アーカイブ『市民派アート活動の軌跡』

「アートNPO推進ネットワーク通信」
小冊子「アート市民たち」

4『絵はぼくを思索に誘う』(AS会誌掲載)

2016年04月06日 | YTアートコレクション
4、ルオー作品とバッハの無伴奏チェロ組曲  

 砂丘館の最も奥まったところは蔵である。一階はギャラリースペースに内装され、常々絵画展示やジャズ演奏などが行われているのだそうだ。ここに現代作家たちの作品が展示されている。独特のマチエールが美しい早川俊二、諧謔的ユーモアある作品の半田強、北海道厚岸の孤高の作家山内龍雄、透明感ある水彩が素晴らしい野坂徹夫、内面化された空間表現の三浦逸雄、力強い線が魅力の横田海や、上野憲男、平澤重信、森本秀樹、中佐藤滋、浅見哲一、呉亜沙などの作品が、いい雰囲気を醸し出している。私の鑑識眼が正しければ、いずれも、今後の活躍が必至な作家たちである。



 蔵の二階から静かにバロック音楽が流れてくる。右手の荒川修作「ボンジュール・ピカソ」を見ながら階段を上がると、そこはまさしくルオーの部屋であった。流れる曲はバロックのチェロ曲。これは大倉さんの提案で私が持ち込んだパブロ・カザルス演奏の、バッハの 無伴奏チェロ組曲 であるが、蔵の天井を支える太い梁の下に並ぶルオー作品に囲まれて聞くバッハは、また格別である。最近、ルオーを語る人が少なくなったが、物質文明を享受する現代人には理解され難いのだろうか。ルオーの作品は一見暗いが、人間の本質を抉りかつ宗教的優しさを持って描いた精神性溢れる世界である。

 展示したルオー作品は、哀しげな表情の道化師を描いた『流れる星のサーカス』の「ピエロ」や、『パッション(受難)』の「この人を見よ」、そして、歴史的名作版画集『ミゼレーレ(憐れみたまえ)』の中の数点、「母たちに忌み嫌われる戦争」、「とこしえの悩みの古き場末に」、「深き淵より」、「正義の人は白檀の木のごとく」である。来館者の何人もの方がルオー作品への感想を残しているが、それぞれの心にしみじみ響いたのであろう、嬉しい限りだ。二階には、この他、浜田知明の「座像」や前田昌良の「変わりやすい気分」などの立体、マコト・フジムラの「贖い(あがない)のふた」が展示されている。

3『絵はぼくを思索に誘う』(AS会誌掲載)

2016年04月06日 | YTアートコレクション
3、砂丘館に溶け込むコレクション作品たち  

 会期が始まって三日目の二五日(土)はギャラリートークの日、あらためて砂丘館全体と我がコレクション作品をじっくり鑑賞することとした。砂丘館はその名の通り新潟砂丘の上にある。明治以後お屋敷町として開発されたこの界隈には、今も幾つか洋館などが残りハイカラな雰囲気を漂わせている。門を入ると車寄せの前庭には立派な枝ぶりの百日紅があり、左手のカーブを描く縁石の脇には地元作家の陶オブジェがどっしりと置かれている。純和風の正面玄関の脇には、『絵は僕を思索に誘う・・山下透コレクション』の看板が立つ。ちょっと気恥かしくもあるが、しみじみ嬉しさがこみ上げる。

 この玄関から三和土に上がり、靴を脱いで左手に入ると、この館の主が訪問客と応対したであろう、ゆったりとした洋間の応接室がある。ここには、まず、岡村桂三郎の夢を喰う中国の想像上の動物「獏」を描いた作品と、集治千晶のニューメキシコの底抜けに明るいお墓をイメージした版画「ハッピー・セメタリー」が掛けられている。「獏」は焼け焦がしたボードに岩絵の具で描いた作品であるが、壁にしっくり納まっている。この応接室の奥には砂丘館の受付を兼ねた書斎があり、草間彌生の油彩「かぼちゃ」と初期版画「靴を履いて野に行こう」が並ぶ。不思議なことに、その古い壁に黒と黄色が鮮烈な「かぼちゃ」の油彩、桃色や緑色・紫色といった極彩色の版画作品が違和感なく溶け込んでいる。ここから奥には幾つもの和室が続くが、すぐ右手の控えの間には、李禹煥の和紙に墨の現代美術「島より」と、戦後の日本人作家として世界の舞台で活躍した第一人者菅井汲の初期版画「果てしない探究」が掛けられている。

