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アーカイブ『市民派アート活動の軌跡』

「アートNPO推進ネットワーク通信」
小冊子「アート市民たち」

1、《アートNPOの中核としてご活躍いただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『原田俊一』氏はサラリーマンコレクターの草分け的存在である。一貫して新しい日本画に関心を持ち、東京芸大など美大の若手作家との交流を深めてきた。コレクションは河嶋淳司、マコトフジムラ他、いまや中堅実力派として活躍している作家たちの作品ばかりだ。アートNPO立ち上げを最初に相談したアートの世界の友人であり、苦労を共にしてきた同志的存在である。『クリスマス・イン・ピース展』、『コレクターの見る視点展』など提案・実行いただいたアート企画は、いずれもアートNPO活動の歴史に残るものである。

『伊藤厚美』氏は『アスクエア神田ギャラリー』代表であるが、美術業界の現状についても率直に語ることができる新しい時代のギャラリストである。読書家でもあり、名著のこと、経済や社会のことなど話題も豊富で楽しい。日常のなかに生きている美術といったことに関心を持ち、アート市民時代の到来に期待を寄せる。アートNPOにおける理論派でもあり、メディアへの紹介など継続的支援を頂戴した。現在、京都造形大学の環境美術講師として教壇に立つなど活動の幅を広げている。美術同好会『ASの会』役員でもある。

『御子柴大三』氏は大手百貨店の外商の仕事の傍ら、絵画コレクションを続けて30年。若い頃松田正平や野見山暁治の絵に惹かれ、小貫政之助の作品を購入した経験から、無名作家の発掘こそ収集の道との持論を展開するこだわりのコレクターである。アートNPOにおいては『ぼくらの・・展』を提案、森本秀樹など好きな作家のコレクション展を実現させたが、これらの企画はアートNPOの事業の一つに育ち、会の発展にも貢献した。

『立島恵』氏は佐藤美術館の学芸部長である。『(財)佐藤国際文化育英財団』の選考委員、或いは東山魁夷記念日本画大賞推薦委員として若手作家育成など幅広く活躍中である。学芸員として取り組んできた日本画家マコトフジムラや岡村桂三郎研究については高い評価を得ている。アートNPOにおいては常務理事としてご尽力いただいたが、特にマコト・フジムラ氏の『アイアムの会』との共催展覧会『クリスマス・イン・ピース展』を成功裡にやり遂げることができたのは、立島氏の力量と佐藤美術館のご支援によるものである。

『黒田裕一郎』氏は、私が定年間近の時期に経営に携わったベンチャー企業時代以来の若き友人である。アートNPOの理事を快く引き受けていただいた上、各種アート企画の裏方的任務にご尽力いただいた。専門は出版業界の広告・営業であるが、個人的にはTOEICに挑戦し続け、700点を合格した努力家である。弘法大師空海を敬愛し、毎年大晦日に真言密教の道場である京都東寺を訪ねる旅を続けている。

『中谷孝司』氏とは、私が理事をしていた『(社)長寿社会文化協会』時代以来のお付き合いだが、美術と音楽のコラボレーション実現のため理事をお引き受けいただいた。音楽の世界で豊かな人脈を持ち、その後、『国立楽器』の代表取締役に就任、サロン・ド・ノアン主宰や一橋大学兼松講堂での大規模コンサートを推進している。業務多忙のため美術&音楽の企画は実現していないが、役員として変わることのないご支援をいただいた。

『廣川和徳』氏は家業である工務店経営の傍ら、『日本民家再生リサイクル協会』理事や街おこしボランティアなど幾つもの活動に関わっている。アートNPOにおいては『コレクターの見る視点展』に毎回参加、藤倉明子など若手作家を紹介する他、アート街作りの提案や、クリスマス・イン・ピース展のオークション入札箱製作など裏方としても貢献していただいた。古民家や伝統建築の魅力を熱っぽく語る、気さくな人柄の好人物だ。

『太田信之』氏は若い頃からの我が尊敬する先輩である。某大手建材メーカーを定年退職後、早稲田大学の特別研究員&講師の他、環境保護の視点からの木造建築・伝統的工法の重要性を世に問うべくNPO法人『建築市場委員会』を設立、事務局長として活躍中である。アートNPOでは監査役としてご尽力いただいた。三味線・小唄などの趣味人で、蓼流玉和会の幹事でもある。いずれ辰巳芸者の古き街で津軽三味線の流しをやるのだそうだ。

『市民派アート活動をご支援いただいた人々』

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
 人間一人の力で出来ることは小さい。かつて或る易学者が私の運勢を占ってくれたことがある。生涯通じての全体運は“境遇運がいい人生”、つまり“人に恵まれる星まわり”とのことであった。その通りだと思った。不思議なことに私の周囲にはいつも人がいて、仕事では優秀な同僚・部下に恵まれ幸運な会社人生を全う、個人的にもよき友人たち、よき家族に囲まれて生きてきた。

  アートNPO立ち上げ時にも同じことを感じた。美術愛好家は別にして、市民派アートも現代美術もよくわからないけど、「わかった、協力するよ」と義理と人情で会員になってくれた友人も多い。そんな訳で大勢の人に支えられ、予想以上の活動が実現した。この冊子はそんな方々へのお礼の気持ちから企画したのであるが、以下は、組織立ち上げに共に取り組んでくれた友人たち、展覧会企画に参画してくれたコレクターたち、趣旨にご賛同とご支援をいただいた方々、そんな会員お一人お一人のひとこと紹介である。(アートNPO推進ネットワーク代表 山下透)

※それぞれクリックすると1~7のお一人お一人の紹介文が読めます。

1、《アートNPOの中核としてご活躍いただいた方々》
2、《理事・相談役など役員としてご支援をいただいた方々》
3、《事務局ボランティアなどのご支援をいただいた方々》
4、《コレクターとして活動支援していただいた方々》
5、《ビジネスの世界から応援していただいた先輩・友人たち》
6、《画廊など美術専門家の立場から応援していただいた方々》
7、《アートNPOの趣旨にご賛同とご支援をいただいた方々》

『画家の立場から』藤岡泠子 

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 2003年、韓国で開催されたリ・ウーハンの回顧展を観るツアーに参加しました。当時、友人の家でみた彼の若い頃の数点の素描が頭を離れず、初期の仕事をみたいと思っていました。8人のこじんまりとしたツアーで、そこに山下氏も参加しておられ、美術館、画廊巡り、作家訪問、おいしい韓国料理と贅沢な三日間を過ごしました。その山下氏がアートNPOの活動をしておられることを知りました。活動の主旨をうかがっても描く立場にいる者として今ひとつピンときませんでしたが、コレクター達の展覧会に参加してみて、会員の方それぞれがそれぞれの形で参加され、ひとつの運動を盛り上げておられる様子は実に楽しそうでした。特に独学で絵を学んだり、団体に所属することなく独自の世界に挑戦しつづける画家たちに注目する、その視点に新鮮なものを感じました。私の見る展覧会はほとんどが知っている人たち中心でかなり狭い範囲に限られていて、絵を楽しむというより仕事の一部になっている気がしています。若い時は好き、嫌い、で見ている事が多かったと思いますが、年と共に別の見方ができるようになったとはいえ、まだ自分の枠の中で見ている事が多いと感じました。

 私は絵を描いていますが、画家といえるのかどうか疑わしいと思っています。知り合いの年配の女流画家に「絵で生計をたてていて始めて画家といえるのです。貴女のようにご主人に生活をみてもらっているようでは、ただ趣味の人ですよ」と言はれ続けています。確かに一理ありますが、絵が売れるという事は、いい絵だからとは限らないと思います。「いい絵とは?」となるとこれも難しい事です。描く側と見る側との心が響きあったとき、見る人にとってその作品は好きないい絵となるのだと思います。アートNPOの活動の根底は、ここの所を大事にしているのだと思います。

