山に越して

日々の生活の記録

山に越して 乖離 第一章 4-1

2014-11-20 13:41:22 | 長編小説

第一章

 

 一 日常

 

 朝から蒸し暑い日だった。慎一は目覚めたときから軽い頭痛と吐き気を覚えていた。連日の暑さに疲労感と睡眠不足が重なっていた為だった。また、精神的にも不安定な状態が続いていた。三十歳を目前にして体内から生きることへの情熱と真摯さが失われ、このまま老いてしまうのではないかと不安に苛まれていた。暫くの間蒲団の中にいたが仕方がないと思い起き上がった。窓を開けると生暖かい風が部屋の中に流れ込んできた。慎一は静かに深呼吸を始めた。何度か繰り返している内に吐き気は治まってきたが、頭痛はより深く内部に浸透していくように感じた。

 毎日毎日が同じことの繰り返しだった。同じことの繰り返しが生きて行くことであり、仕事として成り立つことの前提だったが、慎一にとって自分を蝕んでいくように感じていた。休暇を取りたかったが休めないことは分かっていた。今日中に仕上げなければならない仕事と予定が組み込んである。慎一は思いを巡らしていたが、何時ものように蒲団を畳み、掃除機を掛け、冷蔵庫の中を物色して朝食に有り付いた。結局、会社の休日以外理由も無く休暇を取ることは出来なかった。

 アパートから歩いて二十分程で京王線のつつじヶ丘駅に着く。通勤快速で二十分、聖蹟桜ヶ丘に着き、歩いて十分ほどの所に会社があった。乗り合わせが良ければ一時間程で通勤出来る距離である。アパートは虫食い農地の残る閑静な高台にあり、深大寺の近くだったが、調布市ではなく、三鷹市の西の外れに位置して、国道二〇号線を三鷹市役所方面に向かった所だった。引っ越してきた頃は、休日の度に神代植物公園を散策する習慣が身に付き、一人のんびりと日溜まりを歩いていると田舎での生活が思い出された。しかし今では滅多に行くことは無く、どんな植物が有ったのかさえ思い出せなかった。

 大学での四年間、就職して六年、東京に移り住んで既に十年が過ぎていた。就職先を中小企業に選んだ理由は、生活する為に必要最小限の金銭が得られること、煩わしい人間関係に束縛されたく無かったこと、立身出世の為に働きたく無かったこと、それに、何れ生まれ育った静岡県阿部川沿いの田舎で職を探して、静かに暮らしたいと思っていたからだった。

 今日の予定を思い出していた。午前中はファクスが受信している受注伝票をコンピュータに打ち込み、発注伝票を印刷して倉庫に持って行く。午後は同僚の佐伯と二、三の小売店を廻り、商品の配置状況を調べ新商品の売り込みをする予定だった。依り多くの商品を販売して、売上高を増やす為、地域的な顧客の嗜好品を調査する必要があった。しかし各店舗の売り上げ状況はコンピュータで管理されていた。準備として必要なことは、書類を印刷することでこと足りた。要するに、慎一が出勤することで一日が規則通り動いて行くように決まっていた。

 可も不可もなく規則通りに日常が移り行くとき人は安堵感を得る。何も考えず、不安に思うこともなく無事一日を終える。慎一の仕事も奇を衒う必要はなく淡々と成し遂げて行くことが求められた。慎一は十分応えられるだけの仕事をしていたが、その中に自分自身を置き去りにしている不安を感じていた。しかし仕事自体が、個としての社会的な慎一を表すことの出来る全てだった。依田商事株式会社営業部主任、河埜慎一と、一枚の名刺に刷られている文字以外慎一を表すものは無かった。

