退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
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risk communication(リスクコミュニケーション)について

2020年04月03日 23時54分47秒 | 日記

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 大学にいた頃、「危機管理法体系Ⅰ」という、当時では比較的新しい名前の科目を担当したことがあります。

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 愚輩にはそれなりに構想と組み立てがありましたが、「危機管理法体系Ⅱ」という科目もあるので整合性を取るためにそれを担当される先生にご相談申し上げたことがありました。

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 「いや、まだ考えてないんだよ。先生(=愚輩)に相談しようと思っていたところなんだよ。」というご返事を頂き、「それでは」ということで愚輩の計画をお伝えしたことがありました。

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 つまりこれは、当時はまだ「危機管理」だとか「危機管理法」という文字の科目で体系的に講義をすることに慣れた人がそれほど多くは無かったことを示しているのだと思います。

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 その大学はいろいろ物議をかもす法人が設置母体ですが、目玉である危機管理学部も日本初という触れ込みで華々しく登場したものでした。

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 しかし、その大学ばかりでなく当時の日本では「危機管理」という言葉がつたえようとしていた内容を正確に把握している人が少なかったように思います。

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 たとえば、危機という文字も英語に訳すと大づかみに、risk、crisis、disaster、ときにはpanicなどという文字がすぐ浮かんでくるでしょう。

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 しかし、当時、risk、crisis、disasterの区別すらしない論調が散見でき、かつそれが大きく問題だとされることもなかったような気がします。

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 「危機管理の要諦は手続です。」と愚輩は講義のはじめに学生諸氏に伝えました。そして、その後、1回90分で15回の講義の内、多くの部分を、いわゆるrisk communication(リスクコミュニケーション)の説明に割いたことを思い出します。

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 いま日本で感染が拡大している新型コロナウイルスによる感染症についてもrisk communicationという観点から検討が必要なのではないかと愚考しております。

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 ご専門の皆様には周知のことですがrisk communicationとは、「危険な状態や危機的状態」(以下単に「危機的状態」という。)が現に存在するか、目前に迫っているとき、そのことを関係者で真に理解し、共有し、再発信するためにどのような表現を用いたら良いかということを考える科学です。

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 このときとりわけ重要なのが非専門家、すなわち国民にどのような表現で伝えるかということです。

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 危機的状態とはいえ、抽象化すれば、それは評価の問題です。現実の危険を目にしても人によってその状態の危険度に関する認識には違いがあります。

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 言葉の選択が難しいのですが、専門の知識が無い人にとっては「現実の危険」に関する危険評価が極度に低い場合があります。放射性物質をバケツで扱った事件が良い例です。

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 これに対して専門家は「現実の危険」をいち早く察知し危機意識を持ちます。risk assessment(リスクアセスメント=リスク評価)という文字列で欧米人が認識する状態です。しかし、すでにお気付きの通り、「リスク」という文字自体が極めて曖昧なのでリスク評価と言われても実感がわかない人が多いと思います。

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 大づかみに表現すれば、risk assessmentは専門家が科学的に「現実の危険」を認識し、それを評価することです。この評価に誤りがあればそこから先は何もありません。破滅に至るだけです。

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 したがって、このrisk assessmentは複数の科学者によって複数の異なる方法で「現実の危険」が評価されます。多くの場合、いずれのやり方でもrisk assessmentは同じか近似値に収まります。

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 さて、問題となるのはこの次の段階です。それがrisk communicationの段階です。伝えるべき最も重要な対象は非専門家たる一般人、国民です。

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 しかし、ここに非常に大きな壁があります。

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 それは専門家である科学者が直接国民に呼びかけること、伝えることができないということです。

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 もう一つ非常に大きな壁があります。それは受け手である国民の言葉感覚です。たとえば、絶対数が同じでもその数を「多い」と見るか「少ない」と見るかは人の意識で変化します。中学校英語に出て来るa few(a little)とfew(little)の違いのようなものです。

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 さらに言葉感覚には人の意識が反映されます。

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 心理学の知見によれば、人は「現実の危険」に遭遇したとき、一般に先ず否定し、次に誤りではないかと疑い、さらに大丈夫だろうと楽観視し、最後にようやく現実を受け入れるそうです(この途中に「他者への転嫁」というステージがあるそうですがここでは割愛しました。)。

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 この心の動きをrisk communicationにあてはめると、何も知らない状態で危機的状況が迫っていると聞かされた人は「えっ、そんな事ないでしょ」と否定します。次に「何かの間違いでしょ。」と疑います。さらに、「そうなのか。でも、自分にはまだ関係ないな。」と現実認識と否定が混在した状態になり、最後に「ヤバいなこれは!」と納得します。

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 しかし、危機的状況の告知を繰り返し受けるとその状況の存在を肯定し認識せざるを得ないことを自覚するのですが、それでも、「まさか自分がその危機に巻き込まれることは無いだろう。」という希望的な認識に進むそうです。

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 現在、若年層に感染が広がっているのがこの状態かもしれません。若年層に限らず破滅に至るかもしれない危険を目前にしたとき人はそれを否定したくなるのは専門家でなくてもうなずけることです。

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 他方、危険の告知を受けることで過剰に反応する人もいます。これは先に上げた言葉感覚の違いから生じることだと言ってよいでしょう。しばしば見当違いの買いだめに人々が商店に殺到するのはこういう心理が働いているのかもしれません。

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 したがって、危険を告知する側は告知に用いる言葉や文字が受け手にどのように伝わるか、さらに、表現や表情で伝わり方に変化があるか否かを慎重に判断し、用いるべき言葉を選択し、表現しなければならないのだ思います。

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 とはいえ、マスメディアを用いなければ危機の告知はできません。そこで必要なことは数字を活用すること及び合理的推論過程を示すことだと言ってよいでしょう。

 ただし、「単に感染者が〇〇人出た」という事実報道に任せるのではなくリーダーがみずから数字をあげ、その数字の意味を説明して人々に呼びかけなければならないのだと思います。

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 現在、報道では「ギリギリのところで持ちこたえている。」という表現がされています。しかもこの表現は異なる日に複数回用いられています。

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 そうなると、初めてこの表現が用いられた日と、二回目に用いられた日とではどちらが「ギリギリ」なのか分からなくなり、二回目以降では「ギリギリ」という文字のインパクトが急速に減ります。この状態に、人々の先ほど上げた「否定の意識」が加わると、発信者が期待した理解度を実現することが困難になると言ってよいでしょう。

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 報道ではなく、アナウンサーではなく、政治のリーダーがみずから具体的な数字をあげ、その数字がどのようになったらどの程度危険な状態になるかということを合理的推論過程を示しながら国民に伝えなければならないと思います。

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 国民がどういう行動をとれば現実の数字がどのように変化するのか、それを政治のリーダーがみずから国民に伝えなければ国民の真の理解を得ることは難しいでしょう。

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 国民の真の理解を得ることができなければ危機を回避することはできないと愚考しております。

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浅学非才愚考卑見乱文長文多謝



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