 大学、大学院と美術系の大学を卒業して、私がフランスへ渡ったのは26才の時でした。当時としては微妙な年頃でしたので、両親の反対も強くかなりの決心で出かけました。まず驚いたのは空気が澄んでいる事、物の見え方がまるで違うのでした。そして日本ではさほど気にならなかった自分が女である事を、常に認識していなければならない事でした。これはとても煩わしく疲れる事でした。緊張を続ける自信もなく、1年で帰国する決心を早々にして、見る、吸収するに徹し、パリを拠点にあちこち歩きました。帰国後、家庭に入り札幌で10年、澄んだ空気の中、常に自然を身近に感じて過ごしました。中央画壇の動きも全く耳に入らずのこの時期は自分の心の中をみつめる貴重な時だったような気がします。今も年1度は北海道を訪れ、自然の中に身を置き同化していく・・・風の音がきこえ、雪の降る音がする、氷がきしむ・・・・自分の心に響く自然の息ずかいを表現したいと思っています。そして見る人の心の中で又大きく世界が広がっていく、そういう作品が描けたならと思います。

 作品を制作する者と鑑賞者、立場は違いますが、共に美術を愛する者として、いいお付き合いができることを楽しみにしております。
                                        
(画家 国画会会員)
 

『山下さんと私、そして中国陶瓷器研究のこと』水上和則 

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
1、山下さんと中国陶瓷器との出会い
 山下透さんと初めてお会いしたのは、今から13年前の1995年の早春であった。文京区春日にあった“ギャラリー繭”の現代作家の作品展会場でのことであったと思う。その頃の山下さんは現役の損害保険会社の部長さんであり、すでに現代絵画のコレクターでもあった。

 私のほうはといえば、大学の非常勤講師も6年目に入り、いささか生活にも疲れ、学問への目標も定まらぬままにギャラリーで出された茶を飲み中国陶瓷を見て、某かの感想をもち気持ちを自由に漂わせて再び椅子に座るという、要するに怠惰に時間を浪費していた時期であった。

 その日、ギャラリーの主人に山下さんを紹介された。私は現代美術のコレクターと会うのは初めてのことでもあって、「存命の某現代作家の作品値段は、ずいぶん高いのでしょう」などと、間抜けな質問をしていた。山下さんは、ギャラリー主人のプライベート中国陶瓷コレクションを見ながらも、現代作家の作品が気になる素振りであった。私の山下さんに対する第一印象は、現代美術の収集には精力的な、どの様に現代を表現するかのテーマに強く興味をもっている人で、立体造形品のもつ形状の美しさにあまり興味を示さない人のようだ、というものであった。今から思えば、初めての中国陶瓷に大いに戸惑いがあったのであろう。

2、香港骨董街古陶瓷探索の旅
 この年の6月のある夜、そのギャラリーで山下さんと顔を合わせたが、この日は私の2度目の香港行きから帰った翌日の事であった。旅行は香港の友人に会いお願い事を託し、美術館と書店を回り 楽しみにしていた古董街での買い物をして帰国したもので、ギャラリー主人依頼の古董品の買い物である漢時代陶屋の梱包を解いていたときであったと思う。私が、私自身のマイコレクションである子供の俑(人形)3体を、自慢げにテーブルに並べていた時である。踊っているような仕草の子供の俑は3体ともに高さ7・8cm程で、造形的にしっかりしたものであった。山下さんは、「可愛いですね、これ、お譲りいただけませんか」と、突然言われた。中国陶俑のもつ面白さは、西洋雕刻のもつ解剖学的正確さとは異なるもので、その魅力は、人物や動物の特徴をより強調する特徴の取り上げ方の妙にある。しかも、佛像雕刻にもつような多くのテクニックの萌芽がすでに漢代に見られる等である。山下さんは開眼したのか、以来中国の俑を中心に、奥さんのための茶器など中国陶瓷の良品を探されるようになった。

 その年の暮れ12月、山下さんとギャラリー主人、そして私、他の中国陶瓷愛好家等と共に小さな旅行団を組み、香港古董街をぶらりと歩く旅に行くことになった。古董街の坂道を、掘り出し物を求めて昇ったり降りたり、数十軒の店を覗いた。陽も暮れ、みな、手に手に獲物を持って、疲れた足をホテルのレストランに休めた。中華料理の舌鼓と共に、各人の収獲品の自慢話も絶好調に進む。年の瀬の迫った香港の飯店では、金色に塗られた3mを越える樹に紅い歳玉の袋が無数にぶら下げられており、「發財」の豪華な飾り付けが中国の正月気分を、それこそ、この上もなく盛大に盛り上げていた。非日常の中華世界と古董品のお買い物、気の置けぬ仲間との香港旅行を私たちは心より楽しんだ。

3、白山の仕事場での古陶瓷談義
 その後 山下さんとの付き合いは緊密になった。その頃私は、文京区白山に小さなアパートの一室を借りていた。昭和初期の建物で 木造三階建て、各室出入り口の扉にはひし形の目隠しガラスの入った、住民は年寄りばかりのアパートであった。使い古された階段の手すり、磁器でできた電気のヒューズ、共同の流しに共同のトイレ、「三丁目の夕日」セットにも使えるような昭和レトロ棲家であった。
 山下さんの私への訪問は、現役バリバリの先輩が、ウダツの上がらぬ後輩を元気付けるために訪ねる姿を想像されるだろう。何の用事でのご来訪か、もうすっかり忘れてしまったが、私は「おやっ!」と思ったことを記憶している。建物全体のもつ昭和の雰囲気と、誰に認められるのでもない私のコツコツ続けられる中国考古学雑誌の調査と、画像データベース作成から完成への努力が、山下さんの「男気」を刺激したのであろう。弱肉強食の世界に生きる山下さんが、私自身に興味を示してくれたのだ。以来しばしば、私のアパートを訪ねられては、近所のお好み焼き屋で鉄板を囲み、データベース進捗情况を訊ねられ中国陶瓷の話で熱がこもった会話が繰り返された。
 そして、ある日突然山下さんは、私のアパートの2階8畳間を借りることになった。部屋を借りた理由はともあれ、そんな人情の厚いところのある山下さんであった。

4、奥様のこと、明代夫婦傭のこと
  山下さんの中国陶瓷のコレクションが徐々に増えていた頃、私には初耳の事があった。奥様がご病気で、しばしば入退院を繰り返していると言うことであった。病院に近い新宿にマンションを購入され、奥様の友人たちが気楽に集まれる空間を準備された。
 その頃、私は古董雑誌『目の眼』に、中国陶瓷の連載記事を書いており、月一回刊行される雑誌用に中国陶瓷の名品を探していた。山下コレクションに良いものがあることは分かっていたので、写真撮影を予めお願いし雑誌社編集部とカメラマンとで新宿のマンションを訪ねた。たまたま奥様サロンが真っ最中の時で、お邪魔したことを申し訳ないと思いながらも、和室の部屋に照明が設えられ撮影が始まった。あの懐かしい3人の子供の俑が並べられ、そして30cmを越える夫婦の俑が撮影セットされた。極めて出来の良いもので、雕刻を学んだ私はその見事さに息を呑んだ。明代低火度緑釉の美しさ、造形の良さ、どこを取り上げても上級で、そこには作家の意識が強く宿っているようであった。
 悲しいことに奥様は亡くなられた。しばらくは電話もできなかった。落胆振りを思うと、お悔やみも言えない。夫婦の俑と、山下ご夫婦がいつまでもダブった。そして今も、大切な俑は、新宿のマンションに静かに置かれていると思う。
 私は若い頃、中国北京に留学、西安など各地の窯場を訪ね歩き陶瓷器の破片調査に没頭するなど、中国古陶瓷一筋の人生を歩んで来た。そういう私の生き方に、山下さんは関心を示し、評価していただいた。現代美術と中国古陶瓷、世界は違うが、美しいものを求める心は一緒であり、これからも永いお付き合いができればと思っている。山下さんのアート活動にエールを送りたい。

