府が目指した大きな政府,中央集権化とは全く逆方向の動きで,歴史の面白さを見る。
時代とともに行動が正反対になることは企業でも珍しくはない。 例えば,自己完結的に自立すべきとして分社化したものの,時を経て今度は,リソース分散で効率が悪いからと,試行錯誤?臨機応変?に,また元の鞘に戻す例である。
権限委譲も,受け手の都合よりも渡す側の意向によって実行されることが多いが,だから与える権限は,出す側に痛手があるぐらいが丁度良い加減である。 誰しも価値のないものを戴いても有難くはない。
信用されている,任されていると感じるからこそ, 感謝と頑張ろうという気持ちになる。 それは組織も個人も同じでこと。 だから,小さな権限でも一旦渡したら,以降の口出しは無用にすることである。 これが結構難しく,時には恩着せがましくもなる。 権限を渡しておきながら,実質的に従前と変わらず実権を握るのは最悪である。 悪気はない,老婆心と言っても, これでは相手の面目が立たない。 まさに子離れしない親の様である。
人も組織も育てる権限委譲は,与える方が痛みを伴い,我慢を強いられるものであろう。 もしそうでないなら,それは単なる自己満足にすぎないのかも知れない。
「有言実行」 とは一種の契約である。
こと会社では,自分の意思/主張を表明して約束どおりの結果を出すのは難しい,と大方の人は考えている。 大体,上司の指示に対して,こちらから言うべきことなどない,言っても始まらないと,普通は黙って従ってしまうものだ。 またこれが一番安全でもあると考えている。
しかし本当のところは,言うべきことは多いはずである。 与えられた業務を正しく理解したか,自分の実力で求められる結果が出せるか,あるいは,期待された結果が出せなかったならどうなるか,・・・などを事前に聞いて,確認しておきたいところである。 上司や相手に念を押すこのプロセスが,後日,残念ながら努力の甲斐なく失敗した場合に嫌な思いをせずにすむ担保にもなる。 成功して自他共に認める効果は大きい。
一昔前,二昔前の「無言実行」 はもはや死語に近い。 男は黙って仕事をする・・・は,現在ではスマートではない。 男も女も自分を売り込み,目立って,そして確実に成果を出した方が評価されるし,自分も納得できる。オリンピックのアスリート達が「自分を褒めてあげたい」と公言する時代である。
またそもそも,自分自身すら上手に売り込めない者が,他の人と関わりながら業務を上手に進められか疑問である。 よしんば失言で,周りから叱咤激励を頂戴する日頃の鍛錬は結局は自分のためになる。
左様の如く有言実行は自分を守る処世術でもある。 言い訳や責任逃れの方便としてではなく,自分の行動に責任を持つための手段である。
無言実行は無言&無実行に陥りやすいが,一方の有言実行は周りから注目されている分,無実行に成り難いから,それだけでもマシであろう。
人は,褒美のために行動するものではない。 また失敗や誤りを責められてはやる気をなくす。 だが会社では,職場雰囲気にメリハリをつける意味で,信賞必罰を少し派手に実行してはどうだろう。
大失敗をして会社に多大な損失を与え,後始末にも大勢を巻き込んで大迷惑を掛けた張本人が,後日,出世することがある。 また,仕事上の失敗で左遷や降格になることも,それ程には日常茶飯事なことではない。
結果として,会社の中に失態の責任を取らない,また叱責されない風土が生まれていないだろうか? これでは,人は育たないし,周囲も,大失敗をしても構いなしでは納得しないだろう。 実力とは無関係に(例えば学歴で)出世が約束されているかのように疑われても仕方ない。
普通,会社では,頑張って顕著な成果を出してもそれ程褒められることはなく,ましてそれで昇進が待っていることも少ない。 短期的な貢献には賞与で反映するところが多い。
だが社員の方は,ボーナスのような後付で褒められても(因果関係がはっきりせず)有難さの感動は少ない。 だから褒められるのであれば,直ちに,密やかでなくて衆人の前で,の方がより嬉しいものである。