 ここから廊下を進んだ左手は和風庭園を前にした二十畳近い座敷であるが、ここはさながらコンテンポラリーアートの部屋といった趣である。まず目にはいるのが、床の間に飾られた李禹煥の油彩「コレスポンデンス(照応)」と、その手前に置かれた流政之の石彫「もどりバチ」である。「照応」は仏・独などヨーロッパを中心に活躍する “もの派 ”作家李禹煥の照応シリーズの初期作品であるが、静寂かつ力強い墨のストロークが床の間の空間に浮いて、余白の美をかたち作っている。そして、NY貿易センタービルのシンボルとして制作した「雲の砦」で国際的評価を得た流政之の石彫「もどりバチ」が屹立している。これは女性のふとももの間の空間を実体化した影の彫刻でもあるが、凛とした姿の何と美しいことか。

 そして、この部屋中央には、日本のアクションペインティングの先駆け、白髪一雄の画面いっぱいに絵の具が渦巻く油彩小品と、戦後の混沌の時代を生きた山田正亮の精神的な彷徨の中から生み出されたストライプ作品が向き合って並ぶ。山田作品の横縞のラインと、左手のよしず戸のすだれ部分が共鳴し合って面白い。部屋の奥の壁には、濃い群青の色彩の中から幾何学的形状が浮き上がる小野木学の美しい抽象「ランドスケープ」が掛けられている。右隣の茶の間を飾るのは、見る者を神話的世界に引きずり込む山口啓介の大型版画「胞子を蒔く船」と浜田知明の風化する街を描いた「ある風景」である。そして、廊下突き当たりの奥座敷の床の間には、軽妙で洒脱な線とフォルムが粋な松田正平の臥牛に跨る明王を描いた「大威徳明王」と、岸田淳平の墨・染料・岩絵の具で愁いを含んだ女を描いた「マリオネット」、次の間には、上野泰郎の現代のイコン「よき訪れ」が飾られている。



 不思議なことに、どの作品も砂丘館の雰囲気に溶け込んで、李禹煥などの抽象作品も和室の床の間にしっくり収まっている。多分、ここを訪ねる鑑賞者の目に入るのはまず建物であり、蔵の梁であり、部屋の佇まいであって、その上で空間と一体になった作品を見ることになる。だから、ここでの作品鑑賞は、作品一点一点の善し悪しだけではなく、作品を包む空気・空間を一緒に楽しむことに意味があるのだと思う。しかも、この砂丘館はまさに生活空間そのもの、美術館や画廊のようなスペースで畏まって鑑賞するのと違って、居間や座敷といった日常生活空間の中で美術を体験できるところに価値があるのである。

2『絵はぼくを思索に誘う』(AS会誌掲載)

2016年04月06日 | YTアートコレクション
2、何故、絵など買うようになったのだろう

 私が本格的に絵を買うようになって、もう三十年を超える。何故、絵など買うようになったのだろう。昭和四十年代前半に損保業界に入り、高度経済成長時代を生きて来た。仕事は充実感もあり、概ね満足できる会社人生であったが、私の心の隅には、もう一つの自分の世界を築きたい願望のようなものが常にあった。そんな頃、日本橋の勤務先会社から直ぐのところにあったブリヂストン美術館で、ジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』を見た。描かれているのは、貧しい場末の風景のなかに佇む三人の人影、キリストと子供たちつまり私たち人間の姿だ。寂しそうな風景だが、肩寄せ合う三人の辺りだけがあたたかい。そこにあるのは、アカデミックな宗教画が描いてきた栄光のキリスト像ではなく、貧しき人々に寄り添う人間キリストの姿であった。この絵は私の心に沁みた。この感動をきっかけに、私はルオーにこだわり、『ミゼレーレ』や『パッション』『流れる星のサーカス』などルオーの版画作品をコレクションしてきた。