(中国古陶瓷研究家)
 

『画廊の一隅から』谷川憲正

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 人生は、合縁奇縁とはよく言ったもので、人との出会いは実に不思議で楽しいものです。古い友人であるにもかかわらず、どうしてもしっくりと理解し合えない人がいるかと思えば、なんだかつい最近知り合ったばかりなのに、やけに意気投合したりすることがあります。市民派アートコレクターズクラブの山下透様との出会いは、まだ、一年も経っていない。なのに随分と以前からの面識があったように思えてしかたがない。

 私の前身は美術雑誌の編集である、で、画廊の空間に訪れてくれた方々の佇まいで、その人となりを以外と感じとったりするものです。と言うのも、私共の画廊は誰もが気取らずに入れる空間で、“版画に市民権を!”と言うのが画廊設立のコンセプトです。ではなぜ、そう言う発想になったのかといえば、編集の頃、上野の公募展を開館前の2~3時で取材をするのですが、10時になると全国から団体展を見学にやってくる奇特な学校もあるのです。ところが、きまって、先生から、観賞する前に“お言葉”があります。「厳しい審査の末、全国から集まった作品をしっかりと鑑賞(・・)しなさい…!」その言葉が発せられると、遠足気分の生徒達に緊張が走り、順路どうりに従ってのおごそかな鑑賞(・・)が始まるのです。この光景とよく似た経験をしたことがあります。それは、初めての海外取材でヨーロッパへ行ったとき、旅行会社の方の過剰なまでの忠告に海外出張の高揚した気分がいっぺんに緊張に変わったことを思い出すのです。広い公募展の会場で先生は生徒たちへこう言えないものかと…。「沢山の絵がありますが、自分でいいと思う作品を1点」いや1点選ぶことが難しかったら、「好きな作品を3点探してきてください。」と…。

 色々な体験から学び、私共の画廊は常時200点ぐらいの作品を自由に手に取り、触れるようにしています。そんな空間に山下さんがふらりと立ち寄ってくださいました。多くの作品の中から、どの作品に視点がいき、作品とどう対峙されるのかでその方の個性が理解されます。山下さんの絵に対する思い入れと見識はすぐに伝わってきました。少しの立ち話の後に、市民派アートコレクターズクラブの紹介があり、その話の内容は、すぅーっと心を打った。市民派コレクターの皆様が目指す社会貢献と、版画に市民権をと言うコンセプトが共通する部分があるのではと感じたからです。

 神保町の冨山房ビルの地下にある喫茶店・フォリオでコーヒーを飲みながら2~3度、雑談をしたことがあります。話の中に何度か欧米人と日本人の美術への係わり方の違いを口にされた、私も同感だと思う。美術にかぎらず音楽、演劇、その他、芸術文化に理解のない人は有能なビジネスマンとは認めてもらえないのが欧米です。ところが、我が国では、美術の話をしようものなら、今はやりの言葉で言えば“空気が読めない”とばかりに、その場が白けてしまった経験をされた方がこの市民派コレクターの中にもいらっしゃるのでは…。

 美術雑誌の前に、出版社の社長の意向で、政治、経済、文化(美術)で活躍する人々を結びつけるための総合雑誌の編集に携わったことがあります。若い編集者3人は、これは面白い雑誌になるぞ、するぞとそれぞれの得意分野で熱く燃え、社の応接室に泊まり込み原稿を書いた。今、想えばこの老社長は異なる分野の交流をはかり、文化へのサポートをもくろんでいたのだと思えるのですが、しかし、残念ながら2年で廃刊になってしまった。それでも当時の政治、経済で活躍する方々は美術への造詣が深かったように思う。少なくとも今ほどではない。日本はバブル敗戦で、またしても、国の方向性を無くし、個人のバランス感覚を失ってしまったかのようです。

 ここで、海外のコーポレートアートを紹介したい、チェースマンハッタン銀行がこの事業に乗り出したのは世界大戦のすぐ後で、当初の年間予算は一億円たらず、この会社の規模からすれば、僅かな出資でしかありませんでした。しかし、日本の企業と違うのは、社内に専門のキュレーターを育成することから、この事業を前進させるのです。そして、継続は力なりと70年近くも経た今、このプロジェクトがもたらす社会的貢献たるや、市民派コレクターの皆様ならすぐご理解いただけると思います。

 日本の場合、この経済敗戦の後、国ならび企業の指導者は、会社の贅肉を切れとばかり、仕事をシェアーすることが常識なのだそうです。もともと、日本のコーポレートアートは外注が多く、企業が経済不振にでもなろうものなら、一番先にカットされ、これでは文化など育つはずもないのです。今、美術業界を支えているのは、個人のコレクターであり、企業の美術へのサポートなど微々たるものであると思う。

 山下様の活躍を、新聞コラム“市民派コレクターたちの挑戦、趣味と社会貢献の合体”で読んだことがある。この活動が目指すものは要約すると、コレクターと言う個人の力を社会の中でどう展開できるかが大きなテーマだと思える。氏は美術と個人の係りもさることながら、さらにその関係を社会の中にどう生かし、位置づけていくかを常に考えておられるのでは、そして、個人の力が行政を動かす力になって欲しい。市民派コレクターの会が大きな流れに成長し、社会の運動となることを心よりお祈りしております。
                            
(海画廊 代表)

『市民派コレクターの草分け・小島烏水のこと』沼田英子

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 私が山下透さんとお会いしたのは、横浜市民ギャラリーでこの秋に開催した展覧会「ニューアート展2007 林敬二と3人のアーティスト 森本洋充、マコト・フジムラ、安美子」に、マコト・フジムラ作《贖いの蓋》をご出品いただいたことからでした。この展覧会は、横浜にゆかりの深い洋画家、林敬二氏の作品とともに、同氏が共感を覚える現代作家3名の作品を紹介するという内容で、具象性と抽象性が融和する不思議なヴィジョンの世界と深い精神性が4人の作品に通底し、充実した展示となりました。

 マコト・フジムラ氏のセクションは、林氏が《二子玉川園》に強い感銘を受けたということから、フジムラ氏と相談して《二子玉川園》を核として10点の作品を選びました。なかでもフジムラ氏が出品を強く希望したのが、芸大の修了制作《二子玉川園》と山下さんご所蔵の《贖いの蓋》です。前者は、100点にも及ぶ二子玉川園シリーズの最初の作品で、画家がキリスト教の信仰に目覚めたときの心情を当時住んでいた土地の風景に託して描いたものです。大きな画面に画家の心の葛藤と信仰に目覚めた喜びが直截的に描かれていて胸に迫るものがあります。一方《贖いの蓋》はやや小さな作品ではありますが、二子玉川で象徴的に描かれた樹木を、天使が静かに見つめている穏やかな作品で、画家の心の平静と信仰の深まりを感じさせます。プライベートな空間で《贖いの蓋》のような作品と対話をし、また気のあった人と感動を共有することは、個人で作品を持つ大きな喜びであることでしょう

