時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

朝っぱらから寝言をほざくな!

2020年08月30日 | 時のつれづれ・葉月 

多摩爺の「時のつれづれ(葉月の15)」
朝っぱらから寝言をほざくな!

総理の辞意表明から二日、注目された日曜朝のワイドショーを、リモコン片手に梯子で見ていると、
どこの局も、背後にある新聞社の特色が出ているから面白い。

政治には光と陰、功と罪、表と裏というものがあることを踏まえ、

在任期間の7年と8カ月について、光の部分にフォーカスする局があれば、
陰の部分を徹底して掘り下げる局もあり、
この局だったら・・・ たぶん、こうなんだろうなといったストーリーだから、
分かり易いと云えば、分かり易いのだが、
あるワイドショーに出ていた二人の評論家が、個人的には噴飯もののコメントを述べていたので
あえて・・・ 一言、二言、反論をさせてもらいたい。

最初のコメントは、この約8年(長期政権)で、
「戦後の矜持みたいなものが破壊されてしまった。」との発言があったこと
まず、問わねばならないのは、この評論家が云う「戦後の矜持」とは、
いったい何を指しているのかである。

それは・・・ 75年前に犯した戦争という過ちを、世代が変わった今でも謝り続けることなのか?
憲法9条があるから、周辺国が次から次へと繰り出してくる暴挙に対して、
抗議をすることすら慎めということなのか?

日本人は、これから先も未来永劫・・・ 頭を下げ続け、
卑屈な生き方をすることが、先の大戦で学んだ矜持だとでもいうのか?

国の指導者がどうであろうと、政治がどうであろうと、
困難に屈することなく、前を向き進むことが矜持だと私は思う。

阪神淡路、新潟中部、東日本、熊本、北海道胆振を襲った大きな震災において、
さらには、毎年のように起こる、豪雨や台風による自然災害においても、
常に節度を保ち、自己を犠牲にし、他人を思いやる精神、
世界が驚いた高い民度に裏付けられた振る舞いこそが、この国に生まれ育った人間の矜持である。

あなたのような考えを持った評論家が、この国に居ることも、
活動していることも自由だし、否定するものではないが、
公共の電波を使って、意見を述べるまでは許せても、持論を正当化することは間違っている。
さもそれが正論であるかのように、矜持(誇り)という言葉を軽々に使ってほしくはない。

未来を生きる子供たちが、いつまでも卑屈になることがないよう、
言うべきことをハッキリと言い、厳として周辺国と対峙したのが現政権である。

もちろん、政治には光と陰があり、功と罪があり、表と裏というものがある。
とはいえ・・・ 陰だから、罪だから、裏だからといって、矜持が破壊されたというのは、
あまりにも論点が飛躍しすぎ、全く持って根拠が欠けている。
申し訳ないが・・・ 朝っぱらから、寝言を云うのは止めてほしい。

二つ目のコメントは、自分にも責任があると前置きしたものの、
「平成の政治改革が、失敗だった。」との発言があったこと
さらに「小選挙区制の導入によって、
志のある政治家が出て行きにくくなるぐらい、
党や組織の力が強まった。」と続け、
「行政は、税金の無駄遣いをなくす行政改革じゃなく、
省庁の統廃合という、
誰も頼んでいないことをやった。」と述べた。

選挙制度に小選挙区比例代表並立制を導入し、
中央省庁を1府12省庁に再編したのは・・・ いったい誰だろうか?
当時、この案には乗り気ではなかった自民党や共産党に対し、
反自民非共産を掲げ、政治主導の大連立政権を作り、
その中核で、持論を強引に押し進めたのが、当時の与党幹事長である。

その幹事長職にあった人物は、政党を作っては壊しを続け、野党を転々としながら、
選挙が近づくと、頼まれもしないのにフィクサーぶって立ち回り、
いまじゃ、恥ずかしげもなく共産党とまで手を握って、次の選挙に臨もうとしている。

思い起こせば、一時的ではあっても、彼の巧みな口車に乗り、
高熱にうなされたかのように支持していた時期もあった。
きっと、歳を取ってから、悪い麻疹にかかったのだと思うが、ホントに恥ずかしい限りである。
人が成長する過程においては、そういった場面に、幾度となく巡り合うことになるだろうが、
一度学んだことを、忘れないようにしなければ、
また、同じ失敗を繰り返すことになってしまうだろう。

一方で、この評論家が云ってることは、ある意味で捉えれば、的を射てるかもしれない。
とはいうものの・・・ 当時のあなたは、内閣の要職にあったことを忘れてないだろうか?
自らに責任があったと云いつつも、あなたの口から、失敗だったと云われても、
「はい、そうでか。」と、素直に納得することはできない。

大学教授として、政治評論家として、公共の電波でそういったコメントを発するなら、
なにが、どう間違っていたのか?
そして・・・ どうしなきゃならないのか?
それを分かり易く説明しなければ、その席に座って発言する価値すらないだろう。

そして、未だに反省することのない当時の幹事長に、あなたの考えを理解させ、納得させるとともに、
彼の口から、反省の弁を聞かせてくれないだろうか。
それができないならと・・・ 変説したとの誹りを受けざる得ないし、
朝っぱらから、寝言をほざいてる、そこら辺に居るオッサンと・・・ なんら変わらない。

長州(山口県)出身の宰相の幕引きに際し、
薩摩(鹿児島県)に伝わる教えを引用するのは、適切ではないかもしれないが、
薩摩には、第17代当主で猛将と称えられた島津義弘が残した「男の順序(5段階評価)」があり、
これに当てはめてみれば、現政権をどう評価すれば良いのか・・・ 見えてくる。

「男の順序(5段階評価)」
 ・何かに挑戦し成功した者
 ・何かに挑戦し失敗した者
 ・自ら挑戦しなかったが挑戦した人を手助けした者
 ・何もしなかった者
 ・何もせず批判だけしてる者

政治には光と陰があり、功と罪があり、表と裏というものがあるが故に、
成功も有れば失敗もあるだろう。

もちろん、間違いや失敗なんて、ないに越したことはないが・・・ それが政治というものだ。
さはさりながら・・・ いま最も気になるのは、
政治の劣化よりも、メディアの劣化の方ではなかろうか?

光の当て方によって、陰の出来る場所も違うし、その大きさも変わってくる。
メディアが正義を語ることが、けっして悪いと言うのではないが、
時にメディアは政治を上回る力を持つこともある。

事実を客観的に掘り下げ、平等に報道するという視点から外れて、
正義だけを翳すと・・・・ それは既に偏向であり、
メディアとしての役割を終えてしまうことになるだろう。

くどくて申し訳ないが・・・
メディアの劣化が、多くの国民を惑わせている。

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