私はここ数年、毎年のようにN・Yに旅しているが、楽しみの一つはMOMA(ニューヨーク近代美術館)でジャコメッティやマーク・ロスコなどの近・現代美術を見ることである。元々、初期に海外のコンテンポラリーアートを見る機会が多かったこともあり、抽象絵画を中心とした現代美術が好きである。そんな訳で、ルオー作品と併行して購入してきたのが現代美術であった。初期のコレクションはハワード・ホジキン、ジャン・シャルル・ブレ、マックス・ノイマン、サム・フランシス、アントニ・タピエス、など海外のコンテンポラリー作品であったが、次第に小野木学、菅井汲、白髪一雄、松田正平、李禹煥、草間彌生、山田正亮、マコト・フジムラ、岡村桂三郎など国内作家に広がりを見せてきた。2002年に『アートNPO推進ネットワーク』を立ち上げてからは、目立たないが、いい作品を制作し続ける中堅・若手作家の作品を購入してきた。早川俊二、半田強、山内龍雄、野坂徹夫、三浦逸雄、岸田淳平、横田海、前田昌良、森本秀樹などである。

これらの作品のなかで、今回のコレクション展への出品作を何にするか・・。当初は、新潟という土地柄を考え、海外作家や抽象作品は外し、日本の現代作家の具象作品に限定するつもりであった。しかし考え直し、具象・抽象にこだわらず、かつ私のコレクションの原点ともいえるルオー版画も加えることとしたのだが、結果的に展覧会は好評であった。選んだ作品四十点のプロ写真家による撮影、作家及び作品の紹介文章作り、作品運送手配など、思った以上に大変な作業であったが、どうにか準備を終えた。こうして、七月十七日、特に貴重な作品十数点を愛車に載せて、アシスタントのA子さんと二人、片道三百五十キロの道のりを新潟に向かった。砂丘館は元日本銀行新潟支店長の邸宅である。新潟市が所有するこの昭和初期の建物では、現在、各種芸術・文化活動が行われているが、その館長を務めるのが大倉さんである。この日、大倉さんとA子さんと私は汗をかきながら全作品の梱包を解き、展示したのであるが、洋間、居間、座敷、奥座敷、蔵など夫々に相応しい作品を即座に選び、次々壁に掛けていく大倉さんの手際いい行動に感心してしまった。

1『絵はぼくを思索に誘う』(AS会誌掲載)

2016年04月06日 | YTアートコレクション
1、初めてのコレクション展

 「初めての個人コレクション展である。いままでもコレクション展開催の機会はあったのだが、余り乗り気にならなかった。収集した美術品を人目にさらす行為がいかにも自慢げで、私の性に合わなかったからだ。しかし、今回は、ふとその気になった。何故か。一つには、人間的にも尊敬できる大倉宏氏からのお誘いであったからだ。もう一つは妻を亡くし、自らも癌を患い、一人暮らしも手伝って、聊か厭世気分が強まった数年間であったのだが、このところ体調も回復し、今年は気分転換の年と決めたばかりであった。そして六十歳代半ば、そんな節目の年に人生を振り返ってみるのも悪くはない、そう思ったのである。



そんな時、大倉さんから新潟砂丘館でのコレクション展のお話があった。大倉さんは元新潟市美術館の学芸員であり、美術評論家、そしてNPO型画廊新潟絵屋の代表でもある。この五月、新潟から夜行バスで上京してきた大倉さんとお会いした。大倉さんとは、新潟絵屋&アートNPO推進ネットワークのコラボレーション展覧会を企画した仲でもあり、久しぶりの再会に話が弾んだが、早速、コレクション展の計画概要を伺い、開催期日や出品作品についての打ち合わせに入ったという訳である。

展覧会挨拶 大倉宏氏(美術評論家・砂丘館館長)

2016年04月06日 | YTアートコレクション
『“静謐感”・山下コレクションの声』

 山下透さんとお会いしたのはいつだったか。はっきり思い出せないが、「アートNPO推進ネットワーク」という組織を立ち上げようとされていた時期に、いろいろご連絡いただいたのを思い出す。細やかな連絡の取り方に、いかにもビジネスの世界で生きてこられた人の仕草を感じた。「アートNPO推進ネットワーク」は東京の美術コレクターの方々をコアとして生まれた小組織で、共通する作家のコレクションを持ちより展覧会を開いたり、他地域の画廊に作家を推薦紹介するなどの活動を数年展開し、今は小休止しているが、その活動は「市民派コレクター」という新しい響きの言葉の登場と平行して、時代を先取りする重要な動きだったと思う。