 私は、山下さんから「市民派コレクター」の活動の話をうかがい、市民派コレクターの草分けともいうべき、小島烏水のことをご紹介したいと思いました。小島烏水(明治6~昭和23)は、日本山岳会を設立した近代登山のパイオニア、そして『日本アルプス』など紀行文学の作者として知られていますが、横浜正金銀行に勤めながら膨大な浮世絵と西洋版画を蒐集した、サラリーマン・コレクターだったことを知るひとは多くありません。

 少年の頃から浮世絵版画が好きだったという烏水は、登山や旅との関連から広重の浮世絵版画を収集するようになりました。やがて当時優れた浮世絵が大量に海外に流出している状況にショックを受けて、国内に浮世絵の優品を留めることの重要性に気づき、本格的なコレクション作りに取り組むようになります。彼は、また日本人自身が浮世絵の価値を正しく理解する必要性を感じ、独学で浮世絵の本格的な研究を始め、大正3年には日本で初めての実証的な浮世絵研究書『浮世絵と風景版画』を出版しました。晩年、烏水は収集した300点余りの浮世絵コレクションを売り立てましたが、そこには、優れた浮世絵が一人でも多くの個人コレクターの手もとで享受されるようにという思いがあったと綴っています。

 また、大正4年から11年余りに及んだ横浜正金銀行ロサンゼルスおよびサンフランシスコ支店勤務の時代には、西洋版画に出会い、人々が版画を芸術として享受する文化に驚いたといいます。彼は独学でデューラーからピカソに至るまでの歴史を辿る名品500点余りを収集し、帰国後、その内約350点を選んで展覧会を開催して、西洋版画の魅力を日本に伝えました。

 確かに、版画を中心とした烏水コレクションは、同時代の松方コレクションや大原コレクションに比べると小さな規模です。しかし、自分自身の目で見極めて選んだ作品に対する愛情の深さや、日本と西洋の版画芸術を同等に評価し、その魅力を普及しようとする志の高さは、大コレクションに負けないものがあるように思います。そのコレクションの散逸を逃れた部分が、現在横浜美術館に収蔵されていますが、特に体系的に整えられた西洋版画の作品群は、美術館の貴重な財産となっています。

 私は、前任地の横浜美術館で学芸員として長年烏水コレクションの調査をするなかで、次第にコレクターとしての小島烏水の魅力に惹かれてゆきました。彼は、銀行員として勤めを続けながら、帰宅後の時間を使って作品を研究し、休日には画廊や古書店をまわって作品を収集しました。更に登山家として前人未踏の数々の山々に登って紀行文を執筆したのですから、驚くべきエネルギーです。そして、その忙しい生活の中で、彼は深夜の書斎でひとり気に入った版画を手にとって眺めることを無上の喜びとしていたといいます。
 
 山下さんが「コレクションは自己表現のひとつ」と述べておられるように、コレクションとコレクターの関係はさまざまです。烏水の場合は、開港間もない横浜で、常に東西の文化を意識しながら育ったことがそのコレクションにも反映しています。それは日本の伝統的なものを大切にすると同時に、憧れをもって未知なる西洋文化に挑戦する明治の横浜人の生き方そのもののように思われるのです。

(横浜市民ギャラリー 副館長)

『魂を世話すること』佐藤よりこ

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 私が初めて山下さんとお話させていただきましたのは、ある方の個展のオープニングパーティで、共通の知人にご紹介いただいてのことであったと思います。ニコニコとお話なさる山下さんが市民派アートコレクターズクラブを主催され、精力的に様々な活動をなさっておられることを知ったのはずっと後のことでしたが、穏やかなお話ぶりの中にも、芸術に対する並々ならぬ情熱をお持ちでいらっしゃることに感じ入った思い出があります。後に、活動の内容をお聞きし、まさに芸術へのその真摯な情熱が、コレクター活動を個人のものとして留めるだけではなく、多くの方々と手を取り合いながら社会的な活動へと展開されておられるパワーの源なのだろうと思い至りました。
 
 私もまた、エコール・デュ・ルーヴル(ルーヴル美術館付属大学)ならびにルーヴル美術館研修での体験から、優れた芸術が感動をもたらし自らの精神を豊かに高めてくれる存在として、また本来直観でしか捉えられない形而上的「世界」を眼前に知らしめてくれる存在としてたいへん重要であること、そしてまたその深い意味を探ることが人生の大きな喜びに繋がることを日本の皆さまにお伝えしたいと長年考えてまいりました。その過程の中で、私は「Facciamo la filosofia―魂を世話する会―」という集まりを主催し、西洋芸術の本質に迫ることそして自らの思索を深めることを目的として、おおよそ2700年間続いている西洋美術の長い歴史を、古代ギリシャを出発点として網羅していく講義を行っております。それは、西洋芸術の本質をつかむためには、19世紀を中心とするあまりにも偏った芸術観や展覧会の在り方を超えて、古い時代とりわけ西洋芸術のクラッシックとされる時代を知っていただきたいという思いがあったからなのですが、私のその考えに山下さんはたいへんご興味をお持ち下さり、以後積極的にご参加下さることとなりました。今では、われらが仲間と共にとても楽しい時間を共有させていただいております。
 さて、芸術というものは感覚的なものであって、芸術家は感覚で動く人間であり、芸術作品は感覚的に制作されたものだという考えは現代の日本における一般的な考え方かもしれません。しかし、西洋芸術の長い歴史を振り返りますと、つねに個人の存在だけに帰される感覚的存在としての芸術観は、実は19世紀後半以降のわずか100年ほど前からの傾向であると言えるのです。かつての芸術はもっともっと社会的な存在、社会との密接な関係のもとに存在していたものであり、社会的背景を考えることなしには成り立たないものでした。逆に言えば、社会的背景は、その作品にまつわる技術的・造形的・精神的要素それらすべての母体としてあらゆる側面に影響を及ぼしているわけで、それらを知ることなしには作品の深さに到達するのは難しいということになります。
 
 ただ、芸術を感覚的に享受する喜びは、もちろんどんな時代の作品においても第一義的なものですが、美術史という学問のほんとうの面白さは、やはり精神的要素に思いを馳せることの中にあると私は考えています。図像的・描写的・造形的分析(主題、様式、技術、素材、モチーフなどの分析)何時、どんな時代に、どこで、誰が創ったのか、何の目的で、一体誰のために、どんな方法で、どんな素材を使って、どんなプロセスを踏んで、どれくらいの時間をかけて、何が描かれ、何を描こうとしたのか、そういった具体的なデーターや知識を得ることは芸術を学ぶ上での基礎的なことでしかありません。それらは、実は作品を理解するためのほんのわずかな手がかりでしかないものであって、大事なのは「見えているもの」の奥にある「心に感じるもの」なのです。それこそが作品のもつ「魂」と言っていいものであり、その「魂」のもつ深い思索に思いを馳せてこそ、ほんとうの面白さを得ることが出来るのではないかと思います。
 芸術はまた、大きなうねりを伴った時代の流れの中において人類が求めてきた価値あるものとは何であるのかということ、そういったことをも知らしめてくれる存在です。さらには、そういった作品に巡り会いそれについて深く思索することが、自分のほんとうに好きなものを知らしめ、ひいては自分自身を知らしめてくれるということだろうと思います。ソクラテスは、「魂の世話をすること」とは「自分自身を大切にすること」であると言います。まず自分を知ること、そこからすべてが始まるのだとソクラテスは言いますが、自分で自分のことを知ることはとても難しいことです。自分を知るためには、自分と他者との関係を、自分と自分を取り巻く「世界」との関係を考えてみること、そうしたことが必要です。
 その意味において、哲学とともに芸術は、何より自分と自分を取り巻く「世界」との関係について深い思索を巡らせた人々の精神の軌跡であると言えるでしょう。それはこの現実世界の中で、目に見えない「心」あるいは「魂」のすがたに触れていて、それを具体的に知らしめてくれる極めて重要な存在です。そこからは、「人間とは何か」という普遍にして永遠の問い掛けへの答えが得られるような気がいたします。
                          
