わが国の政府が、万一、違憲な閣議決定をしてもその決定をただす方法はない。
もちろん裁判で争うことも当然できない。やろうとした人もいたが法令上も法理論上も無理だ。
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そもそも、違憲な閣議決定がされることを日本国憲法は予定していないのである。
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それは当然だろう。議会も政府も日本国憲法の下で国民により構成され、国民から権限を付与されるのである。
そういう性格を持つ政府がその憲法に違反する決定をすれば自己否定につながるからである。
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しかし、目先の関心に走り、あるいは外国勢力の圧力や利益誘導があると為政者は間違った判断をするときがある。これは運命であり宿命なのだろう。所詮、為政者は人であるから。
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日本国憲法の改正論議がにぎやかだが日本国憲法に欠陥があるとすればこれこそが最大の欠陥である。
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しかし、このあたりも法や憲法(日本国憲法ではない。)に関する基本的な認識が無いと批判なぞ到底できないだろう。
これが日本の学校教育で憲法や日本国憲法の授業がおろそかにされている理由だと言ってよい。
ほとんどの国民は日本国憲法を知らないのである。
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どこかの政党が日本国憲法の改正云々の発言をし、「最後は国民の皆様にご判断いただきたい。」などと言っているが、国民に法や法律、そして憲法や日本国憲法に関する知識を提供していないのに「ご判断いただきたい。」と言ってもどう判断すればよいのか途方に暮れる。unfairだ。
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再び横道にそれた。「妥当性、合理性、論理性」の話に戻ろう。
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当然のことながら次に問題となるのがこの妥当性、合理性、論理性という概念の中身ということになる。
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ところが、その中身は何かという議論になるとたちまち世界観や価値観が対立してくるのが日本の文化なのである。
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世界観や価値観の領域に問題を持ち込めば収拾がつかなくなるのは当たり前だ。
その結果、当該法律が妥当性、合理性、論理性を満たしているという保証など全くないのに、「法律に従えばいいのだ。」という安易な方向に堕すのである。
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妥当性、合理性、論理性という文字を眺めるとすぐに気付くことがある。それは、合理性と論理性にはある程度の客観性が認められるが、妥当性となると客観性は相対的になりがちである。
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この相対性、つまり極力排除しようとしてもどうしても忍び込んでくる主観的な世界観や価値観を排除するために英米法系の研究者はjustice conceptを用いる。
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justiceは通常わが国では正義と訳される。正義と訳されることでその本質が曖昧にされて来た。
しかし、英米法という領域ではjusticeはjustice conceptとしてしっかり内容が吟味され確定された概念として扱われている。
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では、「法治国家(思想)」という概念はどうだろうか。
今の小中高生の教科書は見ていないので知らないが、私が知る40年ほど前の社会科(系)の教科書には法治国家(思想)はrule of lawの言い替えだと説明されていた。
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国会議員の中にも「わが国は法治国家なのだから(云々)」と演説する者がいる。
日本国憲法の下ではわが国は法治国家ではなくrule of lawの国である。このことを知らない人は非常に多いと思う。
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為政者にとっては国民が法治国家(思想)とrule of lawの違いが分からない方が都合がよいのだろう。
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法治国家(思想)とはドイツ語のRechtsstaatの日本語訳でありその内容もドイツ法に根がある。
しかし、日本国憲法が採用する統治の仕組はrule of lawである。
rule of lawを日本語に訳せば「法による支配」だが法治国家(思想)との違いを知る人も多くはない。その違いはまた別の機会に深堀してみたい。
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あまりにも横道にそれた。ゼミの話に戻ろう。
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ゼミでは、こうした背景をすべて調べ上げたうえで、原著者が一つの単語に込めた思いをつかんで日本語にしなければならない。
したがって、下級生の報告に意見を述べるにはそれなりの準備が無ければ難しい。1年生の時の方がよっぽど楽だったとあとになってわかった。
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ときには一個の単語の意味を確定するために数日間、図書館に潜り古典と言われる論文集や大辞典を渉猟したことも一度や二度ではなかった。
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ちなみに、ここでいう大辞典には「ドゥーデン大ドイツ語辞典」(Duden Großwörterbuch)や「グリム大ドイツ語辞典」だ。後者はグリム童話の作者であるグリムが編纂した辞典だ。
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古典と言われる論文集にはHoldsworth(ホーズワース)のA History of English Law(イギリス法の歴史)という書物が含まれる。
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グリムの大ドイツ語辞典は全巻が5~6段の書架二つくらいに分かれて収められている。
グリムやドゥーデンを引くときは、もはや「辞書を引く」という表現で人が想像する状態とは違っている感じがした。「木村・相良」や「シンチンゲル」といった普通の独和辞典を使いながらグリムやドゥーデンの記述を読んだ。
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辞書ではないが、HoldsworthのA History of English Lawは同様の書架3~4個かそれ以上に収められていた。St先生はこれを読破されたという。伝説ではなかったようだ。
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At先生のゼミではブラックの法学辞典(Black’s Law Dictionary)、Ka先生のゼミではクライフェルズの法学辞典(Creifelds Rechtswörterbuch)は必携であった。
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しかし、これはまだまだ序の口であった。勉強の奥深さを知るにはまだまだ時間がかかった。一例を上げてみたい。
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At先生のゼミの教科書は米国の連邦最高裁判所の判例を要約して編集されたケイスブックだった。その記述にはしばしばcommon lawという文字が出てきた。これはもはや英和辞典でも、英英辞典でも、法学辞典でも内容を正確に掴むことはできなかった。
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common lawの内容を正確に掴もうとするならば専攻を変え専門の研究をするか、HoldsworthのA History of English Lawを精読するしかなかった。
とりあえず、common lawという文字が引用された事件の争点に関係する限度で掘り下げ内容を確定し、At先生のご説明を待つ。「なるほどそういうことか。」と新たなことを知るのが何よりも楽しかった。
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何よりも楽しかったのは事実だが、勉強するために進学した大学院とはいえ、ここまで勉強することになるとは想像もしていなかった。
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また、この頃になると、やたら「業績」という言葉が耳に入ってきた。
ある先輩は、「私らは『業績』を作らなければならないので優先的に報告判例を選ばせてもらう。」などと発言していた。
はじめのうち何の話か分からなかったが、研究会で報告した人はそれを大学内の研究所の機関紙に投稿できる仕組みがあることを後になって知った。
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活字になるということには大きな意味がある。しかし、自分には関係のないことだと聞き流していた。
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そんなことよりも、自分には乗り越えなければならない大きな山があった。それは修士論文である。
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凡庸な私には、もうこのときすでに勉強のキャパは一杯いっぱいだった。鍛えてくれた先生方には大変申し訳ないが、私の勉強は能力以上のことをしようとした不完全で不十分な勉強でしかなかった。自己満足の勉強なぞ何の役にも立たない。何も残ってはいなかった。(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。