他力本願!(週末は重賞予想・他力本願)

プロレス・中央競馬・与太話のオンパレード
ただいま3年経過。
競馬もプロレスも不滅です…たぶん。

1990年4月1日のドラゴンマスター…ケンドーナガサキさん。

2020-01-13 19:01:40 | プロレス
1985年の秋に“ランボーサクラダ”を名乗り
1982年に“ドリームマシーン”になる。

桜田一男こと、ケンドーナガサキさん。
“またの名”が多いことでも有名なプロレスラーである…合掌。

大仁田厚、急逝のケンドー・ナガサキさん追悼
「強い人だっただけにショック」
https://hochi.news/articles/20200113-OHT1T50057.html

大仁田が言うように、ケンドーナガサキは強かった。
一部の“格闘技かぶれ”した皆々様は置いといて
路上で絶対に揉め事を起こしたくないプロレスラー代表。
…いや、わざわざ揉め事を起こす理由も無いんだけど。

あれは“カクトウギブレンド”だった1990年のFMW。
いわゆるひとつの“フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング”
「プロレスは最強の格闘技」に騙された僕たち&私たち。
そういった方向から、明後日の方面に向かったFMW。
ザ・シューターの存在は、立派なパロディー。
ザ・グレートパンクの存在は、笑えるくらいの黒歴史。
ビッグタイトンやザ・グラジエーターが活路を見出したストリートファイトマッチ。

1990年4月1日。
どいつもこいつも“4月バカ”になりたかった後楽園ホール。
大仁田厚・ターザン後藤VSドラゴンマスター・栗栖正伸。
見ていた我々が高揚してしまうイス攻撃。

ドラゴンマスター…忘れちゃいけないケンドーナガサキさんの隠れたリングネーム。
うっかり触れちゃいけないストリートファイトマッチ。
痛みが伝わり過ぎるイス攻撃。
団体の柱を支える大仁田にも容赦が無かった喧嘩ファイト。
あの圧力は現場に居た彼ら&彼女しか伝わらない。
痛みを伝え、畏怖を提示するプロレス。
世間様がいう“国技”に収まらないプロレスという懐の深さ。
その懐の深さが伝わらない哀しさに涙しつつ
そういった真実に触れられた青春時代を忘れない。

ある程度の筋書きがあったと仮定して
それでも、試合後、過剰なまでに控室で揉めていたドラゴンマスターと栗栖正伸。
割り切れない想いが、四角いリングで発散する。
そういったプロレスをみせてくれたドラゴンマスター。

…ケンドーナガサキさん、ありがとう。
あの日、リングにいた後藤さん、栗栖さん、大仁田…さんも込みで。
(皆々様の記憶にも縋りつつ)
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