(西洋美術史家)
      

『“市民派”への思い』太田信之(蓼和之)

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 「市民派アート活動」の意味を考える時、歴史上古代と近代の2種類の「市民」が思い浮かびます。古代ローマの市民は、普段は自分の土地を耕して小麦などを作りながら、ひとたび戦争となると(建国の時から絶えず周辺国と紛争)、兵士となって国を守る義務を負う成年男子でした。政治経済的な自立と責任を伴う市民の原点です。従って芸術的な創作活動のようなものは、多くはギリシャ人の奴隷が行っていました。(奴隷といっても市民権が無いだけで、ギリシャの教養や技能には敬意が払われ、家庭教師など家族同然に同居しています)。ローマの家は石やレンガで構造が作られ、現在のように様々な家具インテリア小物が無く壁一面に風景画が描かれていたようです。これは古い日本の屏風や襖の絵のような効果がありますが、内容は銭湯の富士山くらいかもしれません。彼らが現代の家を見たら物置と間違えるのではないかと塩野七生さんが「ローマ人の物語」に書いていますが、公共の広場や建物(公共施設の建設にローマはきわめて熱心でした)は美しく飾られて、美術を共有化していた時代と言えるかもしれません。

 次に、近代の市民は、政治経済宗教の既存体制からの自立を目指した市民階級として登場しました。王侯貴族や教会に対抗して、勤勉な労働で築いた経済力と自由な精神を基に生まれた市民、今の私たちもその延長線上にいます。しかし、この近代的な市民の原型は、今いささか危うい状態に陥っています。現在の市民は、勤勉さを通り越して経済至上的になってしまいました。個々人の自由が欲望を際限なく拡げてしまい、公共的な価値も見失いそうになっています。人々の望むものは、利益の拡大を目論む企業などの他の人々によって意図的に作り出されてもそれと気付かず、本当の精神的自由を失いかけています。経済至上主義は新しいものを次々に作り出すために、常に新規性を求めて(往々にして個性的と評価されて商品価値が増します)、伝統的な善いものを忘れがちになっています。そう考えると、私たちの市民的なアート活動も、このような風潮に染まらずに、しっかり自律した市民であろうとすることをベースにしたいものです。

 私は現在、NPOを作って、地元の身近な職人たちが、近隣の森から切り出した材木を使い、伝統的な技術を生かした「住まい造り」の普及活動に携わっています。住宅は、これまで、新しい工法やデザインを競い合って、そのために余分なコストをかけて商品化され、一方で職人は手間代を切り下げられてその技術が報われていません。むしろ技術の要らないように工場で大量に生産して、そのための設備や宣伝に大きな費用をかけてそれを建て主に負担させていました。しかし、良い住まいは職人が額に汗して作り込むもので、商品化のための余分な費用は彼らにこそ払わなければなりません。従って、これからは職人と依頼主が共同して中間の無駄を省き、かかった費用を透明にした正直な家作りが必要です。また、一人ひとりが自分の好みのデザインを好き勝手に追及して、街全体の景観を損ねています。わが国の町並みは、まるで子供の雑多なおもちゃ箱のようだといった外国の建築家がいますが、これに対しては、公共の価値を共有していこうとする考え方が必要です。共有された本当に価値のあるものは長い歴史に耐えて、伝統となっていくのでしょう。私は趣味(道楽?)で三味線、小唄のお稽古に通っていますが、伝統的な邦楽に親しむことから、逆に、失われつつある日本文化がよく見えるようになりました。現在使われない様々な色(浅黄色は緑がかった青)や、季節の言葉をもつ繊細な感性に感嘆し、唄の意味が分からず古語辞典を引く困った現代日本人ではあります。

 アートの分野に話を戻しましょう。ここでも住まい造りにおける問題と同じような事柄が言えるかもしれません。これまで私が参加した市民派アート活動の中で、作家の方を囲んでの懇談会は、とても面白いものでした。ちょうど職人と建て主の対話と同じで、作り手と受け手の直接的対話は意義深いものがあります。

 また美術館めぐりも好いものです。公共の財産をもっと拡げるべきなのです。(願わくば、美術館の中の作品だけでなく外の街並み全体の美観へと続いて欲しいのですが)個人のコレクションには、経済的に限界があります。又、欲望はどうしても拡大して、欲しいものは際限がなくなってきます。従ってここでは所有欲をほどほどにして、持たざる自由ということを考えています。(余裕に乏しいことの言い訳、強がりのようですが)コレクションとして、たびたび出会うことも良いでしょうが、沢山のアートに一度だけ、一期一会の心で触れる、そんなあり方もあって良いのではないでしょうか。
                
(早稲田ロジスティクス研究所講師)
(NPO建築市場研究会事務局長)
(蓼派小唄玉和会幹事)

『消費と美術』伊藤厚美

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 少しばかり肌寒さを覚えた朝、急ぎ足でその会場に向かった。何をさておいても、その絵を見なければ・・・、混み合う前に。広いスペースに小さな絵が一点、乳白色の背景を持つその絵は確かな輝きを放っていた。「光の質量」が違うのだ。「牛乳を注ぐ女」、17世紀のオランダの画家ヨハネス・フェルメールの初期の傑作だ。印刷物で繰り返し見てきたものの、実物を見るのは初めてだ。近づいたり、離れたり、ポジションを変え、何度も見ていた。やがて辺りは、その絵を間近に見るための長蛇の列ができていた。会場では、同時に17世紀の「オランダの風俗画展」を開催。大海を支配、江戸時代初期に日本との通商を開いたオランダの17世紀前半は未曾有の好景気を実現していたという。そこで新たな富裕層が登場、絵画の世界にも大きな影響を与えていた。チューリップの球根が投機の対象になったのもこの時代だ。そういう背景を知って、風俗画を見ると見えてくるものがある。異国の、しかも数百年も前の時代を捉えたこれらの絵は、我々から見れば遠い昔話のように見える。しかしそれらはその時代の、まさに「現代」を描いた作品なのだ。所謂教会や王侯貴族ではなく、市民が絵画のパトロンと成りえた時代の登場である。その後ヨーロッパにおいては、18世紀に起きた産業革命の波が広がり、本格的な市民の時代が訪れる。そして、19世紀中頃には豊な市民社会、「消費革命」の登場をみる。その中で、美術はいろいろな形で市民生活に組み込まれ、浸透してきた。

 わが国においても江戸時代、17世紀には浮世絵という市民生活を捉えた風俗画が登場している。しかしながら、明治以降の欧化政策、第2次大戦後のアメリカによる占領政策以降、「欧米的近代化」が目標であり、その生活スタイル、思想の模倣を繰り返し行なってきた。そこでは市民生活に根付いたかたちの美術は広まっていかなかったように思う。その日本が豊かさを求める「消費革命」を迎えたのはおそらく1970年代であろう。そのころ、私はデパートの美術画廊に就職した。