 依田商事株式会社は酒類卸売業として関東地区一円を視野に納め、五百以上の小売店と取引があり、また幾つか大手デパートにも納入していた。現場社員が二十人、事務社員が社長他九名の中堅企業であるが売上高は群を抜いていた。慎一は依田商事に入社後、情報処理専門学校に通い業務の効率化を図ってきた。慎一の主な仕事は営業事務兼営業であったが、営業は部長の本山、社員の上嶋、佐伯、今年入社した吉本、他に経理の女の子が二名であった。また、総務事務を受け持っていたのが二年目の飯山佐知子だった。部長の本山は酒類生産地を廻ることが多く、上嶋、佐伯も外廻りの仕事に追われ事務所に居ることは殆どなかった。吉本は営業社員だったが、一年目と言うこともあり倉庫に詰めていた。慎一は社長のお供や得意先を廻ることもあったが、事務所に残ることが多かった。しかし、女の職場に残された感覚が嫌で倉庫に行って過ごす時があった。翌日の配送の為に酒類の積み込み作業を手伝うこともあり、また駄弁って時間を潰すこともあったが、大抵事務所からの電話で呼び戻された。

 日々の仕事は、コンピュータ相手に前日の午後から送られてきた注文ファクスを地域ごとに振り分け、数値を打ち込む。コンピュータ、ファクスは事務処理を迅速に行う為に導入されたが、結局機械に使われていた。ファクスは全ての小売店に設置されていたので数値は正確に送られてきた。コンピュータへの打ち込みさえ間違わなければ仕事上の失敗は無く、小売店の月間売り上げ状況も分かっていたので、仮に注文伝票に数字の間違いがあったとしても、打ち込むときに処理出来た。慎一が仕事をしていると感じるのは、明らかに数値が間違っていると気付いたときだった。その時、始めて小売店に電話を掛ける。けれども商品と数字の話しだけであって他には何もない。しかし相手の言葉に、人間的な感情を受け取ることが出来た。何れ小売店から直接会社のコンピュータに入力出来るようになれば、慎一の仕事自体必要が無くなる。

 一小売店が店内に並べている酒類は凡そ三百から五百、会社の取り扱っている酒類は約十倍の五千種を越えていた。慎一は、その全ての酒類と価格を理解する必要があった。売値は変動しないが、新商品発売の時など、一部の商品は価格が変動することもあり、入力する数値に間違いが無いよう注意を要した。また、特別価格で販売する期間があるときなど、その都度入力値を訂正する。その他、午後から同僚と営業に行くこともあったが、商品の陳列指示程度で、新しい商品や他店への売り込みに行くときはサポート役が主だった。そんな日は夜の八時、九時まで仕事をしたが、普段は六時前には退社出来た。

昼の休憩時間は事務所に残ることはなく、食後は多摩川縁を散歩しながら川辺で石投げをしていた。会話することの面倒臭さとテレビを見ていることの煩わしさからだった。偶々手にした平たい石ころを、サイドスロウ投手のように横手から水面すれすれに勢い良く投げつける。石は水面を切りながら向こう岸に届くこともあり、途中で沈み込むこともあった。水没した石ころは二度と水の底から出ることはなく、川底の渦に巻き込まれ水中深く潜ってしまうか、流れながら小さな砂粒に分解していく。それは、何処か生きることに似ていた。意識的に行動している積もりでいても、自分の意志では無く、他人の意向で動かされ、無意識のまま行動していることがある。石ころは必要があってその場所に在ったのではなく、何十年、何百年の時を経て流れ着いた。しかし、一つの石ころは慎一との出会いに依って方向を変えられる。人と人との出会いも、日常生活も、同じように予期せぬことの連続である。偶然の出会いに依って、全く違った方向に変わることがある。良いか悪いか判断する必要は無く、現在ある姿が事実であり、現実であり、それを受け入れるより仕方がない。現実の姿は現実の儘で変わることはない。身長一七八センチ、体重六五キロ、そよとの風もないどんよりとした蒸し暑い日の午後、多摩川の河原に立ち、ほんの少しの空間を支配している慎一自身が全てだった。

 仕事に戻る時間がきていた。しかし、このまま空間から消えてしまいたい衝動に駆られていた。生きることに消耗して、日常に諦念を感じていた慎一にとって、一瞬にして全く違う世界に行き着き、生きる環境を変えてみたかった。