褒める側も工夫せねばならない。 褒めるときは大げさに褒め,叱るときはしっかり叱る所謂「しつけ」に似ているが,会社では,これを契約の履行という全く異なった形にするのである。
結果としての褒美,或いは懲罰を,公に規定しておくか当事者間でその都度決めるかは別として,要は事前に「信賞必罰」の具体像を合意しておくのである。 事前に約束しておくことが重要で, この点が一般のしつけとは異なる。 当事者間の合意があるから,人事異動が伴わなくとも,日常業務への厳しさが自然と出てくる。
活気がなく停滞気味の職場雰囲気を感じたら,処方薬としての信賞必罰が役立つかもしれない。
人様の意見に否定的な考えを述べるときは,理由を説明するだけでは足りない。 同時に,対案,あるいは逆提案を用意しなければ,単に相手を批判することになりかねない。
相手の方も,世の中,同じ考えの人ばかりではないから,当然,反対意見があると承知はしていても,こちらの指摘が批判じみてしまえば,素直には聞いて戴けまい。 納得してもらわねば,結果として,こちらの主旨が伝わらない。 発言が無駄になる。
反対意見を単なる批判としないためには,対案を合わせて示すことである。 そうすることで相手に一緒に検討する当方の姿勢が伝わる。 先方と同じ視線で,考えの違いを明確にすることが,議論としての礼儀でもある。
そして,対案や逆提案は,こちらも同じだけ真剣でなくては言えるものではない。 先様と逆の自分の意見は,立場が入れ替われば,今度は相手から同様の反論を受けることになるからだ。 そこをわきまえていれば,相手も真摯に議論に応じられるというものだ。
往々にして,論点に於ける自己の勉強不足・理解不足の場合に,批判だけの反論に陥りやすい。 また,その状況を自身で認識するのは難しく,気づかずに相手を傷つけてしまうこともあるように思う。
だから,余り自信がないときは,人様への批判意見は慎んだ方が良い。
私は,
異議を唱えるときは,「意見」そのものと,私ならばこうするの「提案」を,ワンセットにするよう心がけている。
誰でも文章を書く。 そしてその人なりの文章の形がある。 読みやすいか否かは別として。
10数年ぐらい前まで,まだパソコンやワープロが誕生する以前は,文章を書くのは,それはもう一苦労だった。
上司に書き上げた報告書の承認をお願いすると必ず添削が入る。 書き直すには,消しゴムで消して新たに文を書かねばならない。 たった一語の追加でも数行を書き直す羽目になり,修正箇所が多いと半日仕事になることもある。だから,書く前に時間をかけてメモなどに下書きをする。 頭の中で何回も文章を練り直して満足いくものにしておかないと,その後に地獄が待っていた。
今思えば,この毎日の試練?訓練?が,文章作成力の育成に役立ったようだ。
自分だけが読み手である日記は別として,文章は人様が読むことを前提に書くものだ。
報告書や提案書は情報を伝えるのが目的であるから,なお更,意識して書かねばならない。 しかし残念なことに,読みづらい文章や趣旨が良く伝わらない文章に出くわすことがある。 内容の良し悪しではない。
今は一昔前の紙と鉛筆の時代のような苦労を味わうことがない分,文章を書くのにそれ程集中することもない。 それが,文章力低下の一因だろうか。
小生は,小説家や評論家のような文章の専門家ではない。 しかし,時代の中で否応なく [実筆]の時代を長く体験して学んだ文章の書き様がある。 小生なりの極意は以下の三つである。
・一つの文の中に,極力,同じ言葉や表現は二度使わない。
→ 同意語を用い,言い回しを変えて,繰り返しの印象を与えない。
・リズミカルに読めるよう,表現を工夫する。
→ 明白な主語や述語を割愛する,句読点の位置を最適化する,などで読み易く。
・起承転結の形には拘らないが,要点は分散させない。
→言いたいことは一箇所に置き,全体をストーリ仕立てに。