砂丘館でのコレクション展をお願いし、久しぶりに東京でお会いした山下さんは髪も短くなり、心持ち日焼けして元気そうだった。コレクションを置くマンションの一室をサロンにして、美術史家を招き少人数参加の西洋美術史講座を定期的に主宰し、近くイタリアにその仲間で旅行するとのこと。目が輝いて、魅力的だった。ビジネスの世界(会社人生)をしっかり生きてきたこと、ビジネスから離れて行ってきたことがひとつに、自然なかたちで繋がって山下さんの今の幸福を作りだしているようだと感じた。

その山下さんの絵画コレクション(の一部)に触れるのは初めて。この小さなリーフレットができた後にそれらをじっくり見せていただくことになるだろう。送っていただいた写真に感じる印象を口にすれば、深い静謐感とも言うべきものが共通して感じられる。個々の作り手の声である絵が繋がり、重なって、それらを見、感じたもうひとりの「見手」の感性がホログラムのように浮かび上がる。テーマでなく、個人の目で、心で集められたコレクションの味わいだと思う。(大倉宏)
 

挨拶 我が絵画コレクション人生


2016年04月06日 | YTアートコレクション
『好きな絵に囲まれ思索する至福のひととき』



 「私は今、書斎&サロンで、マーラーを聴きながら読書している。流れる曲はルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でも使われた交響曲5番第4楽章“アダージョ”である。好きな絵に囲まれ、珈琲を飲みながら思索する。最高に贅沢なひと時だ。

 コレクション人生も30年を超える。何故絵など買うようになったのだろう。昭和40年代前半に損保業界に入り、高度経済成長時代を生きてきた。仕事は充実感もあり、概ね満足できる会社人生であったが、もう一つの自分の世界を築き上げたい願望を常に心の隅に感じていた。そんな時、ブリヂストン美術館でルオーの『郊外のキリスト』を見て感動、それからである、私のルオー探索と現代美術コレクションが始まったのは・・。

 特にコレクション哲学などという立派なものはないが、私にとっての美術品コレクションは一言で言うなら、“心の贅沢と知的な冒険”ということになるだろうか。芸術とは崇高かつ難しいものである。西洋の古典絵画について言うなら、ヨーロッパの歴史観やキリスト教に関する知識は必須であり、学ぶことも重要である。一方、現代美術は作家自身の生き様の表出であり、作品鑑賞には人間理解や想像力、時代認識が必要である。

 つまり、私にとっての絵画コレクションとは“人生探求の旅”なのかも知れない。私は表面的な美しさより、知的で深い精神性を感じさせる絵に魅かれる。絵の見方も、目に見えるものを見るというより、絵全体を包む空気を感じたり、作家の思いを読み取ったりすることを楽しみにしている。ジャコメッティの彫刻に漂う空気感に魅かれ、長谷川等伯の『松林図屏風』やリ・ウーハンの作品に余白の美しさを感じる。“絵は見るものではなく、読むもの”だと思っている。“絵を読む”とは“思索すること”、もっと言うなら、“本当の自分と向き合うこと”であり、“人間や人生について考えること”に他ならない。(山下透)  

『YTアートコレクション展のこと』

2016年04月06日 | YTアートコレクション


 忙しい仕事の息抜きに絵を見ることを楽しみにしていたが、いつの間にかちょっとしたコレクションになってしまった。元々、個人コレクション展など如何にも自慢げで、私の美学に合わなかったが、尊敬する美術評論家大倉宏氏のお誘いであったので、喜んで開催することとした。大倉宏氏は、画廊新潟絵屋の代表、かつ、新潟市から昭和初期の建物(元日銀支店長邸宅)砂丘館でのアート企画の委託を受けてNPO型のアート活動を続ける美術評論家である。

こうして私は、2009年7月、この砂丘館で、約40点の作品を運びこんでのコレクション展『絵は僕を思索に誘う』を開催することとした。出品作品はルオー版画の他、リ・ウーハンや草間弥生、松田正平など現代美術作品であったが、大変好評であった。大倉さんに感謝!