 存在する物自体は一体何に依って証明されるだろう。空間に存在していることは、存在を、時間と空間の中で証明しなければならない。物体として存在している物は、永遠であるという定理がない限り物体の永続性は有り得ない。仮に物自体が永遠であったと仮定しても人間に当て填めることは出来ない。人間は有機物である限り時間と空間から遊離して何れ腐蝕し消滅する。歴史は時間の継続であり、現在、時空空間に在ることは分かっていても、それが明日まで続いて行くことを証明することは出来ない。

 個々人の歴史にとっても、現在まで計り知れない時間が継続してきた。そして、誰もが自分だけは確かなものであり、安息と快楽の場所を求める。しかし永遠だと信じている宇宙でさえ、暗黒物質如何に因っては何時その方向を変えるか分からない。宇宙の運命さえ変えてしまう暗黒に何時吸い込まれても良いのである。愚かな人間だけが不変であり永遠だと錯覚している。永遠の時間と言えるのは、現在、慎一を支配している一瞬のことであり他にはない。感じ、考え、行動している慎一が全てである。

人間の意識の中にも同じような、陥ると永遠に抜け出すことの出来ない暗黒と未知の世界がある。知らず知らずの内に近付きながらそれを知ることはない。慎一の暗黒は、何れ慎一を吸い込んで永遠の果てに、二度と戻ることのない所に放り出すのだろう。眼前に流れる川の中に在るのか、アパートの狭い空間に在るのか、故郷の景色の中に在るのか分からない。しかしその中に吸い込まれ、当て所の無い空間に投げ出され、そして終末を迎えるだろう。しかし、生死の問題さえ慎一にとって然したることではなかった。生きていることも、死ぬことも日常の煩雑さと同じことであり、自分自身の、日常の不条理から抜け出すことは出来なかった。川面の照り返しを受けていた慎一は、目を閉じると、静謐な時間を駆け上り中空に消滅して行くような錯覚を覚えていた。そして、自分自身に対して支配と統制の出来ない時間を一瞬もってしまったように思った。

 午後の小売店廻りをしなければならなかった。訪問することで、売上高を極端に伸ばすことは無かったが行くのが仕事だった。サラリーマンであることが自分の時間を奪い行動を規制する。しかし仕事は生きていることの前提である限り仕方がない。慎一はゆっくりと深呼吸をした。前方を京王線の特急列車が轟音と共に過ぎ去った。電車の乗客は、慎一が多摩川縁で佇んでいることさえ知らない。誰も彼もが自分のことを考え、必要に応じて行動しているのに過ぎない。それが個々人の生活であり社会的な生活だった。

 多摩川は何事も無かったかのように滔々と流れ、水辺は静まり返っていた。明日の昼休み、慎一が訪れても同じように受け入れてくれるだろう。

次回 出先


山に越して 遠景の向こうに 12-12

2014-11-15 09:05:07 | 中編小説

遠景の向こうに

  何度も二人で降りた駅だった。美味しい魚を食べさせる店があり時々幸子を連れて来ていた。学生時代から通った店だったが、幸子と別れてから一度も暖簾を潜ることはなかった。私は女が待っていた辺りを一瞥すると、ホテルとは反対の方角に歩き出していた。雨は未だ降り続いていた。

 

 何度も手紙を書いては破り捨てていた。投函出来る筈のない手紙だった。そのままポストに落とせば良かったのかも知れない。しかし投函口まで入れながら引き出していた。何故出来なかったのかと問うことが苦しかった。幸子との日々は既に失われていた。求めたとしても交差した直線が互いに距離を拡げて行くように、二度と交わることはなかったのだろう。

 幸子の住む街に二度、三度と行ったことがあった。地図を頼りに新興住宅街を歩いた。しかしほんの数分いて帰ってしまった。その後、東京に行く度にもう一度行ってみようかと思いながら足を踏み入れられなかった。しかし東京の街を歩いても、松本の街を歩いても、何処に行っても幸子を探していた。

 幸子に始めて出会った日、幸子の眼差しの裡側に悲しみを感じ、深奥に眠っている寂しさに触れてみたいと、そう思っていた。幸子との逢瀬を重ねる毎に、愛することが、愛されることが、確かに時間と空間を越えていることを知っていた。