そして,書いた文章を何度も読み返す。そのときに, 「て」「に」「を」「は」を変えながら,文章全体を整えていく。
自分の意思を伝える文章である。 だからこそ,人様に心地よくスムースに読んで戴ける文章にしなければいけない。
貧弱な訴求内容を誤魔化すかのような,カラフル,且つ,アニメーションを駆使した最近のプレゼンテーションを苦々しく思っても,人をひきつける技として,文章も表現が上手であるに越したことはない。
植物は2年も同じ鉢で育てていると,鉢全体に根が廻わって栄養や空気が十分行き渡らず,大きく育たない。 その場合,「放っておく」という選択肢は別として,
太い根や古い根を取り除いて新しい元気な若い根を残し,新しい用土を使って植え替えをする。
少し大きめの鉢に移し替えると,植物は鉢の大きさなりに成長するので,暫くは新しい鉢で,更に育つ。
あるいは,同じ鉢に植えると,今よりは大きくはなれないものの,また元気を回復して暫く楽しませてくれる。
社員は5年も同じ職位で仕事をさせていると,業務のやり方を熟知して,挑戦や勉強意欲が減退するのか,大きく育たない。 その場合,「放っておく」という選択肢は別として,
担当なら主任,課長なら部長という一つ上のポジションを与えると,人は概ねその新しい器に見合うように成長する。 力量があるからその職位を与えるのではない。 会社はその意味で多少の賭け,リスクを覚悟しながら人を育てている。 また自分もそのように育てられたきた。
あるいは,同じ職位のままで元気に頑張ってもらうのであれば,大きなチャンスを与えることを考えねばならない。 例えば,プロジェクトのリーダーを頼むのも良い。 大きな商談を任せるのも手である。 多少の不安はあるが,覚悟して見守るのである。
少し大き目の器を与える形の人事の昇進も,同じ器を使い続ける形の人材起用も,どちらも人を育てる手段であるが,定期の昇進は組織的に実施していても,人材活用の方は疎かになっていないだろうか? 直属の上司に一任することが多いが,上司は人を評価する意識はあっても人を育てる意識に欠ける,つまりは,禁断の「放っておく」の選択肢を選び易い。ここが怖い。
だから,人の起用,活用を実行する仕組みを整えるのが好ましい。
昨今,社員は,働き甲斐のある会社や仕事を求める傾向が強い。そのためには転職も視野に入れている。 それ故に昇進をそれ程魅力的と考えていない。だからこそ思い切った登用などで働き甲斐を与える努力が求められる。
突然,社員に去られて打撃を被るのは,上司ではなく会社である。
人を育てるには,最初に管理職の考えを変えなくてはならない。
厳寒の今日も,階段で女性のサンダルのあの甲高い雄叫びが響いている。
私だけではないと思うのだが,あのパンパンというカスタネットを力一杯叩いたような音が,耳に突き刺さり,脳天を突き抜けていくかのように感じてしまうのは。 耳栓をしたいと思う程である。
今の時期はまだましだ。 夏ともなれば,階段は一種の恐怖の場と化す。 カチカチ,コチコチ,カタカタ,パンパン・・・,
あちらこちらで競い合っている。 勘弁してくれ!
履いている本人は然程に耳障りではないので,だから履いていられるのか,あるいは,ファッションとして我慢して履いているのか? 一度聞いて見たいところであるが,中年親父のお節介と無視されるのが落ちだろう。
ところがである,そのサンダルや靴でも音がしないように歩いている人がいるのである。 ちょっと油断するのか時折音がするので,彼女が気をつけているのが傍目に判る。 サンダルもつまりはその人の気配り次第で,音も小さくできるのである。
そこで考えた。
サンダルの製造メーカは,あのような甲高い音がするように設計したのだろうかと。 恐らくそうではないはずだ。 フラメンコやタップダンスの靴ではない。通勤,通学の靴である。 音はしないほうが良いに決まっている。 とすれば,あのでかい音は設計ミスか,予想外の出来事か?