 デパートに勤めるようになって、「売り絵」という言葉を耳にするようになった。それに対して「出品画」という言葉も知った。それは、公募展などに出す作品を指し、大作で、売る対象ではない、純粋に創作したものということだろうか。この安直な二重構造は、お客様に対し不誠実な言葉にも聞こえ、違和感を覚えた。しかし、買い易いものを意図的につくり出したとも言える。売り絵と言われているものは、部屋の調度品、「飾り絵」であった。美術の持つ精神性ということが購買の基準にはならない。結果、売られている多くは、時代精神というものと離れてしまい、旧態依然のものであった。20世紀初頭以来、そのデパートが美術品を広め、売る主要な場所であったことは問題であったのではないか。つまり、美術品が単に商品として広まっていても、美術の本質のコミュニケーションが一向に深まらない。モノの普及が精神の普及には繋がらないということだ。

 ブルジョワジーの台頭により、美術が市民生活に組み込まれてきた欧米では、貴族文化の所産、所謂サロン形式を模倣する形で広まってきた。サロンは社交の場であり、芸術は政治、文学と共にその主要なテーマであった。それは、初期においては特定の階層の出来事であったかもしれないが、その階層の在り様が雛形となり市民層に拡がったと考えられる。そして、美術がパブリックなものとなる道が開けたのではないか。

 消費時代が熟してきた1980年代後半、この国のあのバブル期、美術品の売り上げは一気に登り詰めた。それは、値上がり期待の投機的な動きが主要であったかもしれないが、消費を通じ贅沢な暮らしを手にしようとした結果でもあった。そして、崩壊後その動きは急速に失速した。しかし、バブルの崩壊は精神的な価値を考えさせる機会となったのではないか。時代の歩みは直線的には進まない。「私たちはなぜ生きているのか。何をしたいのか?」というような根本的な命題を多くの人が考える時期に来ているのではないか。

 現在、市民的な活動は次第に活発となってきている。その大きなエネルギー源として大量に登場するリタイア世代、つまり団塊世代のことをさしているのだが、彼等の行動が注目されている。なぜならば、消費時代に社会人となり、生活の基礎的な消費に一応の目途を立て、これからは自らの趣味嗜好によって行動しようとしている彼等は、消費社会に大きな影響を与える事が考えられるからだ。一般に「生産」と「消費」という言葉を眺めた時、生産はプラス、消費はマイナスという感覚がある。「生産」の中身についてはよく考えるが、「消費」のそれについてはどうだろうか。しかし、今我々が目にする事のできる文化財は「消費」の結果でもあることに気付く必要がある。現代では多くの人が、「生産者」であり「消費者」であるが、封建時代において、支配階級は「消費者」としての存在のみであった。「消費」を追及したのである。それは何を意味しているのか、考えてみる必要がありそうだ。

 かつてのヨーロッパサロン文化は、芸術と共に多くの思想も生んできた。現代では、マスコミが思想のリーダーのように見えるが、このマスコミもマス社会の市場原理に沿って動いている事を忘れてはならない。明確な「意思」を持っているわけではないのだ。私は、目覚めた個が中心となって、小さな場が数多く生まれてくる社会、そういったイメージを持っている。その場とは、現代版サロンでもある。マス社会的な受身の発想ではなく、小さいながらも発信者たる事が必要だと思う。モノが思想とともに練りこまれて、拡がっていく。その様な過程を現実のものとする事が肝要だと思う。言ってみれば草の根的な考えであるが、そういうことでなければ深さをつくり出す事はおそらく不可能であろう。

 山下さんが提唱している「アートNPO」と言う思想はまさにそういうことを示唆、啓示しているのではないか。それは、何も目に見える形、大げさな動きでなくてもよい。例えば、芸術の話題が日常のお茶やお酒のテーブルに載る、そのような事を如何に促すである。 
                
(アスクエア神田ギャラリー 代表)

『出会い』立島 惠

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 それはマコトフジムラとの出会いから始まったと言っても過言ではありません。 1997年当館で開催したマコトフジムラの個展にあたり作品の所蔵者であった原田俊一氏、山下透氏の紹介で多くの美術コレクターや美術愛好家と知り合うことができました。 この数々の出会いはその後の私の学芸員人生にとって極めて貴重な経験となり財産となりました。

 彼らの多くは美術作品をただ単に自らの趣味、趣向の赴くまま蒐集するということに止 まりません。蒐集に哲学を持ち、蒐集した作品やその経験を生かしアートにかかわる社会 活動を行うなど、もはや「コレクター」という言葉だけで括ることの出来ない高いこころ ざしとその姿勢を感じるものでした。

 先に触れたフジムラの個展は様々な困難を伴いました。といいますのも、97年は我が 国が「バブル景気」と言われたまやかしの経済現象が崩壊した後、社会全体がその後遺症 からなかなか立ち直れず、私たちアートを取り巻く状況も経済的な影響を被るだけでなく 今までの価値観や構造さえも見直す必要に迫られた時期だったからです。
 そんな中、フジムラの作品の所蔵者たちは貴重な作品を貸し出し提供するだけでなく展 覧会のための様々な支援活動も率先して行い美術館を支えてくれたのです。

もちろんこのような活動は当館だけに止まるものではなく、コレクターのネットワーク は、おそらくこの冊子の後の項で触れている、他の美術館や画廊への支援、更にはオルタナティブな場の創出とその運営にまで広がっていったのです。

 そしてその最も大きな成果のひとつとして私が紹介したいのが、これもまたこの冊子の後半で触れている「平和へのメッセージ展」(Christmas in Peace)の開催についてです。

 このイベントもまたフジムラの提唱によりスタートしたものでした。
 フジムラはニューヨークに在住していたため、あの911の大惨事を目の当たりにし自 らも被害者となりました。そしてその極めて辛い体験のなかから芸術家として今何が出来 るのかを自らに問うたひとつの結論が911により精神的にダメージを受けた市民をサポ ートする活動「トライベッカテンポラリー」(註)でした。このフジムラの活動に感銘を 受けた私たち日本の美術にかかわる有志とフジムラにより考えられたのがこの平和を願う プロジェクトだったのです。

 「平和へのメッセージ展」は当初佐藤美術館のみでの開催を予定していましたが予想を はるかに上回る多くの人びとの協力を得ることが出来、最終的には当館を含む3会場での チャリティー展、シンポジウムそして音楽イベント(クリスマスコンサート)にまで広が ってゆきました。画家、ミュージシャン、コレクター、ギャラリスト、学芸員そして一般 から募ったたくさんのボランティアスタッフにより運営されたこのイベントの来場者は4000名を超え、その売り上げはプロジェクト終了後ユネスコに寄附されました。

 しかしこのイベントの本当の成果は「平和への願い」をこの事業にかかわった全員が共 有できたということにあると私は思うのです。
 アートは見て接して楽しむだけのものではない。つくる側と見る側の単純な関係だけで はないということ。つまりさまざまな立場、多くの人びとが有機的精神のもと能動的に参 加することで新たな可能性を見いだすことができるということなのではないでしょうか。 文化芸術不毛の時代と言われ久しい昨今。しかし、本当は決してそうではなく地方の小 規模なNPOやコミュニティーなどの活動を丁寧に見てゆくと地域に根ざしたとても建設 的な素晴らしい活動がたくさん存在するのです。

 フジムラが実行したトライベッカテンポラリーもそうであったようにひとりひとりの自 覚と勇気が芸術(アート)をひいては社会全体を活性化するちからであってほしいと私は 心より願っているのです。

(佐藤美術館 学芸部長 立島 惠)

註:911直後、街のオフィスや店そしてギャラリーまでもが閉鎖されていた時期、ト ライベッカの自らのアトリエを人びとが集まり安らげる場所として解放。その後作家たち も集まり展覧会も開催されるようになり、作家と市民とによる新たなコミュニティーがつ くりあげられるきっかけとなった。