 何故、人は愛を知ろうとするのだろう。愛は、時を共有することだけではなく、時を、その中に捨てることである。その愛の為に生きることが出来るなら何も必要としない。しかし分かっていても、何時しか忘れられ愛することが出来なくなっている。二人の間断のない時間を持ちながら、結果的に愛することを見失ってしまった。きっと、幸子を引き受けることの出来ない不安を感じていたのだろう。それは私の無為からきていた。

 愛することは、青春と呼ばれる日々のなかにしかない。老いていくに従って、愛することを忘れ日常の中に埋没していく。そして、得たと思ったのは影幻であり、失ってしまったこともまた幻影となる。残像だけでは既に愛とは言えない。

 五年の歳月は、私の中に何を齎らしたのだろう。胸裡の、深淵のなか刻み込まれた愛だった。しかし蘇ることのない愛だった。そして、何時しか記憶は薄れ幸子のことさえ過去の出来事になる。何故と問うこともなく、日々の中に埋もれ頽廃した生活に追われる。愛したことは最早意味を持たなかったことになる。しかし、時々は心のなかで幸子と呟くのだろう。意味のない呟きは虚空に消え、幸子の許へ届くことはない。

 私が幸子に抱いていた愛情は、ガラス細工に触れるような感覚だったのかも知れない。大切に守りたいと思いながら、幸子の基底に触れることを怖れていたのだろう。幸子はそのことに気付き、何時しか私との関係に確かな意味を見出せなくなっていた。『信じることが青春で、悲しみが私のなかに住み始めた女だったのかも知れない』と、言った幸子。答えを出し切れなかった私。

 幸子への思いは私の中で何処に行くのだろう。これから先の人生に覆い被さるように悔恨の日々を残すことだろう。幸子は、私にとって失ってはならない確かな愛だった。それが分かっていながら何も出来なかったことが私の限界だった。何を見ても、何をしていても幸子のことを考えている自分に気付いていた。そして、徐々に薄れて行くだろうと思っていた感情はより深くなっていた。毎夜のように夢を見る。夢の中でしか愛することが出来なくなり、一日一日と、思い出は遠い彼方に去っていく。しかし思い出として過去の遺物となるのではなく依り鮮明な悔恨として残る。そして、深い溜め息を吐きながら失われた情念の中に老いていく私が投影される。『思い出だけで生きることが出来る』と、幸子は呟いたことがあった。それは、幸子の寂しさと悲しみだった。その時、私は思い出だけでは生きることが出来ないと言った。幸子を愛し続けることが、その言葉を否定することだった。幸子の存在は、私にとって厳寒の絶壁に取り残された一輪の花ではなかった。しかし、何もかも過去の出来事になってしまった。

 

 新宿駅地下通路、大勢の人々が行き過ぎていた。幸子が考えていたように、私もまた、今日で最後になるだろうと思って東京に行った。何故、と問われても分からなかった。

 私の時間は、初めての逢瀬から方向が分からないまま当て所無く彷徨っていた。もう一度会いたい、と書いた手紙を投函さえしていれば・・・幸子に会うことが出来たのだろうか・・・。

 幸子の、捨てることの出来なかった手紙は、机の中に仕舞われたままになっていた。そして、既に色褪せていた。

 

                                  

今回で終了です。ご購読有難うございました。

次回長編「乖離」を予定しています。

由井章 


山に越して 遠景の向こうに 12-11

2014-11-14 12:18:59 | 中編小説

 遠景の向こうに

 幸子に似た女と二度と会うことはないだろう。埋めることの出来ない過去と未来、遣り切れ無い虚しさが残っていた。失ってはならない一瞬を失った私は、ホテルに戻り朝まで雨を眺めていることしか出来ないことを知るべきだった。

 

 やっと会えて、変わらない貴方の思いを知って、私はまた日々の辛さに耐えられるようになった。私の為に会いに来てくれ、私だけを愛してくれる。私の髪に触れ、『綺麗だね』と言った貴方・・・私の唇に触れ、『可愛いね』と言った貴方・・・そのように私を変えたのは貴方だった。貴方と一緒にいることで、貴方の愛を感じることで私は変わった。貴方の為に愛される私になりたかった。貴方の為にもっと綺麗になりたかった。貴方の求めに応じられる私でありたかった。私の思いは、何時も何時でも貴方によって満たされていた。