甲高い乾いた音がする程,良い素材を使っている証拠とでも言うのだろうか? そうであっても音を小さくする工夫が必要ではないのか。 女性に静かに履いてくれ,歩いてくれと頼む前に,作る方の努力が必要だ。
使う人に多くを求めない。 これも製造業の製品へのこだわりと思うのだが,如何であろうか?
余計なお世話とお叱りを受けるかも知れぬが。
「LOOKPORT」という商品名称につき,昨年6月に商標登録願を提出していたが,今月,類似なものがないので登録可能であると特許庁より連絡があった。 申請から概ね7ヶ月で商標登録可能となったが,出願,審査請求,拒絶対応などで長年かかる特許取得に比べて格段に早い。
通知を受けてから1ヶ月以内に登録料を支払えば良いのだが,早々に特許庁に出向いて処理を済ませた。
これで,「LOOKPORT」は今後10年間は当社の商標である。
商標申請は,こちらでA4用紙を用意して必要事項を記載,それに印紙を貼り付けて特許庁の窓口に提出する。 不備がなければその場で受理される。 申請手数料は,2万1千円に商品および役務の区分の数を乗じた額となる。 広く権利をカバーしたければそれだけ料金がかさむから大変だ。
また,特許庁は出願書類の電子申請を奨励しており,窓口で直接申請する者は少ないようだ。 それでも二人の担当官が窓口で対応している。 当方のように電子申請でないものは,申請書類枚数に比例した電子化手数料(1枚1,200円)を別途支払わねばならない。
最後の商標登録料は,一括払いの場合で,6万6千円に商品及び役務の数を掛けた額となる。 通常2~4分野に登録していた会社時代が思い出された。世の中,金を持っている方が更に得をする(権利を守れる)仕組みである。 ベンチャーは我慢である。
各種手数料の支払いは特許印紙で行う。 特許や商標の申請,およびそれらの登録料を支払うための特殊な印紙で,収入印紙とは異なる専用の印紙である。 郵便局で購入できるが,局員が戸惑うほどに一般には馴染みの薄い印紙である。
恥ずかしながら特許印紙なるものを初めて知った。 サラリーマン時代に30件以上の特許を書いたが,その後の事務処理は他部門が担当していたために知らないで過ごしてきた。
これだけではない。今は何から何まですべて自分でやらねばならないので,ずいぶんと勉強になっている。
展示会で説明員をしていると,この人の様にはなるまいと思う人に出会うものだ。
こちらの説明を聞くのも程々に,本来はこうあるべきで,その様になっていないのはおかしいと自説を述べ,話にならないと憤慨してブースを去って行く人である。
展示会は会議の場ではない。 自説を述べるのも良いが,少なくとも情報を求めて来られたはずである。 展示会で自分に都合の良いものだけを探すとしても,そのような姿勢で本当に求めたものを見つけられるのかと疑問に思うのだが,余計な詮索であろうか。
早合点して正しく理解していないかもしれない。 また,既知の自分の知識よりも新しい情報もあるだろう。 だから色々な説明を聞いても損はないはずだ。 それをしないで気に入らないと去っては,みすみす宝の情報を前にUターンをするようなものだ。
反対に,聞き上手な訪問者にはこちらから自然と手持ち情報を話してしまう。 こちらのほうが,どんなにか得だろうに。
その唯我独尊の人はどこのブースでも,否,人生,他の場面でも同じようにやっているのだろう。 そう思えば,その人は一生の間で,どれ程の情報を見逃がすことになるのかと考えてしまう。
こちらの説明が要領を得ないからそうさせたかも知れない。
「もとはこちら」のとおり,当方の未熟さにも責任があるかも知れない。 だからあえて反論はしないでご意見を伺っておく。 そして心の中で,少なくとも自分はあの様にはなるまいと思う。