『よい作者を支えるもの』大倉宏

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 2000年に新潟絵屋を始めた時、一番考えたのは「見る人」の主体性ということでした。振り返ってみるとそれは、作品を作者から切り離し、見る人との関係で、とらえ直すことだったという気がします。
 
7年たって考えるようになったことは、けれどその作者と見る人の関係についてです。「市民派コレクター」という聞き慣れない言葉のことも、その文脈で考えはじめるようになりました。
 
画家を画伯、先生と呼び、最初から一段高い場所にある存在として、そこから作品を拝領する、「見せていただく」という感覚が、どうして日本人に根付いてしまったのか。背景に明治40年の文部省美術展に始まる、東京集中型の全国公募展の歴史的努力があったことを、経験や90年代に相次いで出た研究書などで学びました。

 好きではない中央の言葉を、あえて使うなら、日本の各地方の美術家たちは明治末から昭和にかけて、東京という「中央」に暮らす公家や貴族、ならぬ、文展の延長である日展や民間の各種公募展によって「荘園化」されました。二科荘、一水荘、光風荘、独立荘、自由荘、春陽荘、行動荘、国画荘、主体荘、一陽荘、モダンアート荘…など、中央領主の所領に細分化されてきたのが近代日本の東京を含む地方の美術家地図でした。もちろんそれは、中央貴族=公募展主催者の絶え間ない土地所有、ならぬよい美術家囲い込みと、それによる勢力拡大への熱意あってのことでした。

戦後どの荘園にも属さない、よい美術家が多数登場するようになり、彼らの作品が「現代美術」と呼ばれるようになりますが、これを当初支えたのが読売アンデパンダン展という、東京で開催される無審査公募展だった事実が語るように、荘園という名を持たぬ、もうひとつの中央荘園の性格を、それは持っていました。やがて生まれてくる地方の公立美術館は、荘園領主たちの私的な争いから距離をおこうとして、この隠れ中央荘園に接近する傾向を持ちます。地方美術館が「現代美術」荘園になっていく現象と、他の荘園に属する地方美術家との軋轢がこうして生まれます。

そこで疎外されてきたのが、どの荘園にも属さない、地方の「見る人」たちでした。見る人は特定の荘園に属するというより、各中央荘園の「中央」という言葉に、精神的に従属するものとされ、中央に属するものをありがたく「拝領する」ことを、作る人々に期待され、押し付けられますが、作る人々と摩擦を生じた美術館もまた、それに力を貸しました。 地方のほとんどの「名のある」作者が「現代美術」を含む中央荘園に属している事実。そこから生じる「中央」の言葉の魔術を、一旦無効にしないなら、作品と見る人が対等に生き生きと向き合えないという認識から、作者と作品を切り離す荒事の必要が発想されてきたのだと思います。

新潟絵屋を始めるにあたり、仲間と突っ込んでそのことを話し合ったわけではなく、あくまで、私個人の漠然とした感覚としてあったものですが、大工、写真家、家具職人、俳人、デザイナー、雑誌編集人、建築家、イベントプロデューサー等という違う職業を持つ人たちに、それとなく共感してもらえたらしいのは、彼らがみな、新潟という場所に生きる、独立した一個人の風貌を持つ人々だったからだったという気がします。いろいろあった7年でしたが、新メンバーを加えながら、いまだに私たちがつながっていられる理由も、そこにあるのだろうと感じます。美術というジャンルに作り手として直接関わらなければ、美術の荘園化闘争とも無縁でいられるわけで、美術がどこかしら好きな、美術家ではない人々と新潟絵屋を始めたことが、直感的な選択ではありましたが、正解だったと感じています。

「見る人の、見る人による、見る人のための企画展空間」というキャッチフレーズで、共感する会員の会費でサポートされる非営利の企画画廊との看板を掲げ活動をスタートした当初、思いがけなく既存の画廊のいくつかから反発を受けました。「貸し」と「企画」という画廊の二つの展覧会の様態を比較し、後者に見る人の主体性があるとの主張に、主に「貸し」で現代美術の作者たちの発表の場を提供してきた画廊の人にささる棘のあったことを、違和感を表明され気付きました。団体という中央荘園に属さず、個の立場で制作する作り手を支援する活動を、長く続けてきた画廊にとって、見る人と作る人を切り離そうとする主張が、自由な作り手をサポートしようとしてきた立場を否定するものと感じられたのです。それらの画廊に見る人として親しんだ者として、言葉のいたらなさを感じつつ、切れた作る人と見る人は、ではどうやってもう一度つながれるのかと考える、ひとつの切っ掛けをもらった気がします。

作り手ではなく、作品に共感する見る人が、企画者として明記されることを原則に、月3回の企画展を開くとの原則で活動を続けて7年が過ぎました。そして、改めて思うのは、画廊の個展が、一方で企画者という見る人の主体を介して成り立つものだとしても、他方で作家=作る人の合意と主体的な関与なしにも絶対にまた成り立たないという、当然な事実の意味です。

主体的な個人=見る人の作品への共感は、その作品の作者が属する荘園領主が「中央」に在ることへのへりくだりとは違います。作者が荘園に属する、あるいは荘園になることの内にそのへりくだりを、見る人に求める気持ちがどこか隠されているとするなら、そのような作者の気持ちと切れた場所で作品に接すること、そして個展という空間をそのような場所とすることには、意味があります。画廊という閉じられた場での、個展という形自体にも、作者が属するものと、作品を切り離す作用がありました。

けれどそのように、作者と作品を一旦切り離す装置としての見る人の企画による個展をくり返し、強く感じられてくるのは、荘園の魔術から解かれて見えてくる作者のよさ──言い換えれば、作品を通じて現れてくる、作者の像への尊敬です。その作者の像は、実際に接して受ける生身の作者の像と、時にずれて、見る人の前に現れてくることもあります。画廊経営者には、作り手と直に接することを好まず、物故作家を中心に扱おうとする人がありますが、いい作品を作る人が、画廊=見る立場に立つ側にとっては必ずしもよい人でなかったりする(それは主に、作り手が見る人の主体性を侵害するという形で表れます)。あるいはよい作品を作る人が、よい人であることもあり、よい作品を作らない人がよい人であることもあります。

しかし見る人にとって揺るぎないのは、生身の人でなく、あくまで共感する作品から見えてくる作者の像です。けれどその作者の像は、その像をもたらす作品を実際に作る生身の人がなければいないとの事実も、揺るぎない。その生身の人を支えないと、作者の像も支えられない仕組みです。見る人の内に作品を通じて表れるよい作者の像と、生身の作者のつながりを通じ、主体的な見る人と主体的な作る人はつながる。だから作る人は新潟絵屋での個展に合意し、関与してくれるのでしょう。

原田佳明という日本舞踊家の伝記を読んでいたら、パリで公演を成功させた原田が「君のような素晴らしい芸術家は、パトロンを見つけなければならない」と忠告を受ける場面がありました。原田はパトロンを探し、見つけるのですが、今の日本の町で、よい作者=よい作者の像を見る人に与える生身の作る人が、経済を支える理解者としての一人のパトロンを見つけることは、残念ながら至難です。一人パトロンに代わるものがあり得るなら、それは複数のパトロン、ファンと呼ばれる小さな支援者たちでしかありえない、と思うのです。

「市民派コレクター」という言葉を新潟絵屋に関心を持って下さった何人かの東京の方々から教えられたのは、3、4年前だったでしょうか。主に画廊を見て回ることを習慣とするうちに、自然に絵を買う行為を続けるようになった、主にサラリーマンである人たちを、そう言うらしいと。そんな市民派コレクターたちがつながって、彼らの好きなよい作者の展覧会を、コレクションを持ち寄って開いたりしている様子に驚くと同時に、作者と見る人を切り離すことに内心性急だった自分の言動に、反省を迫られました。