 貴方のことをこんなに愛しているのに、何故、別れの手紙を書いているのでしょう。貴方のいない生活・・・貴方を感じることのない生活・・・私は生きることが出来るのか分からない。これから先、何を考え、何を求めれば良いのでしょう。貴方のなかで呼吸し成長していた私・・・貴方が道標であり支えだった。貴方と共にしか生きられないことを知っていた。別れることが本当に出来るのか・・・私の悲しみを、寂しさを知っている人・・・貴方といる時にだけ素直になれた私だった。

 

 貴方と歩いた小さな湖水の畔、貴方の腕に凭れ掛かっていた。手を繋いで歩いた坂道、何時も小さく震えていた。二度と、貴方のような人に巡り会えることはないのでしょう。私のなかの越えることの出来ない思い、貴方のなかの越えることの出来ない思い、それが何なのか分からない。けれども決して越えることが出来ないと知っている。貴方と私の愛は、生きていることではなく死ぬことによってしか解決されないのかも知れない。貴方と私の死に依って完成される愛・・・仕合わせと喜びの裡側に感じていたもの、愛することは人を傷つけ悲しい思いにさせていく。私の愛は、悲しみと苦しみの間にしかないのかも知れない。

 ペンを執り苦しい日々が続いていました。何も出来なく枕は何時も涙に濡れていた。苦しくて、苦しくて、このまま狂ってしまえば屹度救われたことでしょう。再会の日からどの位経ったのでしょうか、嬉しさと苦しみが一日の内に交互にやってくる。本当は何方なのか自分でも分からなくなっていた。愛しています。これからも貴方だけしか愛せないのでしょう。

 貴方の腕のなかに眠る時、言い知れぬ仕合わせと安らぎを感じていた。出来るなら、この手紙を破り捨ててしまいたい。捨ててしまえば苦しんでいても時々は会えるのでしょう。会えない日々の辛さを越えることが出来るのでしょう。

 

 ペンを擱かなければ・・・でも・・・貴方と過ごした日々が蘇ってきます。何度か国立美術館で待ち合わせ、小さな休憩所で小さなアイスクリームを食べました。ルノアールが好きだった貴方は、何時までも絵の前に立ち尽くしていた・・・貴方の後ろ姿が悲しくて、何故なんだろうと問うていた私・・・絵のなかに何を見ていたのでしょう。繋いだ指先から貴方の鼓動を聞こうとしていた私・・・コンサートを聞きに行ったこともありました。そう十二月、渋谷で待ち合わせ、道玄坂を上って行った。風冴ゆる日、草臥れたコートを着ていた貴方・・・目を閉じたまま聞き入っていた貴方・・・時々横顔を盗み見していた私。終演後、『送って行こうか』と言った貴方・・・『いや』と、答えた私・・・我が儘ばかり言っていた。甘えたかった。だって、貴方はまた何処に行ってしまうか分からなくなる人・・・。

 その日も二人で過ごすことが出来た夜でした。『絵を観ていても音楽を聴いていてもよく分からない。けれども、画家の、そして音楽家の生活が見えてくる。自分の為にではなく、人の為にではなく、況して社会や歴史の為ではない。その人の日常が、歩いている姿が、眠っている姿が、窓辺から遠く果てしない虚空を眺めている姿が、時間と空間を越えて見えてくる。日常の営みを遠景の向こうに押し遣るかのように生きている姿が見えてくる』と、そう言った貴方・・・伊豆に行ったこともありました。朝靄に煙る箱根街道を車で走り、熱海、伊東を抜け石廊崎迄行きました。雨が降っていた。海は一日中乳白色の霧に包まれていた。貴方の運転する横顔を見ていると、『前を向いていろ』って叱られた。その日、泊まる所がなくて防風林のなかに車を停め、その中で眠りました。風波が松林の鳴き声に重なって朝迄ざわめいていた。私の掌を握り、『怖くない?』って訊いた貴方・・・『一緒だもの』と、答えた私・・・でも、本当は少しだけ怖かった。夜明け、貴方は私の肩を抱いて汀まで歩いて行った。其処には言い知れぬ静寂さが残っていた。