画廊という場所が公募展とは独立して、見る人たちに親しまれる場所としての歴史を積んできた東京と言う地方の個性も、そこに感じました。東京の市民派コレクターの方々に企画者になっていただき、何人かのよい作者の個展も新潟絵屋で開催させてもらいました。

画廊の歴史の浅い新潟で、そのような市民派コレクターが、ひとつの社会的な層となってくるのは、当分先のことでしょう。かつてそのような層の誕生の兆しさえなかった場所で、作り手たちが、自分の内なる「よい作者」を守ろうと、荘園となることを受け入れ、「中央」の語の魔力を借りつつ、見る人とつながろうとしてきたことも、やむ得なかったかも知れないとも思われてきます。しかし、その新潟で画廊を続けて思うのは、遠くに依らずとも、近くに、よい作者、あるいはよい作者になっていけるだろう人たちが、荘園グループにもそうでない人々にも、確実にいるという見る側からの実感です。そのよい作者、あるいはよい作者の像をなんとか支えたい。支えなければつまらない、と思うのですが、非営利の企画画廊などに関わり、変わらず貧乏な私の独力ではとうてい不可能なことと思い知り、暗澹とした気分に陥ることがしばしばです。この気分を味わったことのない、地方の画廊経営者は、きっといないのではないでしょうか。画廊とは、現実には多分に気分を滅入らせる仕事です。

東京の市民派コレクターの方々との交流は、その中で私に勇気を与えてくれる出来事でした。東京はとても個性的な、好きな地方です。文化的蓄積も大きい。すごいと思えることもいろいろ多い。けれどその大きさ、すごさに気分的に負けてはいけないと、よく自分に言い聞かせます。まだつながることのない、新潟のほんの少しの市民派コレクター的な人たちや、いつか市民派コレクターになっていくかも知れない人たちに向け、自分たちが共感する作品の作者の個展をこつこつ開き続けること。よい作者を支える環境を作るため、それが今ここで私たちのできること、しなければならないことなのだと感じています。
                            
(美術評論家、NPO法人新潟絵屋代表)
                

寄稿…市民派アート活動にエール

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
冊子の巻頭に、次の方々から寄稿をいただいた。
全文を掲載します。
クリックすればジャンプしますのでご一読ください。

大倉宏『よい作者を支えるもの』
立島惠『出会い』 
伊藤厚美『消費と美術』 
太田信之(蓼和之)『“市民派”への思い』 
佐藤よりこ『魂を世話すること』 
沼田英子『市民派コレクターの草分け・小島烏水のこと』
谷川憲正『画廊の一隅から』
水上和則『山下さんと私、そして中国陶瓷器研究のこと』
藤岡泠子『画家の立場から』 

『はじめに』NPO型のアート団体の立ち上げ経緯

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
 この春、東京国立博物館でレオナルド・ダ・ヴィンチ展が開催された。この展覧会は初期の名作『受胎告知』の展覧だけでなく、ダ・ヴィンチの天文学・物理学・解剖学・建築学などへの関心と研究のプロセスを辿ろうとするもので、私はダ・ヴィンチが残した「これらのあらゆる学術の中で絵画こそが最上位に位置すると考えていた」という記述に特に興味を覚えた。芸術とはいったい何なのだろう。我々が生きる上でどういう意味があるのだろうか。

 私は昭和40年代前半に社会に出て損保業界に入り、高度経済成長の時代を生きてきた。仕事は多忙を極めたが充実感もあり、概ね順調で満足できる会社人生であった。しかし私の中には仕事だけでは満たされない渇望感のようなものがあり、もう一つの自分の世界を築き上げたい願望を常に心の隅に感じていた。そんな或る日、本社ビルから歩いてすぐの処にあるブリジストン美術館にフラリと入ったことがあるが、目に止まったのがジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』であった。貧しい労働者街の凍てつく夜の道路に立つ小さな人影、何処かに置き忘れてきた大切なものを見つけた時のような静かな感動に心が満たされた。その時から、私のルオー探索と現代美術コレクション人生が始まったのである 

 私は表面的な美しさより、知的で精神性の高さを感じさせる絵に惹かれる。絵の見方も、目に見えるものを見るというより、絵全体を包む空気を感じたり、作家の思いを読み取ったりすることを楽しみにしている。ジャコメッティーの彫刻に漂う空気感に惹かれ、長谷川等伯の『松林図屏風』やリ・ウーファンの作品に余白の美しさを感じる。絵は見るものではなく、読むものだと思っている。読むとは思索すること。作家が絵に込めようとしたものは何なのか、生きたのはどんな時代だったのか、何を考えて生きていたのかなど。そのためには想像力や歴史観が重要であり、学ぶことも必要である。絵を見る=思索するとは、本当の自分と向き合うことであり、人間や人生について考えることに他ならない。

 元々、定年後の第二の人生は金を稼ぐこととは無縁の何かをしたいと考えていたのであるが、結局、その頃関わったNPO支援団体での経営ノウハウと、30年近い美術コレクションで得た知識・人脈を基盤に、NPO型のアート団体を立ち上げたというわけである。旗印は“生活のなかの生きがい実現”“草の根型アート市民運動”とした。私自身の仕事と趣味の両立、或いは美術への関心が仕事や人生に好影響を与えた生き方を、第一線で働く優秀な男たち等多くの人にも味わって欲しい、芸術とりわけ美術が持つ本当の贅沢を知って欲しいと考えたのである。

 我々アートNPOの活動はささやかなものではあったが、一定の評価を得、順調に発展を遂げてきた。しかし、私の身体の予期せぬ出来事その他思うところもあり、昨年末、アートNPOの旗を降ろす決断をした次第である。私の志しはいまだ道半ばであるが、美術界に新しい風を起こすことだけはできたと思う。・・ダ・ヴィンチが言うように、他の学術より最上位にあるかどうかはともかく、美術は時空を超えて存在する人類の財産であり、人間が生きる上での大きな価値である。そのことを知っただけでも、美術にかかわった意味があったと満足している。2007年12月 山下透



冊子『アート市民たち』のこと

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 冊子『アート市民たち』は草の根型アート推進団体『アートNPO推進ネットワーク』の活動記録である。 私は、会社人生を終えた後の第二の人生は金を稼ぐこととは無縁の何かをしたいと模索していたが、ある時、30年にわたるアートコレクションで得た知識・人脈と、50代後半に携わったNPO支援団体での経験を踏まえた市民派アート活動に思いが至った。こうして、アートとNPOを繋げた組織名称を思いつき、『アートNPO推進ネットワーク』を立ち上げた訳であるが、この活動は多くの支持を得て発展、おおいに成果を上げた。しかし、その後、私の体調変化などもあって、活動縮小を余儀なくされることになり、この時制作したのが、冊子『アート市民たち』である。

 私は、この冊子のタイトルを『アート市民たち』と命名、サブタイトルを“市民派アート活動を支援する人々”とした。確かに、この団体を立ち上げたのは私ではあるが、その活動を支えたのは、この団体の趣旨に賛同して参画した人々である、そう思ったのである。だから、私は、多くのページを私のためでなく、多くの仲間が語る言葉や活動に当てたいと思ったのである。

 この冊子は、2007年12月に1000部制作され、国会図書館など各所に寄贈された。そして、今回、この団体の地道な活動を記録すべく、冊子の一部をネット上に掲載することとした次第である。(2012年5月 山下透 )