 貴方と過ごした日々、私の中から消えることはないのでしょう。沢山有り過ぎるのかも知れない。その一つ一つがこれからの私の生を支えてくれるのでしょう。思い出としてではなく、私が生きた証として・・・そう、今日で終わり・・・。

 閉じられたカーテンが夜明けの明るさを取り戻してきました。夜が明けていきます。黎明ではなく終焉としての夜明けが・・・貴方が約束した日、私の心はまだ迷っている。でも、貴方は私の思いに気付いている。そして、そのことを知りながら私の許に来る。何故?・・・何故なのでしょう。私のことを愛しているのなら来ないで下さい。会いたくない。会いたくない。今日会えば全てが終わってしまう。貴方を愛する私への終止符を打たなくてはならない。そう、青春の終わり・・・。

 貴方に話しておくことが、伝えておくことがあるのかも知れない。でも、何を言って良いのか分からなくなってしまいました。

 

 さようなら、貴方への愛。何時までも愛しています。幸子

 

                            擱筆

 


山に越して 遠景の向こうに 12-10

2014-11-08 09:21:16 | 中編小説

 遠景の向こうに

 女は既に過去になっていた。雨か・・・と呟く私は、私の頽廃した日常から抜け出すことが出来なかった。軽薄な私は、何もかも捨て去り雨中に飛び出し叫びたい衝動に駆られていた。家も仕事も捨て一人になりたかった。そんな風にしか答えを出せなかった。それが既に失われていても・・・。

  眼下に貴方の住む街が見えてきました。矢張り、その日のことを記さなければと思います。その頃の私は、貴方のことを思う度に切ない苦しみに耐えていた。私が貴方に会いに行く。松本で会いたいと言った私は、その街が貴方の内面を作り、どのように変えたのか知りたかった。

 朝の早い時間、新宿駅のホーム立っていた。何時もなら貴方を見送るホームに列車はゆっくりと進入してきました。発車間際まで躊躇っていた。でも、ベルが鳴り終わりドアが閉まる瞬間車内に滑り込んでいた。一駅過ぎる毎に、何時の日かこんな風になることを予感していた。行ってはいけないと自分に言い聞かせていたのに、これで良いと思うようになっていた。

 寒い日でした。松本駅は冬景色に染まり、実習に来た時とは随分と違って見えました。待ち合わせの時間には一時間以上ありましたが、逸る私はその場所を確かめようと思い駅を出ました。指定された喫茶店は直ぐに分かりました。でも、中に入ろうか迷っているうちに少しずつ不安になっていた。喫茶店の名前も場所も確かな筈なのに、貴方が来るのか、ここで待っていて良いのか分からなくなっていた。寒くて寒くて震えていたとき貴方が目の前に立っていた。貴方は不可思議な顔をして私を見ていた。『寒かった?』と聞いた貴方・・・『ううん』と答えた私・・・切なくて、嬉しくて、涙を流していた。知らない街、知らない人々、一人で男の人を待つことや、況して、会いに行くことなどこれまでなかった。始めて私は自らの意志で行動したのです。一歩を踏み出した私は、自分の生きる方向を探し当て、閉じられていた殻を破ることが出来たのです。

 山間のホテルに上って行きました。早い夕暮れは、灯影に揺れる松本の街を映し出していた。

『貴方の街』と、私は指さした。

『多分そうだろう』と、言った貴方。

『貴方のこと知りたい』と、私は言った。でも、本当は感じたいと言い直していた。

『日常が影絵のように消えて行く。結局、確かなものは存在することなく意味を持っていない』

『でも、この瞬間が確かなもの?』と、問うた私。

『幸子といる今が全てであって、他の時間は継続に堪えられないときがある。何も思わなければ何も考えない。過ぎたとき、始めて経過したことを知る』

『単純なものほど確かであり必要なこと?』

『そう思う。しかし分かっていながら突き進んで行けない。脆弱なのかも知れないが、人は個としてしか存在しない。歴史はそれを証明している。EGOから抜け出すことは出来ないだろう。でも、幸子に出会ったことで越えられるかも知れない。そう願っている』と、貴方は言った。

 少しだけ会話をした。そして、貴方は松本の街に帰っていった。それは始めからの約束だった。でも、その日は私にとってひとつのことを越えた日でした。自分自身を知りかけていたのでしょう。松本から帰り貴方への思いを一冊のノートに綴っていた。

 松本の街を見下ろしながら、『過ぎてしまえば今日のことも遠い過去になる』と、貴方は言った。本当のことかも知れないが嘘であって欲しかった。だって、何時の日か私のことさえ忘れてしまう。そして全てのことが過去となり、貴方のなかで意味を持たなくなる。でも、私は貴方が生きてきた過程を知っている。街も、そのホテルでの時間も私のなかで意味を持ち続けている。過去は戻ることはない。でも、貴方と私が交差した接点は限りない拡がりを持っている筈だった。

 これまでの私は臆病で自分からは何も出来なかった。後悔するのが厭だったのかも知れない。でも、これからは積極的に生きることが出来る。貴方に出会ったことが愛の始まりだと信じていた。不確実だったことが、貴方により確かなこととして見えるようになっていた。帰ってしまった貴方、見知らない街、でも、貴方が住んでいることで仕合わせを感じていた。そして、貴方の優しさに包まれて少しずつ大人になっていくことを予感していた。

 大学に入って半年ほど過ぎた頃恋をしました。その人はスポーツマンで、凛々しくて頼れる人でした。女の子たちの間でも人気があり誰からも好かれていました。私のことを『幸子』と、始めて呼んだ人でした。私はその人に惹かれていった。大学二年の夏、グループで旅行に行った。始めからそう言うことだったのでしょう、気付いたときにはそれぞれカップルになっていた。星空のもと、海辺を歩いていたのに、何時の間にかホテルの部屋で二人きりになっていた。そして『俺のこと好きだろう!好きなら良いじゃないか』と、いきなりベッドに倒された。油断していた私も悪かった。私は必死で抵抗した。そして、やっと逃げ出すことが出来た。駅まで夢中で走っていた。終列車に間に合わず、誰もいない待合室でまんじりともしないで朝が来るのを待っていた。辛くて、悲しかった。でも、幼かった自分の心に誓っていた。何時の日か必ず愛する人に出会いたいと・・・。

 二人きりの時・・・松本の街・・・私ははしゃいでいた。でも、それが私に出来た愛と甘えだった。優しかった貴方、私が愛した人はそんな貴方だった。一度きり、ほんの数時間過ごした街、でも、そのとき苦しんでいる貴方のことを知った。そして、貴方の苦しみを共有出来ることを願っていた。


山に越して 遠景の向こうに 12-09

2014-11-07 08:50:56 | 中編小説

 遠景の向こうに

 驟雨の続く東京の街、私の入り込む透き間など始めからな無いのかも知れない。幸子の住む街に行って確かめたい思いがあった。しかし一体何を、何を確かめれば良いのだろう。既に五年も過ぎていた。仮令其処に住んでいたとしても会える筈がなかった。しかし、心の震えだけは確かめることが出来たのかも知れない。

 

 この一箇月の間私は悶え苦しんでいた。本当に別れることが出来るのか、不安で不安で仕方がなかった。手紙を書き始めては破り、途中まで書いては破り捨てていた。

 貴方と過ごした日々の重さが蘇り、こんな筈ではなかったと迷路を彷徨っていた。そして、溜め息を吐いては窓辺に映る私を見ていた。三年の間に少しずつ変わってしまったのでしょうか、其処には大人びた私がいた。貴方と会えない日々のなかで、蒔かれた種が芽を出し、蕾を付け、そして花を咲かせようとしているのかも知れません。でも、一体どんな花になるのでしょう。咲いたまま枯れてしまうのかも知れない。でも、それで良いのです。

 最後の、逢瀬の日が近付いて来ました。書き終えた手紙を持って貴方の許に行くのでしょう。でも書き終えることが出来なく、途中でゴミ箱に捨ててしまうのかも知れない。そうあって欲しいと、私は願っています。

 

 冬・・・貴方と私は夏に過ごしたそのホテルに行きました。白樺林の間を粉雪が舞い落ちていた。『雪景を寄せ集めても、幸子の蒼く燃える肌が焼き尽くしてしまうだろう』と、貴方は言った。私は貴方の言葉が分からなかった。でも、そう言った筈の貴方なのに私を抱くことはなかった。朝方目覚めた私は冷たいベッドの中で震えていた。そのとき愛されていないのではないかと感じた。それまで一度も感じたことなど無かったのに、何故?・・・何故?と問うていた。それは螺旋階段を下りて行くような、同じところをぐるぐると廻り続けていたのか、進行方向に向いて走っているのに、後戻りをしている列車のように、行ったり来たりしていたのかも知れない。

 不確実な時間が当て所無く進んでいた。そして、人いきれの街と貴方に会えないことが徐々に私を疲れさせ心を蝕んでいた。私は一人の女として生きたかった。得る物も失う物も無いならば、後戻りなど出来ないことを知っていた。もしも後戻りをしたならば、私もまた、自分の生を見失ってしまうのでしょう。東京の片隅に小さなアパートを借り貴方のことを待ち続けていたかった。私の愛はそんな愛で良かった。半年に一度、一年に一度でも良い、確かなこととして貴方のことを待っていたかった。

 信じることが青春で、悲しみが私のなかに住み始めた女だったのかも知れない。貴方は、私の、その思いを知りながら何も言わなかった。何故?・・・何故だったのでしょう。優しさは、苦しみを内に宿さない限り本当の優しさになれない。貴方を頼るのではなく貴方と共に生きたかった。

 貴方の過去に何があったのか知らない。でも、過去など取るに足りないものでしかない。私の愛した人は貴方そのものだった。銀河が宙の中心に向かって吸い込まれて行くように貴方は其処にいた。それが私の貴方だった。貴方の存在を、確乎とした感性と愛情を知りたかった。そして、少しでも貴方に近付いていきたかった。貴方の読んだ本を読み、聴いた音楽を聴き、深奥に眠ったまま蓄えられている深淵を信じていた。

 私の部屋には貴方から送られた何冊かの本が積まれている。その一冊一冊のなかに貴方が見え隠れしていた。そして、貴方が私と出会う以前に書いた断片、私宛に書かれた手紙が堆く積まれている。もう一度始めからその全てを読み返すのでしょう。でも、捨てられないまま残して置くのか、貴方を忘れる為に捨ててしまうのか分からない。空白の行間に貴方の陰を感じていた。私は、その白い行を、貴方を待つことで埋めていくことが出来た。屹度、貴方はそうしてくれることを願っていた。

 ひとつのことに思いを込め、確然とした思念がある限り負けない自分を知っていた。私は貴方に出会ったとき、その瞬間に内なるPATHOSとETHOSを蓄え始めていた。それなのに、別れの為に使われようとしている。

 私は、貴方を待つことが出来るのでしょうか・・・屹度、何時までも待っている。私の愛は、辛くても苦しくても待つことを知っている。でも、二度と会うことのない関係・・・距離を拡げることも縮めることも私には出来ない。貴方と私との関係はそのようになっていた。声が届く距離なのか、永遠に届かない距離なのか分からない。でも、声の届く所に何時までもいたい。

 これからの私は、以前のように自分の殻を閉ざしてひっそりと生きて行くのでしょう。貴方以外の人に、私の表面は見せても裡側に生きる内なる私を語ることは決してないのでしょう。疲れ切ってしまったのかも知れない。私にとって、失うことの出来ない三年間なのに、必死で這い上がろうとしても何も見えなくなっていた。浩一・・・何処にいるの、浩一・・・私のこと捨ててしまうの、浩一・・・私にとっての青春はもうありません。貴方の触れた指先が、唇の感触が蘇ってきます。浩一・・・貴方は、私の何を求めたのでしょう。